熊本熊的日常

日常生活についての雑記

2012年05月18日 | Weblog

Facebookの自分のところにアップしている写真は「橋」「駅」「海」というテーマでまとめてある。写真を撮るのは嫌いではないのだが趣味というほどのものでもないので、撮った写真は無造作にiPhotoに落としている。たまに自分がアップした写真に「いいね」が付くと思い出したようにFBやIPの写真を見直して、FBのほうを入れ替えたり追加したりしている。今週は毎日のように1枚くらいずつアップした。

当然かもしれないが、写真は変わる。自分が撮ろうと思う対象が、今と昔とでは違う。同じ人間なのだから、顕著に違うということではなく、その当人にしかわからない程度の違いかもしれないのだが、同じではないことは確かなのである。確か、といっても主観にすぎないのも確かだが。

IPにある写真は2006年からのものだ。初代のリコーGR Digitalを手にしてから、それ以前よりは頻繁に撮るようになった。日常的にカメラを持ち歩くようになったばかりということもあって、とりあえず撮ってみるというような写真がその頃は多い。ある程度時間が経過するとなんとなく撮るものが決まってくる。それでも、昔の写真はなぜそれを撮ろうと思ったのかということは想像がつくのだが、それを今取り上げようとは思わない。その違いが何かというのははっきりとしたものではなく、素朴に面白いかどうかという基準が微妙に変化したということなのである。

それで、例えば「橋」ということで最近撮ったのがここにあるようなものだ。橋は大きな重量を支える構造物だが、それを支えている諸々のなかには掌にかくれてしまうほどのボルトやナットもある。ひとつひとつのボルトとナットがきちんとつながっていないと、橋は設計通りの強度を持つことができない。設計や施行には、その人でないとできない、というような意匠や技術があるのだろう。設計者のなかには著名人がたくさんいるし、建設会社にしても難しい仕事はこの会社、というような評判のところがいくつもある。部材となるとそういう差別化は少なくなり、ボルトやナットとなれば規格品で大量に流通しているので特段ありがたがられるようなものではないかもしれない。しかし、「橋」と言って、全体の姿が注目されがちだが、橋を橋として存在させていることのなかにはボルトやナットが規定通りの秩序を形成するという要素もある。あまり目を向けられることのないものにも、誰かがきちんと目を配ることで全体の秩序や調和が成立するのは確かなことだろう。その誰かもまた規格品のような存在であるかもしれない。それでも、そういう誰かのひとりになりたいと思う。