熊本熊的日常

日常生活についての雑記

言語の共有

2006年06月06日 | Weblog
久しぶりに大学時代の友人と会った。最後に会ったのがいつなのか記憶にないほど久しぶりの再会である。大学の最寄り駅の改札で待ち合わせたが、お互いに相手のことがすぐに認識できた。不思議なことに、まるで毎日顔をあわせているかの如くに会話が続く。似たような経験はたまにある。

思うに、相手との距離というのは言語の問題ではないか。活動する分野が違っていても、かつて同じ話題で議論したような相手なら、発想のロジックを想像することができる。

社会には共通言語で結ばれた小集団が多数存在する。誰もが、複数の小集団に所属しながら日々を送っている。この言語を共有する相手と過ごす時は心地よさがあり、そうでないときは居心地が悪い。人と知り合い、関係を深めていく過程は、共通言語を探るプロセスと言えるだろう。共有するロジックがなければ、恐らく永遠にわかり合えないであろう。

このことは、身近が人々との関係から、国家間の関係に至るまで、あてはまるような気がする。

ありえないこと

2006年06月04日 | Weblog
エレベーターを現場検証 警視庁、高2男子死亡事故 (共同通信) - goo ニュース
港区のマンションでエレベーターに挟まれて高校生が死亡するという事故が起きた。新聞に載っていたエレベーター業者のコメントによれば、ドアが開いたままゴンドラが動くことはありえないのだそうだ。しかし、現実にそのような事態が発生し、犠牲者が出ている。

時事通信の報道によると、問題のエレベーターには過去2年半の間に19件の不具合が発生していたという。港区住宅公社が管理している同マンションは、エレベーターの故障などがあれば、それを区に報告することになっていたそうだが、19件の不具合は今回の事故が起こるまで1件も報告されていなかったのだそうだ。

形ある物は必ず壊れる。機械はいつか必ず故障するし、人間はいつか必ず健康を損なう。ところが、機械に不具合が発生したとき、それが往々にして利用者の責任にされてしまう。恐らく、問題のエレベーターも不具合が発生して保守業者が点検した時、その不具合を再現することができなかったのだろう。結果として、その不具合は機械の問題ではなく、利用者の勘違いか操作ミスとして片付けられていたのだろう。

身の回りの機械製品でも似たようなことがあるかもしれない。例えばパソコンの調子が悪いとする。メーカーの客相に電話しても、まず電話がつながらないし、つながったとしても修理の受付に2週間などとふざけた物言いを聞かされる。家電製品の不具合が利用者の命にかかわる状況というのは稀だろうが、エレベーター、自動車、公共交通機関などの場合は、そうではない。

機械のメカニズムをきちんと理解している人ならば、完全無欠なシステムなど存在せず、どのような機械にも故障のリスクがあるということがわかっているので、きちんと対応ができるはずだ。しかし、想像力や理解力に欠ける人間には、機械はひとつの権威であり、それが故障するなどということは想像もできないのだろう。クレームを受けても、それは機械に問題があるのではなく、利用する側の問題だという先入観を持って対応することになり、重大事故を招くことになる。今回の事故も、おそらくそのようなことだと思う。亡くなった人は、事故に名を借りた不条理な悪意の犠牲者なのである。悪意の主は、言うまでもなく行政である。

予想外の人気スポット

2006年06月03日 | Weblog
目黒の東京都庭園美術館へ行った。が、混んでいたので入らなかった。敷地の入口に新しいミュージアムショップができ、カフェが新装になった。どちらも混んでいた。

美術館の前からバスに乗り、品川へ抜けて、原美術館へ行ってみた。こちらも混んではいなかったが、館内の喫茶コーナーはほぼ満席だった。

平日にもよく美術館を訪れるが、自分以外に客がいないという状況には未だ遭遇したことが無い。確かに美術館は便利である。ひとりで物を思うにもよし、誰かと何事かを語るにもよい。

但し、原美術館の喫茶はペンキような臭いが気になった。

住み心地

2006年06月02日 | Weblog
どのような場所に住むか、どのような家に住むかというのは、住み心地を左右する大きな要素だと思う。

いわゆる高級住宅街と呼ばれる地域があり、スラム街のような場所もある。金融機関の信用調査のチェック項目のひとつに住所があるのではないか。地域毎に平均的な所得水準の格差があるのは事実だろう。戸建てと集合住宅の差もあるだろう。都心の一等地は別として、一定の土地を一戸で占有するのか複数で占有するのかで、一戸あたりの負担に違いがあるのは単純な算術である。

家の造りや間取りも考えなければならない。セキュリティが完備されている集合住宅がよいのか、その場と一体となった開放的な住宅がよいのか、生活スタイルと好みによって選択されるのだろう。

しかし、住み心地の基本は、関係性の問題であるような気がする。一緒に住む相手との関係や隣近所との関係が良好でなければ、どれほど高級とされる場所に住んでいようと、どれほど考え抜かれた間取りの家に住んでいようと、住み心地は悪いだろう。住所や家屋は自分で選ぶことができる。関係の軸になるのは他ならぬ自分自身だ。関係を変えるには、まず自分を変えなければならない。これは容易ではない。

やってみないとわからない

2006年06月01日 | Weblog
餅は餅屋、という。今日はバスに乗って隣の区の区立美術館へ出かけた。狭い道を巧みなハンドルさばきで大型バスを操る運転手に感心した。自分で運転しない人には彼の凄さは理解できないと思う。人は自分の経験を超えて発想できない。

最近、よく絵を観に行くが、自分の好みを語ることはできても絵の巧拙を語ることはできない。私には絵というものをきちんと学んだ経験が無いからだ。

コーヒーの淹れ方を学んだことは自分にとっては大きな転機になったかもしれない。普段、何気なく口にしているものの奥深さを知り、自分で経験するということの大切さを再認識する契機になったからだ。

残念ながら、身体はひとつであり、自分に許された時間には限りというものがある。興味を持ったこと全てを経験してみるというのは無理だが、やってみようと思ったことは極力やってみようと思う。