暑いので汗をかく。これは自然なことである。汗をかけば汗臭くなる。これも自然なことである。汗の臭いが好きだという人もいるだろうが、それを不快に思う人もいる。外に出れば、周囲への気配りというのは多少なりともするのが文明というものだ。
実家からの帰り道、埼京線に乗って、席が空いていたので座った。ベンチシートの真ん中あたりである。右側の端に白い半ズボンで素足に白い革靴の30代くらいの男性が腰掛けて携帯をいじっていた。最初は股を少し開き気味にして座っていたのが、足を組んだ。組むというより右脚を左肢に乗せたような形である。途端に妙な臭いが漂ってきた。私と彼との間には2人分くらいの空間があるにもかかわらず、結果として私のほうに近づいた彼の右足付近から強烈な臭気が噴出しているのである。
「うっぐっ」と思いつつそのまま座っていた。次の駅で太った若者が私と素足兄さんの間に座った。少しは防護壁のようになるかもしれないと、期待した。程なくして、デブ兄ちゃんの嗅覚が刺激されたらしく、自分が着ているポロシャツの胸の辺りをつまみあげて自分の胸部の臭いを嗅ぎ始めた。自分も臭いのだろうが、彼の嗅覚を刺激したのが自分の体臭ではないことを確認できたと同時に、その臭いのもとに見当がついたのだろう。座った位置を少し私のほうにずらしてきた。
女性の靴は足を覆う部分が小さいので素足で履いてもそれほど支障はないのだろうが、男性の靴は足をすっぽりと覆うので、そこに足の表面から分泌される諸々が滞留することになる。靴下には様々な役割があるのだが、殊男性に関しては、そうした諸々の吸収も期待されている。吸収されるものがなく、しかも夏の暑い中を歩き、他の季節異常に諸々が多いときに素足で革靴を履いたらどういうことになるかという想像力が働かないということに驚愕せざるを得ない。
埼京線というのは何かと話題の多い路線だが、そうした話題の背景には沿線の文明が希薄であるということもあるのかもしれない。例えば同じようなことが東横線でも経験できるのか、ということだ。東横線といえば、近々、渋谷駅が地下に移り、地下鉄副都心線との相互乗り入れが始まる。東横線沿線住民の間ではこの動きに対して否定的な意見が多いのだそうだ。副都心線には既に西武池袋線と東武東上線が相互乗り入れをしており、そうした路線とつながることで、自分たちが住んでいる地域の資産価値が低下することを懸念しているのだという。そんな馬鹿なことがあるものか、と思うのは私がこれまで所謂「高級住宅街」というものとは無縁の暮らしを送ってきたからで、そうしたしょうも無いことに敏感な人というものは確かにいるのだろう。
そういえば、実家に届いていた私宛の郵便物のなかに、出身高校の広報誌があった。来年から高校の新入生の募集を止め、本格的に中高一貫教育に移行するという記事があった。公立ですら中高一貫校が生れている時勢なので私立ならなおさらのことなのだろう。中高一貫化の理由がいろいろ書いてあったが、結局のところは公立中学の質の低下というものがあるということなのだろう。都内では小学生の7割が私立や国立の中学を受験する、という話を聞いたことがある。東京は私立校が多いので、それだけ選択肢が多い結果として、受験者も多くなるという事情もあるだろうが、公立校を避けたいと思わせるような状況があるのも事実なのではないだろうか。
平和な時代が長く続いた結果として、社会の階層分化が進行するのはよくあることだろう。個々人にとっては、そうした階層に護られることで生活の安定が得られるのかもしれないが、社会としては果たしてそれはよいことなのだろうか。人の生活というのは世界中とつながっている。好むと好まざるとにかかわらず、自分が生れ育った環境とは全く異質の暮らしを送る人々と生活を共有しているのである。そうしたなかで生き抜くには、多様な文化や文明に対する対応力というようなものも当然に必要だろう。階層化によってそうした多様性を経験する機会が少なくなってしまうのは、結果として人の活力を奪ってしまうことになるのではないだろうか。小泉政権が任期満了で終わった後の、安倍、福田、麻生、鳩山のボンボン宰相政権がいずれも短命に終わっているのは、詰まるところは本人の人としての強さに欠けるものがあったから、また、そうした強さを試される経験が首相に就任するまでに十分に蓄積されていなかったからということではないのだろうか。
