熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ひとりたのしむ」

2010年07月13日 | Weblog
熊谷守一の作品が特別好きというわけではないのだが、不思議と気になる作家である。何をきっかけに彼の作品を知ったのか、今となっては記憶が無いのだが、日経新聞の「私の履歴書」をまとめた「へたも絵のうち」や画文集「ひとりたのしむ」などに散りばめれている作家の言葉に強く惹かれる。絵も所謂「守一スタイル」が確立された後の油絵作品は抽象画のようにも見えるが、なんとなく日本画独特の世界観が漂っていて、同じ空気を呼吸している親しさのようなものが感じられる。そんな思いが伝わったのか、何年か前に友人から熊谷守一の画文集「熊谷守一の猫」をプレゼントして頂いたこともある。その人が何故私に熊谷守一の画文集を選んだのか、尋ねてみようと思っているうちに、いつの間にか疎遠になってしまった。

絵のほうは私の拙い表現力では語ることができないので、「ひとりたのしむ」にある熊谷の言葉から、自分の琴線に触れたものを引用する。

「紙でもキャンバスでも何も描かない白いままがいちばん美しい」

「できないということは面白いです。かあちゃんにいわせると、そんなときは、面白いって顔してないそうですけどね。」

「絵を描くのに場合によって、初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい。描くことによって自分にないものが出てくるのが面白い。」

「一般的に、言葉というのはものを正確に伝えることはできません。絵なら、一本の線でもひとつの色でも、描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色は誰が見ても青色です。しかし言葉の文章となると、「青」と書いても、どんな感じの青か正確にはわからない。いくらくわしく説明してもだめです。わたしは、ほんとうは文章というものは信用していません。」

「まあ、仕事したものはカスですから。カスっていうものは無いほうがきれいなんだよ。」

いずれも90歳を過ぎてからの言葉だそうだ。物事を真摯に観察したり考えたりした人が語ることはよく似ている。何も描いていない白いままの紙やキャンバスがいちばん美しい、という思いは、フォンタナの切り裂かれたキャンバスや、ある種の禅画にも通じるところだろう。言葉の話にしても、先日このブログの「無敵のソクラテス」で紹介したように、池田晶子の著作に頻繁に登場するテーマのひとつで、他にも似たような話は様々な場面で耳にすることだ。仕事のことも、小林秀雄が永井龍男との対談「芸について」のなかで語っている「仕事が楽しみでなくて、一体仕事とは何だい。」と同じことだろう。

私も、今は遊びの域を出ないのだが、陶芸をやっている。まだ始めてから実質的には丸2年程度でしかないのだが、私が好きなのは茶碗でも鉢でも皿でも、単純な形に透明釉をかけただけのものだ。技法としては象嵌も、練り込みも、化粧も、絵付けも、その他いろいろあるし、釉薬にしても多くの種類があり、それらをかけ分けることで表現の種類は無数に生れる。しかし、どれほど技巧に優れた人の作品であれ、人が作ったものはその人の技量の制約のなかでの表現でしかない。まして私の拙い技能で絵付けや化粧をしたところで、何もしないで釉をかけただけにしておいたほうが、窯のなかの熱や火が勝手につける模様や佇まいにはかなわないと思うのである。それを言い出すと、そもそも何もしないのがいちばんよい、ということになってしまう。少なくとも私に関しては、その通りだと思うのだが、生きているということはそのために必要な自我もあるということで、そのあたりのもやもやを満足させるには何もしないというわけにもいかないのである。先日の「会心作は偶然に」「曜変志野茶碗」で紹介したように、上手い具合に梅花皮が現れたり窯変を起こしたりするのは、作り手の意志とは関係のないところで起こることだ。自分が欲していることと眼前にある現象との乖離が、時に落胆をもたらし、時に歓喜をもたらす。その乖離の大きさは、個別具体的な事象に関しては鍛錬や修練である程度は小さく収めることができるのだろうが、人生丸ごととなると、どうにかなるものでもあるまい。そういう無力感に酔うことが生きていることの楽しみでもあるように思う。