熊本熊的日常

日常生活についての雑記

見えているものから観得ているもの

2014年07月19日 | Weblog

岩波ホールで「大いなる沈黙へ」を観た後、国立能楽堂で狂言「佐渡狐」と能「通盛」を観てきた。

能を観ようと思って観るのは今日が2回目だ。始めてのときはわけがわからなかったが、今回はある程度の下準備の上で臨んだので、それなりに楽しむことができた。よく能を「形式美の世界」などと言う。ここでの「形式」は象徴のことであろう。目の前の舞台で行われること全てを観るのではなく、読み取るべき所作や音といったものがあって、それ以外はそうした象徴を表現するための装置なのである。つまり、見えるものを観るのではなく、見えるものから観るものを観客がそれぞれの脳裏に構成し、その世界を鑑賞したりその世界に陶酔したりするものなのだと思う。そう考えると、例えば小宰相が船を意味する白い枠から外に踏み出すというだけの動作が、見た目を遥かに超える劇的な場面であることが観得てくるのである。もちろん、唐突に一歩踏み出すのではなく、地謡の台詞に合わせての動作であり、そこには小宰相の一歩の背景に夜の海が広がっている様も観得ているのである。能舞台のほうはこれといった舞台装置があるわけではなく、物語がどのような場面であろうとも照明も背景も変わらない。舞台上の人々のそれぞれに粛々淡々とした行為の組み合わせだけで、見えているものを遥かに超越した世界を感じるのである。それは語りだけで世界を描く落語にも通じることのように思う。なんとなくだが、能の面白さが少しだけわかってきたような気がする。