熊本熊的日常

日常生活についての雑記

自由であるということ

2014年07月15日 | Weblog

午前中に歯科検診があり、検診の後、出勤までに時間が空いたので出光美術館で鉄斎展を観てきた。今年は鉄斎の没後90年だそうだ。鉄斎が生きたのは幕末から大正にかけてだ。いろいろなことにおいて今の時代からは想像もできないような激動期だっただろうと思う。今、こうして氏の作品展が美術館で開催されているということは、画家として認められているということなのだろうが、本人は儒学者という意識を持っていたのだそうだ。だから、氏は常々その作品を単なる画としてではなく賛と共に観て欲しいというようなことを言っていたそうだ。その画風は既存の流派を超えて、殊に晩年に至って独特なものとなっている。それを自由と呼ぶのだとしたら、自由とは誰にでも手に入るものではないということになる。鉄斎の研究熱心は有名で、その作品には彼が若き日に学んだ南画や大和絵はもとより、琳派、狩野派など画壇を賑わせたものは勿論のこと、大津絵に至るまで様々な要素が盛り込まれている。鉄斎自身は自分の画を「ぬすみ絵」と称していたらしいが、物を盗むのとは違って技術を自分のものにするというのは相応の力量がなければできないことだ。自由というのは、様々な知識や技法を習得した上で、それらを駆使できるに足る創造力があって始めて到達できる境地なのだと思う。言い換えれば、馬鹿は決して自由にはなれないということだ。