熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ジャコメッティを観に

2006年06月22日 | Weblog
ジャコメッティの作品展を観に葉山まで出かけた。平日だというのに逗子までの電車は乗車率が高く、みんなどこへ行くのだろうと思いながら乗っていた。降車する客が多かったのは北鎌倉と鎌倉だった。車窓からは寺院とそこへの参拝客、そうした客を目当てにした人力車などが見えた。鎌倉というのは人気スポットらしい。

ジャコメッティの名前は聞いたことがあったが、その作品を鑑賞するのは今回が初めてだ。若い頃の写生から晩年の作品まで、絵画から彫刻まで揃っている。「見えるままに表現する」ことに徹底的にこだわった作家だったそうだ。彼の目に見えていたのはこういうことだったのか、とはじめは驚く。しかし、よくよく考えてみればなるほどとも思う。

物事の認識は誰もが同じという前提で社会はできあがっている。しかし、自分が見えているように、別の人にも見えているのかどうか、実は確かめようがない。日常生活に大きな障害がない以上、色や形、臭いなど五感で知覚するものは共通であるのだろうが、その解釈には個性があるように思う。自分の限られた経験から言うなら、言葉については意味の理解や語彙の運用に微妙な個体差がある。そして、それが共同生活を営む者どうしの間で、時として、決定的な軋轢を生む。さらに時として、その軋轢はとりかえしがつかない。五感の対象についても、言葉程ではないにしても、感性の個体差が認識のギャップを生み出していると思う。

解釈や感受性の個体差を当然のこととして受け入れられる関係ならば、おそらく心地よいであろう。正解か不正解かという二元論的世界観の持ち主とのあいだでは、どれほど些細な個体差も軋轢につながるだろう。そして、それは話し合いでどうこうなる性質のものではない。袂を分かつか殺し合うしかない。それが現実の世の中だ。だから生きることはしんどいのである。せめて自分の生きるささやかな世界には、心地よい関係のひとつやふたつは確保したいものである。