熊本熊的日常

日常生活についての雑記

四面楚歌

2010年03月29日 | Weblog
愛用のデジタルカメラの電源が入らなくなってしまった。それで、メーカーの修理窓口へ持参して見てもらうことにした。それが今日、修理を終えて手許に戻ってきた。修理内容はメインのプリント基板の交換であった。

カメラに限らず、近頃の電気製品は故障すると、故障の箇所は特定できてもそれを修理することができず、部品を丸々交換するに至ることが多い。先日、携帯電話が通話やメールの途中で電源が落ちるようになってしまったが、これはドコモショップに持っていったら電話機そのものの交換になった。電気製品の内部の機構部品の割合が減って電子部品の割合が増えているということなのだろう。要するに、基板に実装されている半導体やそれらの結合体としての部材が増えており、これらは内部が微細に過ぎて不具合が生じた場合には交換以外に対応のしようが無いということなのだ。

この電子部品の発達によって我々の生活は確かに便利になった。携帯電話などその最たる例だろう。携帯電話というものが登場した頃は、本体がショルダーバッグのようになっていて、しかも重かった。バッテリーはすぐに消耗するので、実際に携帯して使うにはかなり無理があり、自動車電話のように電源が確保されている移動体に付属させて使用されることが多かった。値段も通話料も高額だったので誰もが保有できるものではなく、法人需要が中心だった。それがあれよあれよという間に小さくなり、機能も増え、通話品質も安定し、誰もがひとつやふたつは所有するのが当たり前のものになった。この背景には部品の微細化というものが当然にある。

家電製品も「おまかせ」機能がついているのが当たり前になったのも、機能を特化させたコンピューターを搭載しているからだ。製品全体のデザインに影響を与えずに機能を強化できるのは、そうした電子部品が微細になったからである。

なるほど電子機器が微細になって身の回りのものが便利になるのはけっこうなことである。しかし、微細になるということは肉眼では見えない仕組みを備えているということでもある。最先端の半導体のなかの回路を構成しているのは幅数十ナノメートルの導線だ。「ナノメートル」という単位のものなど、人間の手作業でどうこうなるわけもない。ちなみに、人間の頭髪断面の直径は80ミクロン前後だそうだ。1ミクロンは1,000ナノメーターなので、頭髪断面の直径をナノメーターで表現すれば8万ナノメータ。昔「ミクロ決死隊」という映画があったが、もはやミクロの世界はSFにすらならないのである。

つまり、我々が普段使うものは、その仕組みがよくわからないものばかりになっているのである。勿論、仕組みなど知らなくても使い方さえ知っていれば不自由は無い。ただ、わけのわからぬものをわかったようなつもりになって使うという習慣がついてしまうのは危険なことのように思う。生活を支える道具類が利用者にとってのブラックボックスの塊のようになり、それが利用者の思い通りに動くのなら問題はない。しかし、形あるもの必ず壊れるというのは、依然として普遍性を失わない原理原則のひとつである。そのブラックボックスが壊れて利用者の意図に反した動作をするようになったとき、我々は適切に対応できるのだろうか。

電源を入れるという動作をしたのに、その機器に電源がはいらない、というのは、デジタルカメラなら然したる不都合はないが、例えば病院で患者の治療に使う機器であったり、非常時に動作しなければならない安全装置であったりした場合には、大いに問題があるだろう。一時期問題になっていたプリウスに関する騒動も根は同じことだろう。科学技術の発達を否定するつもりは毛頭無いが、ふと気がつけば自分の生活がわけのわからない機器類に振り回されているというのは怖いことだと思う。