本を読む時は必ず付箋を用意している。自分の琴線に触れた箇所には片っ端から貼り付けながら読み進むのである。読み終わってから、付箋のところを拾い読みして、それほど面白くなければ付箋を剥がしてしまう。残った付箋のところをノートに書き写すのである。そのノートはクレディセゾンの決算説明会で頂いたハードカバーのもので、使いにくいが耐久性がありそうなので、こうした用途にいいだろうと思い、使っている。頂いてから使い始めるまで、少し間があるのだが、最初に書いたのは片岡義男「日本語で生きるとは」(筑摩書房)のなかの文章だ。書き写すのは面倒なので、写す文を厳選している。使い始めて4年になるが、ようやく半分程度埋まろうとしている。
昨日、レターケースを持ち帰って、家にある棚の上を整理したら、付箋を貼りっぱなしした本が何冊も出てきた。それで、それらの本を整理して、書き写しが終わったら売りに出してしまうものと、書き込みをして手許に残すものとに分けてしまう。最初に手にしたのが池田晶子の「無敵のソクラテス」(新潮社)。ソクラテス対話集形式の創作をまとめて今年1月に発行されたものだ。抱腹絶倒でしかも納得できる内容のものなので、手許に残すつもりで、鉛筆で書き込みをしながら付箋箇所を中心に再読した。
この本から書き写しておこうと思ったのは、例えばこんな文言だ。
「生命と価値とはじつは関係がない」
「いったい誰が自分でこの生命を作ったというのだ。誰が自分でこの生命を手に入れたというのだ。最初から自分のものでもないものを、自分のものだと言おうとするから、おかしなことになるのだよ。」
「何かを何かと言うためには、何かというその言葉が存在しなければならないのだ。何かが存在するということは、その言葉が存在するということなのだ。存在とは言葉に他ならないのだ。」
「金で買えるような快楽が、いったいどうして価値なんだか」
「言論は自由なんかじゃなくて必然だからだ。…それらが全ての人に理解されることができるのは、それが誰か個人の考えではないからだ。」
「自分ひとりのどうのこうのを気にするのさえやめれば、これ以上悠々たる眺めはないね。」
「誰彼の区別が必要な考えは、論理ではなく人生観と呼ぶべきじゃないかと思うね。」
「人間とは常にその人間観の語るところのものだ。「しょせん人間は」と語る人間は、しょせんそれだけの人間だと僕は言ってるんだよ。誰も自分の知らないことは、生きられないものだからね。」
「物質に価値を与えるのが精神なら、精神に価値を与えるのも、当の精神でしかない」
「生れちまったってそのことは、諦めるしかない」
「時間が過ぎ去るのでも人生が過ぎ去るのでもなくて、両方一緒に過ぎ去っているから、じつは何ひとつ過ぎ去ってはいないのではないかという気がするのです。」
「国民の意見という民意とは、平たく言えば、ひとりひとりの国民の利己的欲望のことではないのかね。」
「人が言葉を面白いと感じるのは、それが禁制を破るときだもの。」
「自分の理解できないものに無心で接することができないから、強引な仕方で理解するんだね。でも、それは決して理解したことにはなっていない。」
「僕らが誰か人を信頼するのは、その人の考えがその人の生き方を裏切らず、その人の生き方がその人の考え方を示している、そういうときだけだ。「一切の価値は無根拠である」、彼はずっとそう言ってきた。つまり、僕らが生きて在るということには何の意味も目的もない、とね。そんなことは当たり前だ。思想家の言を待って、僕らはそれを知るわけじゃない。言ってもしょうがないから、みんな黙って生きているんだ。だからこそ、僕らは、うそつきは要らない。信頼できる人を、十全の信頼でもって、信頼したいんだ。」
「この世の誰がいったい歴史の外に立ってそれを見る眼をもっているのかね。そんなことができると思っているのは、生れてこのかた生きたことのない理屈屋だけだよ。」
「一触即発の紛争地帯で日々を生きている人々が、その事態をうまく言い当ててくれる説明を求めるものだろうか。」
「人に見られなきゃ贅沢できないなんて、こんな貧相なことはないものね。お金で見栄を張る人は、心や頭が人には見せられない貧相なものだってこと、ほんとうは自分でようく知っているからこそ、そうしているのだからね。」
