熊本熊的日常

日常生活についての雑記

『詩のこころを読む』

2012年05月07日 | Weblog

岩波ジュニア新書に茨木のり子の書いたものがある。もうとっくの昔に「ジュニア」と呼ばれる時代を終えてしまったが、この本はシニアが読んでも十分に読み応えを感じる。このところ詩のことをこのブログに書くことが増えている気がするのだが、別に詩が特別好きなわけではない。ただ、茨木のり子に関しては、最近関心を払っているというだけのことである。 それでも、詩というものとほぼ無縁で行きてきたなかで、たまたま目にして記憶の片隅に引っ掛かっていた作品がこの本のなかに登場する。そういうところに言葉の力というものを感じる。

この本はこんなふうに始まる。 「いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。」 これは「はじめに」のなかの言葉だが、この後、詩を人生のステージ毎に分類して語るのである。目次はこのようになっている。

1 生まれて
2 恋唄
3 生きるじたばた
4 峠
5 別れ

どれにもそれぞれにいいなと思う作品が並び、また、そうした作品を紹介する茨木のことばにも惹かれる。

「愛されるという受身形しか知らない人は哀しい。涙と傷、捨て身で人を愛した経験をもった人の瞳は、歳月のなかで茫々とかすみながらも、なんらかの痕跡を宿しているものかもしれません。人を愛することを知らずに来た人の瞳とくらべたら歴然かもしれないのです。」(74頁)

「いつも思うのですが、言葉が離陸の瞬間を持っていないものは、詩とはいえません。じりじりと滑走路をすべっただけでおしまい、という詩でない詩が、この世にはなんと多いのでしょう。」(128頁)

「もし、ほんとうに教育の名に値するものがあるとすれば、それは自分で自分を教育できたときではないのかしら。教育とは誰かが手とり足とりやってくれるものと思って、私たちはいたって受動的ですが、もっと能動的なもの。自分のなかに一人の一番きびしい教師を育てえたとき、教育はなれり、という気がします。」(194-195頁)

「浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分かれ目なのです。」(195頁)

歳をとって眼が弱くなったので、本を読むのは楽ではないのだが、読んでいて心躍る作品に出会うと、あっという間に読了してしまう。ここに紹介されている詩も改めて書き出してみたい気持ちもあるのだが、手元において何かの折に声に出して読んでみるというほうが詩本来の味わい方であるように思う。

詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)
茨木 のり子
岩波書店