熊本熊的日常

日常生活についての雑記

堂々と独断と偏見

2010年07月16日 | Weblog
ある人とメールのやりとりをしていて、話題がイギリスのことになった。それで、限られた経験と知識から得た英国論のようなものを開陳したら、「熊本流英国論」と言って面白がって頂いた。しかし、ふと、史実に誤りがないか不安になったので、以下に自分がそのメールに書いたことを引用する。史実誤認があればご指摘いただきたい。

(以下、引用)

○○さん

こんにちは。暑い日が続きますね。

文明の利器、ですか。難しいですよね。現に文明のなかで生活しているわけですからね。携帯とパソコンの話は、私自身も時々どうしようかなと思うときがあります。今時、携帯持っていない奴とかパソコン持ってない奴はいます。彼等は、仕事では当然に職場で使っているわけで、使えないというわけじゃないんですよ。でも、そんなのは例外中の例外でしょう。今や移動通信もブロードバンドも水道光熱と同じ社会資本としてすっかり定着してしまいましたね。何が必需品でどのあたりからが文明の横着か、というのは線引きが難しいところです。 個人の生活様式によって一概には言えないでしょうし、時間の経過と共に変化しますから。確かに、△△△△△のバッグの考え方でiPadのケースというのは悩ましいところだとは思います。でも、△△△△△のデザインがあの手の機器に似合うと考える人が多いのは事実だと思います。

ところでイギリス話なんですが、私の独断と偏見で言わせてもらえば、今日「英国風」 とされている文化的要素の多くは成金によって形成されたものだと思います。欧州という括りで英国も大陸諸国も同じようなものとして考えられがちな気がしますが、大陸諸国とはその歴史や文化の成り立ちが異質であるように思います。

例えば、大英博物館とルーブル美術館を比べてみると、そこに端的な違いが反映されていると思います。大英博物館は、もともと医者で古美術品蒐集を趣味にしていたハンス・スローンのコレクションから始まり、そこに主として中産階級の人たちの寄付や遺品が加わって今日の姿になっています。対するルーブルはフランス王室のコレクションが基になっています。

これは何を意味するかと言えば、国の中で経済力の中心がどこにあったかということの違いだと思います。片や中産階級、即ち市民であり、片や王室、旧来の階級制度の頂点ということです。

英国のばあい、産業革命の影響もさることながら、国の位置が大きく関係しているのではないでしょうか。英国は欧州のなかでは辺境です。緯度も高く気候が厳しい上に地力にも恵まれず、国家を維持するには海外との通商に依存するしかなかったはずです。当然に、海運が発達します。海運が発達するということは、造船に象徴される工業、運搬品の保険に代表される金融とリスク管理、航海や工業の基礎には数学や天文学などの科学といったものが発達するということでもあります。科学の基礎には合理性がなければなりませんから、相対的にキリスト教あるいは宗教の位置が低くなり合理的精神というようなものが形成されるはずです。英国で、カトリックでもプロテスタントでもない、英国国教会が成立したのは、表向きは時の国王ヘンリー8世が再婚するときに、再婚を認めないカトリックと対立したから、ということになっていますが、根底にあったのは、地中海世界に起源を持つキリスト教の価値観が辺境である英国には、そのままの姿では通用しなかったということでしょう。この英国国教会が成立するのが16世紀で、17世紀には欧州のどこの国よりも早く市民革命が起こり、18世紀にはやはり先頭を切って産業革命も起こり、その後、世界各地に植民地を築き、 というようにどの国よりも先に新しいことを始めてきた先進性は、結局のところ、辺境で生き延びるための必然だと言えると思います。

対する大陸諸国は、英国の覇権に対抗すべく、時の権力者が己の地位を守るべく、軍事力の強化と対外進出の活発化を図るわけですが、英国のような科学技術や資本の蓄積が無いので被支配者階層に対する徴税などの収奪を強化することによって賄うしかありません。 科学技術と商業によって市民階級が財力を持って、しかも彼等がその財力をさらに充実させるべく投資を行った結果として、あたかも自己増殖するが如くに国力全体が成長した英国とは大きく異なるところです。

