天気が良かったので郊外へ出かけようと思い、なんとなく府中に行ってみた。何年か前のことだが、投資用マンションのセールスマンが東府中の物件を勧めてきたことがあった。全く土地勘の無い場所でもあり、「府中」というと遠いところのような印象があったこともあり、具体的な話は聞かないままになってしまったが、それ以来気にはなっていた。府中には府中市美術館というのがあるのだが、この最寄り駅が東府中で、現在開催中の企画展には若冲作品も出展されているらしいので、東府中という場所と若冲を観に出かけた、と言えなくもない。
東京で暮らして恵まれていると感じることはいくらもあるのだが、東京とその周辺の自治体が運営している小規模美術館の充実度の高さは特筆ものではないかと常々思っている。限られた予算と様々な制約のなかで、企画力や美術館相互のネットワークを駆使して様々に面白い展覧会を開くという点で日本の美術館は世界最高水準にあるのではないか。
府中市美術館では「三都画家くらべ 京、大坂をみて江戸を知る」という企画展が開かれている。たまたま今日は同館学芸員による講演「三都それぞれの美」を聴講する機会に恵まれたので、備忘録も兼ねて講演内容の要旨をまとめておく。会場で配られたプリントには講演の見出しのようなものだけが記されていた。
1 京
(1)やまと絵の底流
(2)仏教世界と創作
2 大坂
(1)中国文化への傾倒
(2)笑いのかたち
3 江戸
(1)抑制の美しさ
(2)科学と理論の創作
4 それぞれの背景
以下、このプリントに従って講演内容とそれを聴いて自分が考えたことをごちゃまぜにしてまとめる。三都といっても歴史の深さが異なるので単純な比較はできない。ざっくりと江戸時代中期から後期にかけてのそれぞれの作品を同じモチーフで比較したときに、そこにどのようなものが見え隠れしているかという意味での「くらべ」ということのようだ。
まず、京の特徴は、わかるひとにしかわからない、ということらしい。そんなことを言ったら美術や芸術は全部そうではないかと思われるかもしれない。京都と言えば今でも寺院の多さで外の都市を圧倒している。今は宗教というものが少なくとも自分の日常に関しては極めて希薄な存在だが、その昔、それは人々の生活全般を律する倫理規範であり、世界観の基礎であり、先進文化の体現でもあった。わずかばかりの賽銭をあげて己の欲望だけを滔々と吐き出す相手では決してなかったのである。目先の利益を求めてどうこうということではなく、自分の存在の座標軸そのものであり、自分だけでどうこうできるものではない人間の存在を超越した存在として仏教というものがあった、らしい。人間を超越しているのだから人間の言葉では説明できない。しかし、絵画のようなもので表現される世界には描き手の世界観が否応無く現れる。それはその世界観を共有する者の間でしかわかりあえないのである。今回の展示にも2点出品(会期全体を通じてはあと数点あったらしい)されている伊藤若冲はそうした仏教の世界観を絵画に体現した代表のようなものだろう。尾形光琳は所謂「琳派」の画家だが、一方で中世の水墨画に傾倒していたことも知られている。中国の顔輝の作品などと並べるとその影響を窺い知ることができるが、それもまたそうした世界観の表現とも言えるだろう。
京の絵画といえば、やまと絵を無視することはできない。やまと絵は平安時代に生まれたもので土佐派とよばれる人々を中心に発展してきたものだ。動きよりも全体としてのフォルムを重視する姿勢は世界観の体現ということに通じるのかもしれない。やまと絵は「みやび」という感覚を体現したものでもある。そうした流れに大きな転機を与えるのが円山応挙だという。中国の南蘋派が持つリアリティの影響を受けながらも同時代の風俗画家である西川祐信と通じるものも感じさせる独特の空気感のようなものが表現されている。応挙の登場で京の風俗画が一変したとも言われているのだそうだ。一変したとは言っても、その底流にはやまと絵の伝統があるらしい。
大坂は懐徳堂の存在が何事かを象徴している。これは学問所であり、現在の大阪大学に繋がっていくものだが、公の組織ではなく、地元の有力商人たちがスポンサーとなって開設したのだという。学問所を作って何を学ぼう、学ばせようとしたのかといえば、中国文化だ。それほど中国文化への憧憬が強かったということだろうが、おそらく中国そのものというよりも中国に象徴される先進文化への希求だろう。しかし、現実には文人画に象徴される中国の文物が流行したのは確かなことで、そこに心の自由あるいは聖なるものを見たのではないだろうか。代表的な作家として岡田米山人、半江という親子がいるが米山人はもともと米屋で、ふたりとも本業は蔵屋敷勤めの役人だ。年貢米を金銭に替えるという極めて世俗的な生活があればこそ精神が自由に浮遊する世界を描くことができたのかもしれない。
大坂の特徴としては笑いを挙げることもできる。なにがどうということではなしに何故かおかしい、説明のつかない笑いが大坂の笑い、らしい。本展の作品で例示すれば佐藤魚大の「閻魔図」とか耳鳥斎の「地獄図巻」が挙げられる。対する江戸の笑いは理屈っぽいとのこと。
江戸はその特異な歴史が文化にも影響を与えているのではないか。江戸に幕府が開かれ、それまで一地方都市に過ぎなかったものがわずか250年で人口において世界最大の都市に発展する。それを可能にしたのは開府に際して京から移住した文化人やテクノクラートであり、当時としては先進的な科学技術であっただろう。江戸絵画の出発点は狩野探幽とされるが、彼もまた幕府御用絵師として京から移住した組だ。江戸に来てから画風を変え、抑制された表現が特徴になったという。狩野派は江戸時代の絵画の基礎となり、絵画を学ぶとなると狩野派あるいはその弟子筋の人たちに学ぶのが当たり前になるというまでになったそうだ。狩野派は絵画界のエスタブリッシュメントとして君臨。幕府御用としては奥絵師四家、表絵師十数家、さらに各藩の御用絵師も務め、狩野派から絵を学んだ人々が町絵師としても活躍した。また、もともと武士の教養として学問は奨励されていたが、八代将軍吉宗の時代に蘭学が盛んになった。当時はまだ科学と芸術が分かれておらず博物学として一体となって伝わった。平賀源内は当時の科学者として有名だが、彼と交流のあった画家は少なくないそうだ。
伊藤若冲の作品は「垣豆群虫図」と「鶏図」が展示されている。「虫図」のほうは今回85年ぶりの公開だそうだ。若冲だけでなく、長沢蘆雪の「なめくじ図」とか長谷川雪堤の「浅草雪景図」をはじめとした面白い作品が多く、府中まで足を伸ばした甲斐があった。
府中市美術館には常設として牛島憲之のコーナーがある。これまで意識したことのない作家だったが、先日、掛川の資生堂アートハウスを訪れたときに「第三次椿会再現展1」で観た「橋の風景」などが記憶に残っていた。それで今日初めてこれほどまとまった量の作品を観て、その「椿会展」の記憶と相俟って改めて好きになった。
今日は正午に見学を始めて、企画展と常設展を一通り回り終えたのが午後2時。それから企画展に関連した学芸員のレクチャーを聴き、売店で商品を眺めてから美術館を出たのが午後4時だった。