「人はウソに弱いのだ。ウソやウソのことを言う人を好んで、本当のことや、本当のことを言う人を怖れるのだ。なぜ怖れるかって、自分のウソを知っているからだ。自分がウソを言い、ウソを生きていることを知っているから、本当のことを知るのを怖れるのだ。」
「自分自身が善く生きていないことを知っているから、人は何かに誇りを求めるのではないのかね。善く生きている人は、何かに誇りを求めなくても、それ自体が誇りなのではないのかね。」
「自分には親がいる、人はこれには驚く、深く驚く。なぜなら、そこには、いかなる理由も見出せないからだ。」
「家族が家族である理由は、血のつながりあるというそのことだけであって、ほかに理由なんか、なんにもないのだ。あるのは偶然だけなのだ。だからこそ家族には、常に擬制が必要なのだ。」
「子供にとっての自立の契機とは何か。それは、他人だ。この世の中には他人というものが存在するということを知ることだ。そして、子供にとって、この世で最初の他人というのが、父親なのだ。父親が、自分のことを他人とみる最初の他人だ、第三者なのだ。一人称の自分、二人称の母親、この閉じられた関係に、三人称としての父親が登場してくることになるのだ。だから、父親が、その役回りをきちんと演じてみせないことには、子供は決して自立できないわけだね。」
「自分は自分であって親から生れてきたのではないということを自覚している人にとっては、家族ってのは役割演技でしかないんだが、人がそのことをきちんと自覚できるようになるためには、やっぱり家族の演技が必要なわけだね。」
「家族は孤独の避難所ではなく、自分の孤独を学ぶところだ。」
「懐疑という父親と、自己愛という母親の間に生れる子供とは、では何か。それが、他でもない、この自分、自分という精神そのものなのだ。精神とは、懐疑と自己愛すなわち否定と肯定との弁証法、したがって、この両者の間に生れた自分とは、両者を止揚するところの純粋精神だったのだ。出生とは、なんとまあ、純粋精神の正・反・合、弁証法的統一のことだったのだよ。」
「子供が自分は自分である、自分は純粋精神であるということを自覚する契機とは何か。これが内なる弁証法、すなわち、親殺しだ。」
「完璧なる子育ての結果は、完璧なる親殺しで終わるってわけだ。」
500ページほどの本の内容も、これほどに凝縮してみると、かえって内容がよく見えてくるような気がする。ここに書かれているようなことに共感できる人となら、親交を結べるような気もする。
昨日、レターケースを持ち帰って、家にある棚の上を整理したら、付箋を貼りっぱなしした本が何冊も出てきた。それで、それらの本を整理して、書き写しが終わったら売りに出してしまうものと、書き込みをして手許に残すものとに分けてしまう。最初に手にしたのが池田晶子の「無敵のソクラテス」(新潮社)。ソクラテス対話集形式の創作をまとめて今年1月に発行されたものだ。抱腹絶倒でしかも納得できる内容のものなので、手許に残すつもりで、鉛筆で書き込みをしながら付箋箇所を中心に再読した。
この本から書き写しておこうと思ったのは、例えばこんな文言だ。
「生命と価値とはじつは関係がない」
「いったい誰が自分でこの生命を作ったというのだ。誰が自分でこの生命を手に入れたというのだ。最初から自分のものでもないものを、自分のものだと言おうとするから、おかしなことになるのだよ。」
「何かを何かと言うためには、何かというその言葉が存在しなければならないのだ。何かが存在するということは、その言葉が存在するということなのだ。存在とは言葉に他ならないのだ。」
「金で買えるような快楽が、いったいどうして価値なんだか」
「言論は自由なんかじゃなくて必然だからだ。…それらが全ての人に理解されることができるのは、それが誰か個人の考えではないからだ。」
「自分ひとりのどうのこうのを気にするのさえやめれば、これ以上悠々たる眺めはないね。」
「誰彼の区別が必要な考えは、論理ではなく人生観と呼ぶべきじゃないかと思うね。」
「人間とは常にその人間観の語るところのものだ。「しょせん人間は」と語る人間は、しょせんそれだけの人間だと僕は言ってるんだよ。誰も自分の知らないことは、生きられないものだからね。」