例えば、フランスの市民革命は、そうした王権による収奪に耐えかねて市民が蜂起した結果です。革命の目的が現状の窮状を打開するということ以外、思惑が入り乱れているわけですから、ルイ王朝が倒れた後も国家としては迷走を続けることにならざるを得ないわけです。 似たようなことはハプスブルク家のオーストリアやスペインも同じことですし、そうした混乱のなかで今日のドイツやイタリアが統一されるのは19世紀後半です。

科学技術という点では西洋は日本よりも先進的であったかもしれませんが、社会の成熟とか文化といった点では西洋も明治維新当時の日本も大差がない、と私は思っています。日本が明治に急速な西洋化という意味での近代化を成し遂げたのは、もともと大差がなかったからではないでしょうか。石の家に住むか木の家に住むか、洋服を着るか和服を着るか、というのは習俗の「違い」であって、先進性とか後進性ということを意味するものではないと思います。

結局、先手必勝ということなのでしょう。どこよりも早く市民社会が形成され、科学技術が発達し、貿易が盛んになり、富が蓄積され、富が投資原資となって、さらなる富がもたらされ、中産階級がますます繁栄するわけです。彼等は世界中の文物に触れる機会に恵まれているわけですから、いやでも物に対する鑑識眼が研ぎ澄まされ、その要求に応えるべく、彼等が使う日用品を作る 国内の職人たちの腕も上がるということではなかったのかなと思います。

だから、世界最高の水準を極めたはずの英国のクラフトマンシップが失われるのは、 第二次大戦後の英国の凋落と軌を一にしているように思われます。戦後、国際社会の中心が政治も経済も米国に移り、民族自決の動きのなかで植民地が失われ、日本やドイツのような新興国の勃興で工業力の優位性が失われ、過去の遺産だけが頼り、というと言い過ぎかもしれませんが、それが現実に近いような気がします。

○○さんが「回顧的英国」と表現されておられましたが、今の日本で「英国風」とされているようなライフスタイルとその小道具類は、今の英国にはなくて、過去を振り返らないと見つからないものが多いように思われます。

好むと好まざるとにかかわらず、時代には流れというものがあるように思います。英国が先頭を切って繁栄を極めた後の低迷期に入り、その後を日本も追っているような気がしてなりません。彼の国は「世界に陽の落ちる場所が無い」と言われたほどに栄華を「極めた」後の凋落です。日本はバブルの馬鹿騒ぎの後の凋落です。凋落の開始時点が違い過ぎるのが心配やら、情けないやら、困ったものです。

そういうなかで、自分が生きていかなければならないかと思うと、気楽なような気がしないでもありませんが、まだまだ希望があるとも思っています。 なんといっても世の中は広大なので、全体とか平均の姿に目を奪われるのは賢明ではないと考えています。私も人生が残り少なくなってきましたし、いつ終わるかわかりませんから、せいぜい我侭に心地よい場所を作って暮らしたいと思っています。

とりとめが無くなってしましまいました。長々と申し訳ありません。

熊本 熊

(以上、引用)

力強い味

2010年07月15日 | Weblog
たびたび話題にしているが、生協の宅配で調達している農産物はおいしい。トマトはトマトの味がするし、玉蜀黍などはこれほど甘いものだったのかと思うような甘さがある。もちろん、どれもこれも、いつでも、というわけではない。例えば野菜や果物なら、農薬や化学肥料などの使用量に応じてブランドが分かれている。そうしたものの使用量が少ないものは、その分手間隙がかかるのでコストが上昇する。それは価格にも反映されている。物によってはブランドによって値段が倍ほども差がある。

食の安全を心配しなければならないようなことが多い時勢だが、店頭に並んでいるものにどれほどの農薬や化学肥料や殺虫剤が使われているかというようなことは、見た目では判断がつかない。「有機栽培」だ「低農薬」だといわれても、それがほんとうのところはどうなのか、消費者からは見えない。しかし、そうしたものの価格がそうしたものでないものよりも高いのは事実だ。また、「有機」がそうでないものよりも美味いという保証もない。そうした不透明な差異に対してどこまでの価格差を許容するかというのは、結局のところ消費者に委ねられている。そうした判断を下すには、消費者の側も食というものについて一通りの知識をもっていなければならないということになる。難儀なことである。

