BBCラジオで福島の原発関係者のインタビューを放送していた。インタビューを受けていたのは原発の職員で、事故後の復旧作業に従事していた所謂「Fukushima 50」のひとりとのこと。もともとのインタビューは日本語で行われていて、放送に際してボイスオーバーによって英語に通訳されていた。世間では英雄のように報道されていたのを知ってか知らずか、ご本人は至って淡々と聞かれたことに答えているといった風情だ。別にBBCに限ったことではないが、ヒーロー・ヒロインを作りたがるマスメディアと当事者との様々な意味におけるギャップが興味深い。私がそうしたヒーロー・ヒロインと無縁であるから余計にそう思うのかもしれないが、自分の生活を守ろうとするなら無闇にヒーロー・ヒロインとかかわりあわないほうが良い。あれは消費財だ。消費財は消費されれば消えてなくなってしまうものだ。自分というものも遅かれ早かれなくなるのだから、そういう華やかな世界にかかわったほうがよい、という考え方も当然あるだろう。踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損々 ということだ。しかし、そのご利益が自分の終わりまで続くのならそれでよいかもしれないが、それまで培ってきたものが引っ掻き回されてつかいものにならなくなってしまった挙げ句に自分だけが取り残されるなら、やはり消費するということに関しては慎重であるに越したことはないだろう。目先のことに幻惑されてはいけない。
ところで今日はいけばな展の招待状を頂いてあったので、その展覧会を観に東京セントラル美術館へ出かけた。午前11時開場とのことだったが、11時を過ぎても準備の遅れで開場していなかったので、伊東屋で時間をつぶした。ちょうど手ぬぐいの展示販売をしていて、いくつかの商品を手にしてみると殆どが注染だったので何本か買い求めた。手ぬぐいについては昨年の今時分に美大のスクーリングで都内にある染色工場を見学したので制作工程も卸値も知っているのだが、売り場の人があれこれ説明してくれるので、それはそれとして楽しく聴かせていただいた。手ぬぐいの柄は眺めているだけでも楽しいが、個人的には具象よりも抽象のほうに惹かれる。モチーフの根っ子の部分だけが残るように余計なものを捨て去る思考の過程を想像する愉しみというものがあるからだ。今目の前にあるものから捨て去ったものを想像する、何事かを捨てながら後に残るものを考える、有と無との間の往来というのも人それぞれの世界観の現れだろう。有しか見えないというのは単なる阿呆だし、無しか見ないのも不幸なことだ。何事もバランスが肝要だ。
いけばな展というのはこうして招待券を頂く機会がないと足を運ばないが、流派によって程度の差はあるものの、人間の業とか残酷さの表現であるように思う。しかし、それを言い出したら、人間の活動はあまねく業の表現だ。
いけばな展の後、出光美術館で「悠久の美」を観てから根津の大名時計博物館を訪れる。この博物館の存在は以前から知っていたのだが、訪れたのは今日が初めてだ。地図をプリントして持ってくればよかったのだが、薄弱な記憶を頼りに探したので、雨が降っているというのに少しまごついてしまった。
なぜここを訪ねようと思ったかといえば、先日、日本民藝館で「志功流お茶の楽しみ」というイベントに参加した折、講師の石井頼子さんが棟方と上口愚朗の縁について語っておられ、この博物館のこともそこで紹介されていたのである。上口は「陶芸家」として語られることもあるが、もともとはテーラーだそうだ。大正天皇のお召し物の制作を請け負い、そのための修行の甲斐もあり、持って生まれた才能の所為もあり、見ただけて服を誂えるのに必要な採寸ができたのだそうだ。もちろん、多少はメジャーを当てただろうが、なにしろ天皇陛下の採寸をするのだから、手を触れるのは必要最小限でなければならないわけだ。それほどのテーラーであったのだから、当然、我も我もと客が殺到する。そうなれば、当然儲かるのである。そうやって築き上げた財産を使って、大名時計のコレクションをして、それがこの大名時計博物館として今日に伝わっているのだそうだ。展示の片隅には棟方と上口のツーショット写真が飾られている。その隣には、この写真をモチーフにして描かれたと思しき棟方の画があり、そこに書き込まれた文字の中に「ナカヨシ」とあって、おもわず笑ってしまう。
たぶん、上口という人はものをつくることが好きだったのだろう。だからこそテーラーであったわけで、その後趣味が高じて陶芸家になるのである。それくらいの人だから、時計、殊に季節によって時刻の配分が変わる江戸時代の時計というものに興味を覚えたというのも自然であるように思う。いろいろな意味でいいもの観たな、と思った。