身体から獣並みの臭気を発する奴と触れ合う機会を忌避するのではなく、そういう輩とも折り合いをつける能力を養うことが生きていく上では重要であるように思う。それにしても臭かった。
実家からの帰り道、埼京線に乗って、席が空いていたので座った。ベンチシートの真ん中あたりである。右側の端に白い半ズボンで素足に白い革靴の30代くらいの男性が腰掛けて携帯をいじっていた。最初は股を少し開き気味にして座っていたのが、足を組んだ。組むというより右脚を左肢に乗せたような形である。途端に妙な臭いが漂ってきた。私と彼との間には2人分くらいの空間があるにもかかわらず、結果として私のほうに近づいた彼の右足付近から強烈な臭気が噴出しているのである。
「うっぐっ」と思いつつそのまま座っていた。次の駅で太った若者が私と素足兄さんの間に座った。少しは防護壁のようになるかもしれないと、期待した。程なくして、デブ兄ちゃんの嗅覚が刺激されたらしく、自分が着ているポロシャツの胸の辺りをつまみあげて自分の胸部の臭いを嗅ぎ始めた。自分も臭いのだろうが、彼の嗅覚を刺激したのが自分の体臭ではないことを確認できたと同時に、その臭いのもとに見当がついたのだろう。座った位置を少し私のほうにずらしてきた。
女性の靴は足を覆う部分が小さいので素足で履いてもそれほど支障はないのだろうが、男性の靴は足をすっぽりと覆うので、そこに足の表面から分泌される諸々が滞留することになる。靴下には様々な役割があるのだが、殊男性に関しては、そうした諸々の吸収も期待されている。吸収されるものがなく、しかも夏の暑い中を歩き、他の季節異常に諸々が多いときに素足で革靴を履いたらどういうことになるかという想像力が働かないということに驚愕せざるを得ない。
埼京線というのは何かと話題の多い路線だが、そうした話題の背景には沿線の文明が希薄であるということもあるのかもしれない。例えば同じようなことが東横線でも経験できるのか、ということだ。東横線といえば、近々、渋谷駅が地下に移り、地下鉄副都心線との相互乗り入れが始まる。東横線沿線住民の間ではこの動きに対して否定的な意見が多いのだそうだ。副都心線には既に西武池袋線と東武東上線が相互乗り入れをしており、そうした路線とつながることで、自分たちが住んでいる地域の資産価値が低下することを懸念しているのだという。そんな馬鹿なことがあるものか、と思うのは私がこれまで所謂「高級住宅街」というものとは無縁の暮らしを送ってきたからで、そうしたしょうも無いことに敏感な人というものは確かにいるのだろう。
そういえば、実家に届いていた私宛の郵便物のなかに、出身高校の広報誌があった。来年から高校の新入生の募集を止め、本格的に中高一貫教育に移行するという記事があった。公立ですら中高一貫校が生れている時勢なので私立ならなおさらのことなのだろう。中高一貫化の理由がいろいろ書いてあったが、結局のところは公立中学の質の低下というものがあるということなのだろう。都内では小学生の7割が私立や国立の中学を受験する、という話を聞いたことがある。東京は私立校が多いので、それだけ選択肢が多い結果として、受験者も多くなるという事情もあるだろうが、公立校を避けたいと思わせるような状況があるのも事実なのではないだろうか。
平和な時代が長く続いた結果として、社会の階層分化が進行するのはよくあることだろう。個々人にとっては、そうした階層に護られることで生活の安定が得られるのかもしれないが、社会としては果たしてそれはよいことなのだろうか。人の生活というのは世界中とつながっている。好むと好まざるとにかかわらず、自分が生れ育った環境とは全く異質の暮らしを送る人々と生活を共有しているのである。そうしたなかで生き抜くには、多様な文化や文明に対する対応力というようなものも当然に必要だろう。階層化によってそうした多様性を経験する機会が少なくなってしまうのは、結果として人の活力を奪ってしまうことになるのではないだろうか。小泉政権が任期満了で終わった後の、安倍、福田、麻生、鳩山のボンボン宰相政権がいずれも短命に終わっているのは、詰まるところは本人の人としての強さに欠けるものがあったから、また、そうした強さを試される経験が首相に就任するまでに十分に蓄積されていなかったからということではないのだろうか。
身体から獣並みの臭気を発する奴と触れ合う機会を忌避するのではなく、そういう輩とも折り合いをつける能力を養うことが生きていく上では重要であるように思う。それにしても臭かった。