以前にも書いたかもしれないが、私は学生時代にエコロジー研究会というとことに籍を置いていたことがあり、学内の笹薮などを勝手に開墾して農薬や化学肥料を使わずに野菜を栽培していた。アメリカンフットボール部の練習場の脇の藪なので細長い畑だったが、木が生えていたり、崖になっていたりして、可耕部分はそれほど広くはなく、その上、笹というのは根が密生していて除去が大変だったので、私が在籍していた時代は8畳程度の広さでしかなかった。農薬を使わない代わりに頻繁に草むしりをし、化学肥料を使わない代わりに馬術部から有機肥料を調達していた。部活動というよりも家庭菜園のようなものだったが、農作物を栽培することがどれほど手間隙のかかるものかということは十分に実感できた。

それを大規模に行うとなれば、農機具にしても、手入れの方法にしても、効率を優先させないことには業として成り立たない。個人的な感覚としては、「有機」だの「エコ」だのと声高に喧伝されるものは、かえって怪しいもののように思ってしまう。だから、スーパーで普通に買い物をしていた時代には、あまりそうしたラベルには注意を払わず、素直に安いものを買っていた。

昨年12月からは米以外の農産物と魚介類についてはほぼ全量を生協の宅配に依存しているので、生協基準のものを消費しているのだが、野菜や果物は味に力強さがあるように感じられる。玉蜀黍はたまたま有機の度合いに応じた複数ブランドが同じカタログにあったので、一通り食べ比べてみたが、高いもののほうが甘味が強く感じられた。ただ、価格差を許容してまでも食べ続けたいかというと、微妙なところではある。このあたりは、その人なりの価値観の問題になるのだろう。私が利用している生協宅配のものは、ノンブランドでも十分に満足できるものばかりだ。なによりも、毎週のカタログや商品に添付されているチラシなどで、作り手や仲介者の思いやメッセージが伝えられてくるのが嬉しい。

生協と一口に言ってもいろいろ種類があるようで、私が加入している生協組織の首都圏一都三県の会員数は今年3月末現在で約105万人だ。会員組織の性質からして一家に何人も会員がいるわけではないだろうから、世帯数を基準にすると、平成17年の国勢調査に基づく同地域内の世帯数は1,423万世帯なので、世帯の7.4%の加入がある計算になる。これが多いのか少ないのか私にはわからない。この組織は一都8県に展開しているので、以下の数値は首都圏地域だけのものではないのだが、開示されている財務データでは2010年3月期の総事業収入が約1,600億円、一般事業法人の営業利益に相当する事業余剰金が約9.5億円で利益率は0.6%である。営利法人ではないので、この値が高くても問題があるし、マイナスならなおのこと問題なのだが、厳しい経済環境のなかでまずまずの経営状況と言えるのではないだろうか。消費の選択肢のひとつとして、産直を基本として、生産者のほうからも消費者のほうからも、双方向で相手の在りようを感じることができる仕組みというのは、少なくとも私には魅力がある。経済産業省の商業動態統計では大型小売店販売額の飲食料品は既存店ベースで2009年2月から直近5月まで連続して前年割れであり、スーパーだけで見ても同様である。おそらく生協のほうも売上自体は似たような推移を辿っているだろうが、これからも事業を維持して欲しいと思いつつ、毎回注文の度に200円づつ出資金を積み増している。

梅雨が明ける前に

2010年07月14日 | Weblog
少しだけだが昨夜も雨が降った。木工の前は雨というのが定着しつつあるかのようだ。しかし、梅雨明けはもうすぐだろう。気象庁によれば関東甲信越地方の梅雨明けは平年は7月20日頃で昨年は7月14日頃だそうだ。さすがに昨日雨が降って今日梅雨明けとは思われないので、今年は7月14日というわけではないだろう。

