薩摩弁が脳裏に焼き付いて離れない。「紙屋悦子の青春」の舞台は昭和20年春の鹿児島県。戦争映画ではあるが、映像の殆どは紙屋家の居間である。戦闘も空襲もない。戦争という自分ではどうにもならないことのために、日常の風景から親しい人が、心を寄せる人が、静かに去って行く。それでも生活は、多少の寂しさを残しながらも、静かに続いて行く。戦時中という特異な場面でありながら、人々の日常生活は淡々と続いていく。だからこそ、そこから静かにいなくなった人の喪失感が際立つ。
演劇のような映画である。映像よりも台詞が重い。俳優にとっては負荷が大きい作品のように思えるが、出演者は力のある俳優ばかりなので、安心して映像の世界に浸ることができた。
心のそこからいい作品だと感じると、その良さを語る言葉が見つからない。
演劇のような映画である。映像よりも台詞が重い。俳優にとっては負荷が大きい作品のように思えるが、出演者は力のある俳優ばかりなので、安心して映像の世界に浸ることができた。
心のそこからいい作品だと感じると、その良さを語る言葉が見つからない。