熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「人の砂漠」

2010年03月06日 | Weblog
「屑の世界」「鏡の調書」「おばあさんが死んだ」「棄てられた女たちのユートピア」というそれぞれ独立した4作品から成る。どの話も実話なのだそうだが、それぞれ社会から排除された人々を描いている。排除の基準は、当然ながら明確なものではない。およそ世の中に四択から選択するとか、○×で区別することができることなど無い。ただ便宜上そのような単純化を図って、物事の当座の流れを良くしているだけにすぎないのだが、習慣とは恐ろしいもので、物事には全て白黒つくものと頭から信じて疑わない畜生未満の知性しかない輩が少なくないのも事実だろう。

映画として見れば、どの話も事実であることが信じられないようなことであるかもしれない。「屑の世界」の「屑」とは何を指しているのか。作品はこの点について雄弁とは言いがたいのだが、個人的にはこの点が気になった。自分では毎日あらゆる種類の廃棄物を生成しながら、それらの処理を担う人々を敵視したり蔑視したりする。例えば年末年始にゴミの収集がわずか数回ほど休止するだけで、家の中にゴミをもてあまして心地悪い気分になる。本当なら、そこでゴミ収集という事業にどれほど自分の生活が依存しているかを認識して、それに協力するくらいの姿勢を持って然るべきだろう。勿論、意識の高い人々も少なくないだろうが、分別もろくにできず、捨てるべき場所の認識すらできない半ば痴呆のような人々もいて、各地で問題になっているのは周知のことである。捨てられた廃棄物はもちろん屑だが、無作法に捨てる人間は屑以上に始末に困るのではないか。

「鏡の調書」の「鏡」に映っているのは何だろうか。詐欺というのは犯罪だが、騙されるほうに果たして問題が無いケースばかりなのだろうか。確かに、社会は信用で成り立っている。その象徴が通貨だろう。紙幣はそれ自体ただの紙である。本物であろうが贋物であろうが、紙は紙だ。かつては兌換紙幣といって、国庫にある金の量に応じて発行されていたが、今はその裏づけとなる物理的存在は何も無い。ただひたすらに国家に対する信用だけが裏づけだ。例え巨額の負債を抱えていようとも、その負債に返済のあてが無かろうとも、誰もその価値を疑うことはない。不思議なことだが、その幻想の権化のようなものを使って、我々はありとあらゆるものを価格で表現しようとする。幻想のなかを浮遊しているから、夢と現の区別がつかず、間抜けな儲け話を信じて大枚をはたいてみたくなるのだろう。

「おばあさんが死んだ」での死の描かれ方が興味深い。死をテーマに据えた作品は多い。「おくりびと」のなかで腐乱死体となって発見された独居老人や、行旅死亡人となった主人公の父親が描かれていたりするが、映像作品の多くでは、当然のように、たとえ身寄りのない人の死であっても、それを暖かく見送る人々がいるものとして描いている。しかし、本作のように、死が厄介なものとして扱われることも、現実には少なくないだろう。少しばかり協調性に欠けたところのある主人公が、病気で息子を失い、その息子を死を認めることができずに、結果として、息子のミイラ化した死体とともに暮らし、ついに自らも餓死するに至る。作品のなかでは、主人公の性格あるいは精神に問題があって、それが彼女と息子を追い詰めてしまうことになっているかのように描かれている。しかし、周囲と常識的な関係を持ちながら日常生活を営んでいる人でも、孤独死してしまうことはかなり一般的な現象になりつつあるのではないだろうか。かくいう私も天涯孤独の身である。今は親もいれば子もいるが、どちらも同居しているわけではないし、おそらく親はそう遠くない将来にいなくなるだろうし、子供との関係もどうなるかわからない。誰にも看取られずに死ぬ確率はかなり高い。それで、そうなったときにできるだけ私の死にかかわる人に手間をかけぬよう、いろいろなことを少しずつ整理し始めている。いざ始めてみると、めんどくさくて容易に捗らない。完成形としてイメージしているのは、一冊のそれほど厚くないファイルにマニュアル化してまとめ、自分の手許に置いておき、写しも作ってそれを取り敢えず子供に渡しておくつもりでいる。

「棄てられた女たちのユートピア」もある意味では死を扱っていることになるのかもしれない。死というのは物理的に生命活動を停止した状態を指すのが一般的だろうが、生命活動が活発でも社会とのつながりを失ってしまうという意味で死同然の状態にある、というのも死ではないだろうか。主人公が警察のおせっかいで入所している施設ではなく、実家に連れ戻される場面がある。そこで警察官がインターホンに「娘さんを連れてきました」と告げると返ってきた返事は「娘は死にました」である。生きているとはどういうことなのか、死とは何か、というようなことを考える契機にもなる作品だと思う。

これらの作品を観て、原作本を読もうという気にはならなかった。70年代も今も人の社会というのはそれほど変るものではないだろうが、当時に比べて平均的な生活水準が向上した分、人の精神が脆弱になっているような気もする。そういう点で、本作でとりあげられたような現場は以前よりも悲惨の度合いが濃くなっているような気がしないでもない。いずれにしても、見応えのある真面目な作品だった。