梅雨明けで気になるのが、暑中見舞いである。先日「暑中見舞い準備」に書いたように、今年は私としては珍しく、少なくとも気持ちだけは、暑中見舞いを書くつもりになっている。事実、何枚か書いてみたのだが、文面も宛名もすべて手書きで書くというのは自分の生活のなかにパソコンやプリンターが入り込んで以来のことなので10数年ぶりではないかと思う。いざ書いてみると、当然ながら時間がかかる。数枚書いたところで早くも面倒になってしまった。既に用紙も筆記具も準備して臨んでいるので、今更後にも引けないという気持ちもある。そこで、一部のものは自分が撮影した写真を印刷してお茶を濁そうかなどと考えはじめた。暑中見舞いらしい写真はないかとパソコンを開いてみたものの、そういう気の利いたものがあるわけもなく、とりあえず2008年の夏至の頃にSt Ivesで撮影したものを使おうかとも考えた。この週末は3連休なので、天気次第ではあるが、夏らしい風景を求めて彷徨いあるいてみようかと思う。

「ひとりたのしむ」

2010年07月13日 | Weblog
熊谷守一の作品が特別好きというわけではないのだが、不思議と気になる作家である。何をきっかけに彼の作品を知ったのか、今となっては記憶が無いのだが、日経新聞の「私の履歴書」をまとめた「へたも絵のうち」や画文集「ひとりたのしむ」などに散りばめれている作家の言葉に強く惹かれる。絵も所謂「守一スタイル」が確立された後の油絵作品は抽象画のようにも見えるが、なんとなく日本画独特の世界観が漂っていて、同じ空気を呼吸している親しさのようなものが感じられる。そんな思いが伝わったのか、何年か前に友人から熊谷守一の画文集「熊谷守一の猫」をプレゼントして頂いたこともある。その人が何故私に熊谷守一の画文集を選んだのか、尋ねてみようと思っているうちに、いつの間にか疎遠になってしまった。

絵のほうは私の拙い表現力では語ることができないので、「ひとりたのしむ」にある熊谷の言葉から、自分の琴線に触れたものを引用する。

「紙でもキャンバスでも何も描かない白いままがいちばん美しい」

「できないということは面白いです。かあちゃんにいわせると、そんなときは、面白いって顔してないそうですけどね。」

「絵を描くのに場合によって、初めから自分にも何を描くのかわからないのが自分にも新しい。描くことによって自分にないものが出てくるのが面白い。」

「一般的に、言葉というのはものを正確に伝えることはできません。絵なら、一本の線でもひとつの色でも、描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色は誰が見ても青色です。しかし言葉の文章となると、「青」と書いても、どんな感じの青か正確にはわからない。いくらくわしく説明してもだめです。わたしは、ほんとうは文章というものは信用していません。」

「まあ、仕事したものはカスですから。カスっていうものは無いほうがきれいなんだよ。」

いずれも90歳を過ぎてからの言葉だそうだ。物事を真摯に観察したり考えたりした人が語ることはよく似ている。何も描いていない白いままの紙やキャンバスがいちばん美しい、という思いは、フォンタナの切り裂かれたキャンバスや、ある種の禅画にも通じるところだろう。言葉の話にしても、先日このブログの「無敵のソクラテス」で紹介したように、池田晶子の著作に頻繁に登場するテーマのひとつで、他にも似たような話は様々な場面で耳にすることだ。仕事のことも、小林秀雄が永井龍男との対談「芸について」のなかで語っている「仕事が楽しみでなくて、一体仕事とは何だい。」と同じことだろう。

私も、今は遊びの域を出ないのだが、陶芸をやっている。まだ始めてから実質的には丸2年程度でしかないのだが、私が好きなのは茶碗でも鉢でも皿でも、単純な形に透明釉をかけただけのものだ。技法としては象嵌も、練り込みも、化粧も、絵付けも、その他いろいろあるし、釉薬にしても多くの種類があり、それらをかけ分けることで表現の種類は無数に生れる。しかし、どれほど技巧に優れた人の作品であれ、人が作ったものはその人の技量の制約のなかでの表現でしかない。まして私の拙い技能で絵付けや化粧をしたところで、何もしないで釉をかけただけにしておいたほうが、窯のなかの熱や火が勝手につける模様や佇まいにはかなわないと思うのである。それを言い出すと、そもそも何もしないのがいちばんよい、ということになってしまう。少なくとも私に関しては、その通りだと思うのだが、生きているということはそのために必要な自我もあるということで、そのあたりのもやもやを満足させるには何もしないというわけにもいかないのである。先日の「会心作は偶然に」「曜変志野茶碗」で紹介したように、上手い具合に梅花皮が現れたり窯変を起こしたりするのは、作り手の意志とは関係のないところで起こることだ。自分が欲していることと眼前にある現象との乖離が、時に落胆をもたらし、時に歓喜をもたらす。その乖離の大きさは、個別具体的な事象に関しては鍛錬や修練である程度は小さく収めることができるのだろうが、人生丸ごととなると、どうにかなるものでもあるまい。そういう無力感に酔うことが生きていることの楽しみでもあるように思う。

