昨日観た「大いなる沈黙へ」についても備忘録を残しておきたい。この作品はカトリックの修道院であるグランド・シャルトルーズ修道院での修道士たちの生活を写したものである。原題は「Die Grossen Stille」というドイツの作品だ。なぜ「大いなる沈黙」ではなく「沈黙へ」としたのか意図がわからないが、それはともかくとして沈黙に満ちた毎日だ。映画の日本語版公式サイトによれば、修道士は一日の大半を1人で過ごす。作品のなかでも会話のシーンは殆どない。修道士どうしの会話が許されるのは日曜日の約4時間のウォーキングの間だけ。もちろん、1日に何度か祈りを捧げる時間もあるので全くの沈黙が始終続くわけではないのだが、それでも声を発する時間そのものが限定されていることは確かだ。沈黙の世界に生きることも修行の一部なのだろうが、この作品を観て改めて思ったのは沈黙の世界を生きることは孤独なことではないということだ。
孤独というのは自分の拠り所を失っていると認識している状態のことだと私は思う。修道士が何を想って日々暮らしているのかはわからないが、それぞれに自分の世界観というものがあり、そのなかでの自分の位置というものを掴んでいるのだと思う。だからこそ、静かに暮らしていられるのではないか。世俗の交渉事というのは、結局のところ自分の存在確認のための行為であることが殆どなのではなかろうか。自分というものについての確たる認識がないからこそ、自分の社会的地位とか所有物とか人間関係といった自分の外部のものとの関わりが気になるのだろう。もちろん修道士だって修道士たる自分という意識を持っている人もいるかもしれない。しかし、期限があることならともかく、修道士の社会的地位といった表層のことに目が向くようでは、死ぬまで沈黙のなかで暮らすことなどできはしまい。
3時間近いこの作品を観終わったとき、3時間という時間が普段の生活のなかで感じているよりも短く感じられた。それは自分がいつ死んでも不思議のない年齢に達して、生きるということについて多少なりともイメージが持てるようになったからかもしれないし、自分では経験したことのない修道士の暮らしを素朴に面白いと思った所為もあるかもしれない。