「物質に価値を与えるのが精神なら、精神に価値を与えるのも、当の精神でしかない」
「生れちまったってそのことは、諦めるしかない」
「時間が過ぎ去るのでも人生が過ぎ去るのでもなくて、両方一緒に過ぎ去っているから、じつは何ひとつ過ぎ去ってはいないのではないかという気がするのです。」
「国民の意見という民意とは、平たく言えば、ひとりひとりの国民の利己的欲望のことではないのかね。」
「人が言葉を面白いと感じるのは、それが禁制を破るときだもの。」
「自分の理解できないものに無心で接することができないから、強引な仕方で理解するんだね。でも、それは決して理解したことにはなっていない。」
「僕らが誰か人を信頼するのは、その人の考えがその人の生き方を裏切らず、その人の生き方がその人の考え方を示している、そういうときだけだ。「一切の価値は無根拠である」、彼はずっとそう言ってきた。つまり、僕らが生きて在るということには何の意味も目的もない、とね。そんなことは当たり前だ。思想家の言を待って、僕らはそれを知るわけじゃない。言ってもしょうがないから、みんな黙って生きているんだ。だからこそ、僕らは、うそつきは要らない。信頼できる人を、十全の信頼でもって、信頼したいんだ。」
「この世の誰がいったい歴史の外に立ってそれを見る眼をもっているのかね。そんなことができると思っているのは、生れてこのかた生きたことのない理屈屋だけだよ。」
「一触即発の紛争地帯で日々を生きている人々が、その事態をうまく言い当ててくれる説明を求めるものだろうか。」
「人に見られなきゃ贅沢できないなんて、こんな貧相なことはないものね。お金で見栄を張る人は、心や頭が人には見せられない貧相なものだってこと、ほんとうは自分でようく知っているからこそ、そうしているのだからね。」
「人はウソに弱いのだ。ウソやウソのことを言う人を好んで、本当のことや、本当のことを言う人を怖れるのだ。なぜ怖れるかって、自分のウソを知っているからだ。自分がウソを言い、ウソを生きていることを知っているから、本当のことを知るのを怖れるのだ。」
「自分自身が善く生きていないことを知っているから、人は何かに誇りを求めるのではないのかね。善く生きている人は、何かに誇りを求めなくても、それ自体が誇りなのではないのかね。」
「自分には親がいる、人はこれには驚く、深く驚く。なぜなら、そこには、いかなる理由も見出せないからだ。」
「家族が家族である理由は、血のつながりあるというそのことだけであって、ほかに理由なんか、なんにもないのだ。あるのは偶然だけなのだ。だからこそ家族には、常に擬制が必要なのだ。」
「子供にとっての自立の契機とは何か。それは、他人だ。この世の中には他人というものが存在するということを知ることだ。そして、子供にとって、この世で最初の他人というのが、父親なのだ。父親が、自分のことを他人とみる最初の他人だ、第三者なのだ。一人称の自分、二人称の母親、この閉じられた関係に、三人称としての父親が登場してくることになるのだ。だから、父親が、その役回りをきちんと演じてみせないことには、子供は決して自立できないわけだね。」
「自分は自分であって親から生れてきたのではないということを自覚している人にとっては、家族ってのは役割演技でしかないんだが、人がそのことをきちんと自覚できるようになるためには、やっぱり家族の演技が必要なわけだね。」
「家族は孤独の避難所ではなく、自分の孤独を学ぶところだ。」
「懐疑という父親と、自己愛という母親の間に生れる子供とは、では何か。それが、他でもない、この自分、自分という精神そのものなのだ。精神とは、懐疑と自己愛すなわち否定と肯定との弁証法、したがって、この両者の間に生れた自分とは、両者を止揚するところの純粋精神だったのだ。出生とは、なんとまあ、純粋精神の正・反・合、弁証法的統一のことだったのだよ。」
「子供が自分は自分である、自分は純粋精神であるということを自覚する契機とは何か。これが内なる弁証法、すなわち、親殺しだ。」
「完璧なる子育ての結果は、完璧なる親殺しで終わるってわけだ。」
500ページほどの本の内容も、これほどに凝縮してみると、かえって内容がよく見えてくるような気がする。ここに書かれているようなことに共感できる人となら、親交を結べるような気もする。