選挙考

2010年07月12日 | Weblog
昨日の参議院選挙は下馬評通りの結果だったのではないだろうか。新聞もテレビも無い生活なので、マスメディアがどのような報道をしていたのか知らないのだが、「政権交代」と大騒ぎをして成立した内閣が1年もたずに崩壊しただけでも有権者の印象を悪くしているところに、消費税増税論議を持ち出して選挙に勝つと考えるほうが異常だろう。しかも、選挙戦では小泉政権時代に自民党が繰り出した「小泉チルドレン」戦略を彷彿とさせる著名人投入で、あからさまに有権者を舐めてかかっているのが見え見えの選挙だった。マニフェストだかエベレストだか知らないが、有権者も候補者も共に理解していない空念仏を唱えたところで、何かが起こるわけでもあるまい。尤も、選挙運動中に候補者の口から出る言葉の9割程度は自分の名前だろう。候補者が自分の党のマニフェストなるものを理解する必要はそもそも無いのである。票は雰囲気で動くのは確かなのだろうが、端から有権者を馬鹿にしきった姿勢で選挙に臨めば、それは自ずと有権者に伝わるということを全く気にしていないかのような選挙の戦い方は、民主制とは衆愚制であると語っているようにしか見えなかった。

その選挙で現職の大臣が落選した。当然、内閣は落選した大臣を交代させなければならないだろう。ところが、その大臣は続投なのだという。選挙の結果に対する与党の認識を端的に表現する現象だ。党の名前は「民主」だが、彼等の「民」とは誰のことなのだろうか。

ちなみに第二次大戦後、日本国憲法の下での内閣総理大臣は現職の菅直人が31人目だ。「内閣総理大臣」としては第94代で、戦後は第44代幣原喜重郎内閣から始まるので、内閣の数はもっと多い。戦後65年間で31人の国家元首という数は先進国の中で突出している。同期間の米国大統領は12人、英国首相は13人、フランス大統領とドイツ首相はそれぞれ8人だ。イタリアは多いが、それでも25人である。これが何を意味するか、立場や考え方によっていろいろ説明はつくのだろうが、私は日本という国の在りようが、世界の中軸となっている国々のそれとは異質なのではないかと思っている。もっと言うなら、日本語の世界というものが、突出した指導者というようなものを要求しない世界なのではないかと思っている。言語というのは思考の仕組みを反映するものだ。思考は言語の組み合わせと言ってもよく、その語彙は外部認識を反映し、文法は社会の在りようを反映する。あまり特殊性を強調すると、現実認識を誤ることになるが、他者との関係性において、何が共通で何が断絶しているかということを意識しておかないと、適切な付き合いというものができないように思う。何が何でも民主制、何が何でも多数決、という社会のあり方が、果たしてこの国の在りようとして適切なものなのかどうか、再考を迫られる時が必ず来るような気がする。

教訓は活きるのか

2010年07月11日 | Weblog
6月6日に続いて2回目のタッチラグビー。前回は講習会だったが、今回は試合である。前回と今日の間に都大会があったのだが、これには参加しなかった。

自分の体力については大凡は把握しているつもりだった。毎週、近所の公営プールで泳いでいることで、体力や体調を知る目安を得ている気になっていた。それが前回の講習会で単なる「気」に過ぎなかったことを認識させられた。水の中と陸上とでは身体の動きや、それに対する負荷も違うのは当然だが、そうした事情を勘案した上でも、思っていた以上に体力は衰えていた。講習会のなかのゲームで2回ほど転んで膝を打ったのだが、その打撃が日を追うごとに酷くなって、痛みが引くのに3週間も要することになった。途中経過は6月10日付「崩れゆく身体」にも書いたが、その後、左下肢膝下全体の腫れが容易に軽快せず、しかも腫れが足先へと移動し、靴を履くのに難渋するまでになってしまった。先週になって漸く足の腫れが軽快し、靴を履く際の不自由は無くなったが、脛の痛みが残っている。昨日はお茶の稽古があったのだが、先生に事情を話して点前の練習はせず、たまたま新たに参加された生徒さんがおられたので、その人と一緒に割り稽古をさせて頂いた。

