以前にお世話になった就職斡旋業の方に昼をご馳走になった。今、自分の勤務先で人を探しているので、情報交換かたがた連絡を取ったらこういうことになったのである。いろいろ興味深い話を伺うことができた。
求人が多いのだそうだ。応えきれないほどの求人があるのだそうだ。ただ、難しい注文が多いので、なかなか決まらないという。思うに、求人をする側は人を機械のようにスペックで見ているのではなかろうか。あれができる人、これができる人、こういう経歴の持ち主、などなどデータとして表現できる要件を並べ立てて候補者のデータベースから該当者を見つけ出そうという発想だろう。機械のようなものを組み立てるのに部品を求めているようなものだ。機械というのは用途限定で劣化することはあっても発展することはない。つまり必ず寿命がある。企業組織はそういうことでは困るはずだ。環境の変化に順応しつつ臨機応変に存在目的にも調整を加えつつ成長することを目指さなければ、そもそもの存在目的さえ達成することがおぼつかない。出来上がったところが完成なのか、出来上がったところが出発点なのか、という大きな違いがある。経営というのは、成長を目指して組織を構成する生身の人間をそれぞれの特性に応じて組織の目的に合うように差配することである。成長を続けることが目的なのでゴールはない。そんな初歩的なこともわからないままに経営者面している輩が組織の要所要所に鎮座するとその組織は不幸な結末を迎えることになる。幸いにして先人の努力と才覚で膨大な既得権を蓄積した組織は多少の欠損や不具合があっても埋め合わせることができるが、そういうものがまだ十分ではない組織や、衰退トレンドに乗って蓄積を消耗しているところは経営のちょっとした失敗も組織の命取りになる。生身のものというのは予測不可能なものだ。世に所謂「成功者」の教訓や法則のようなものが喧伝されるが、そういうものが普遍性を持つわけがないことは考えなくてもわかりそうなものだ。結局、多くの組織の人事を担う人たちも機械の部品のような存在なので、そいう発想から抜けられないのだろう。人は経験を超えて発想することができないのである。そういう見苦しいものに振り回されずに生きるには、経験したことのないことを敢えて求めるよりほかにどうしようもないのではないか。