そうした前回の結果を踏まえ、先日サッカーシューズを買い、今日はとにかく転ばないことを心がけた。幸い、無事に4試合をこなし、今のところは異常は認められない。これから10日間ほどは経過観察をしながら、なにかあれば早めの手当てを心がけるつもりでいる。

それにしても、自分の身体がどの程度動くものなのかということを観察するのは興味深いことである。

擬音で祇園

2010年07月10日 | Weblog
落語には噺の内容を主にして観客を魅了するものと、話芸を主とするものとがあるように思う。そして、どちらかといえば、話芸主体の噺のほうが噺家にとっては難しいと思う。

今日、行徳で花緑の独演会を聴いてきた。演目は「祇園会」も「天狗裁き」も一見したところは単純な噺である。しかし、こういう単純なものは一歩間違えれば小話に毛の生えたような陳腐な噺になってしまう。その所為かどうだか知らないが、以前に聴いたときよりも、今日はマクラが長く、本題への下準備に慎重を期したように感じられた。

「祇園会」は人間国宝の桂米朝から稽古をつけてもらったものだそうだ。もちろん、上方落語をそのままというわけではないので、花緑風に改編されている。噺は京の人間と江戸の人間とのお国自慢合戦という他愛のないものだが、祇園祭の囃子の音と神田囃子の自慢のところなど、囃子の擬音で双方の自慢をしあうのである。何がどうでどうだから、こっちがいい、というような理屈の滑稽ではなく、囃子の擬音だけの比較で観客を笑わせるというのは、噺家の力量が試される難易度の高いものではないだろうか。

4月に蕨文化会館で聴いたトリのたい平が口演した「長短」も理屈の展開よりも話芸で聴かせるものだが、このときは正直なところ厳しいものを感じた。彼の場合、得意の秩父夜祭風景があるので、それを噺の最後にもってくるのに、この演目を選択したように感じられたが、果たしてそれが上手くいったと言えるのかどうか、微妙なところだったと思う。

その点、今日の花緑は危なげが無かった。もちろん「祇園会」の自慢合戦は囃子だけではないのだが、いくつかある自慢ネタの配分として、囃子のところはそれなりの重きのある部分なので、ここですべるととんでもないことになってしまう。

「天狗裁き」は噺が入れ子構造になっていて、オチになる最後の場面が最初の場面と重なるというものだ。螺旋階段をぐるぐる上って、上り詰めたところが最初のところ、というエッシャーの騙し絵のようなもの、と言ったほうがイメージしやすいかもしれない。同じ噺が登場人物を入れ替えながら繰り返されるので、新たな登場人物のキャラクターや設定をどうするかというところに工夫が要る。同じ落語家の同じ噺を何度も聴いたわけではないので、私の勝手な想像なのだが、このあたりのところは噺家がマクラを振りながら観客の反応を見て適宜調整しているような気がする。

落語に限らず、観客の地域特性とか会場特性というものは、やはりある、と私は感じている。昨年1月に帰国してから今日までちょうど1年6ヶ月なのだが、この間に21の落語会を訪れた。会場の分布は以下の通りだ。

東京都
 中野区 3回
 千代田区 2回
 立川市 2回
 北区 1回
 練馬区 1回
 新宿区 1回
 葛飾区 1回
 足立区 1回
 武蔵野市 1回
神奈川県
 横浜市 3回
埼玉県
 草加市 2回
 蕨市 1回
 秩父市 1回
千葉県
 市川市 1回

どこがどうとは言わないが、観客総体としてのリテラシーは明らかに違いがある。ついでながら、美術館にもよく足を運ぶのだが、不思議なことに美術館によって客層に違いがあるのである。ちなみに、美術館に関してはこの1年半で延べ89回訪れた結果として、そう感じるのである。

単純なように見えることが、実は最も難しいというのは、落語に限らず、我々の人生のなかでけっこうよくあることのような気がする。落語そのものも愉快だが、落語を聴いていて、その噺とは何の脈絡もないような個人的経験がふと脳裏をよぎるという経験も、負けず劣らず愉快なことである。

演目
「道灌」 柳家緑太
「祇園会」 柳家花緑
(中入り)
江戸曲独楽 三増れ紋
「天狗裁き」 柳家花緑

開演:14時00分
閉演:16時15分

道具に縋る

2010年07月09日 | Weblog
この週末に性懲りもなくタッチラグビーの試合に出場する。先月に左脚がたいへんなことになってしまったので、今回は運動にふさわしい靴を履くことにした。とは言え、何を履いたらよいのかわからないので、まずはスポーツシューズを扱っている店に赴くことにした。ところが、運動などしたことがないので、これもどこへ行ったらよいのかわからない。とりあえず行きつけの百貨店へ行ってみた。百貨店というところは、ブランド毎に売り場を構えているので、これもどこへ行くのがよいのかわからない。一通り回ってみてから、ナイキのコーナーで近くにいた店員さんに尋ねてみた。

「あの、タッチラグビーってご存知ですか?」
「さぁ」
「ラグビーの簡便なやつで、芝生のグランドでやるんですけど」
「はぁ」
「そういう場合、どういう靴を履いたらいいんですかねぇ?」
「芝ですと、普通のランニングシューズでも大丈夫かとは思いますが、濡れていたりすると、やはりサッカーシューズのようなグリップの強いもののほうがよろしいかと思います。」
「ここにありますか?」
「商品としてはありますが、この売り場では扱っていないので、別のメーカーさんのコーナーに行かれるとよろしいかと思います。ここでは、そこのアディダスさんと、むこうのミズノさんで扱いがあると思います。」

なんと、その店員さんはミズノの売り場へ案内してくれた。百貨店も少しは変わったらしい。で、ミズノの売り場で同じ会話が始まる。やはりその店員さんもタッチラグビーはご存じないのだが、どのようなグランドを使うのかとか、どのような動作があるものか、というようなことを説明すると、やはりサッカーシューズを薦めてくれた。それで、サッカーシューズの棚から選ぶことになった。

個別の商品について、あれこれと素朴な疑問を投げかけたら、ひとつひとつ丁寧に回答してくれて、その結果、樹脂のスパイクがついた表革が天然皮革のものを購入した。

今度の試合は全部で4試合、各試合10分程度の予定である。試合前の準備運動もあるが、午前中だけで終わる予定だ。こう書くと、たいした運動量には思われない。しかし、前回は本当に辛い思いをしたのである。その所為で6月は運動らしい運動をすることができず、プールにも一度も入ることなく過ぎてしまった。果たして、靴を換えるだけでどれほどの効果があるものなのか。大いに注目するところだ。ユニホームを作り、靴も揃え、それでも身体が思うようにならないのであれば、競技からは潔く足を洗い、木工か陶芸でマネキンでも作って、それにユニホームなどを着せて飾っておこくことにしよう。

「無敵のソクラテス」

2010年07月08日 | Weblog
本を読む時は必ず付箋を用意している。自分の琴線に触れた箇所には片っ端から貼り付けながら読み進むのである。読み終わってから、付箋のところを拾い読みして、それほど面白くなければ付箋を剥がしてしまう。残った付箋のところをノートに書き写すのである。そのノートはクレディセゾンの決算説明会で頂いたハードカバーのもので、使いにくいが耐久性がありそうなので、こうした用途にいいだろうと思い、使っている。頂いてから使い始めるまで、少し間があるのだが、最初に書いたのは片岡義男「日本語で生きるとは」(筑摩書房)のなかの文章だ。書き写すのは面倒なので、写す文を厳選している。使い始めて4年になるが、ようやく半分程度埋まろうとしている。

昨日、レターケースを持ち帰って、家にある棚の上を整理したら、付箋を貼りっぱなしした本が何冊も出てきた。それで、それらの本を整理して、書き写しが終わったら売りに出してしまうものと、書き込みをして手許に残すものとに分けてしまう。最初に手にしたのが池田晶子の「無敵のソクラテス」(新潮社)。ソクラテス対話集形式の創作をまとめて今年1月に発行されたものだ。抱腹絶倒でしかも納得できる内容のものなので、手許に残すつもりで、鉛筆で書き込みをしながら付箋箇所を中心に再読した。

この本から書き写しておこうと思ったのは、例えばこんな文言だ。

「生命と価値とはじつは関係がない」

「いったい誰が自分でこの生命を作ったというのだ。誰が自分でこの生命を手に入れたというのだ。最初から自分のものでもないものを、自分のものだと言おうとするから、おかしなことになるのだよ。」

「何かを何かと言うためには、何かというその言葉が存在しなければならないのだ。何かが存在するということは、その言葉が存在するということなのだ。存在とは言葉に他ならないのだ。」

「金で買えるような快楽が、いったいどうして価値なんだか」

「言論は自由なんかじゃなくて必然だからだ。…それらが全ての人に理解されることができるのは、それが誰か個人の考えではないからだ。」

「自分ひとりのどうのこうのを気にするのさえやめれば、これ以上悠々たる眺めはないね。」

「誰彼の区別が必要な考えは、論理ではなく人生観と呼ぶべきじゃないかと思うね。」

「人間とは常にその人間観の語るところのものだ。「しょせん人間は」と語る人間は、しょせんそれだけの人間だと僕は言ってるんだよ。誰も自分の知らないことは、生きられないものだからね。」

「物質に価値を与えるのが精神なら、精神に価値を与えるのも、当の精神でしかない」

「生れちまったってそのことは、諦めるしかない」

「時間が過ぎ去るのでも人生が過ぎ去るのでもなくて、両方一緒に過ぎ去っているから、じつは何ひとつ過ぎ去ってはいないのではないかという気がするのです。」

「国民の意見という民意とは、平たく言えば、ひとりひとりの国民の利己的欲望のことではないのかね。」

「人が言葉を面白いと感じるのは、それが禁制を破るときだもの。」

「自分の理解できないものに無心で接することができないから、強引な仕方で理解するんだね。でも、それは決して理解したことにはなっていない。」

「僕らが誰か人を信頼するのは、その人の考えがその人の生き方を裏切らず、その人の生き方がその人の考え方を示している、そういうときだけだ。「一切の価値は無根拠である」、彼はずっとそう言ってきた。つまり、僕らが生きて在るということには何の意味も目的もない、とね。そんなことは当たり前だ。思想家の言を待って、僕らはそれを知るわけじゃない。言ってもしょうがないから、みんな黙って生きているんだ。だからこそ、僕らは、うそつきは要らない。信頼できる人を、十全の信頼でもって、信頼したいんだ。」

「この世の誰がいったい歴史の外に立ってそれを見る眼をもっているのかね。そんなことができると思っているのは、生れてこのかた生きたことのない理屈屋だけだよ。」

「一触即発の紛争地帯で日々を生きている人々が、その事態をうまく言い当ててくれる説明を求めるものだろうか。」

「人に見られなきゃ贅沢できないなんて、こんな貧相なことはないものね。お金で見栄を張る人は、心や頭が人には見せられない貧相なものだってこと、ほんとうは自分でようく知っているからこそ、そうしているのだからね。」

「人はウソに弱いのだ。ウソやウソのことを言う人を好んで、本当のことや、本当のことを言う人を怖れるのだ。なぜ怖れるかって、自分のウソを知っているからだ。自分がウソを言い、ウソを生きていることを知っているから、本当のことを知るのを怖れるのだ。」

「自分自身が善く生きていないことを知っているから、人は何かに誇りを求めるのではないのかね。善く生きている人は、何かに誇りを求めなくても、それ自体が誇りなのではないのかね。」

「自分には親がいる、人はこれには驚く、深く驚く。なぜなら、そこには、いかなる理由も見出せないからだ。」

「家族が家族である理由は、血のつながりあるというそのことだけであって、ほかに理由なんか、なんにもないのだ。あるのは偶然だけなのだ。だからこそ家族には、常に擬制が必要なのだ。」

「子供にとっての自立の契機とは何か。それは、他人だ。この世の中には他人というものが存在するということを知ることだ。そして、子供にとって、この世で最初の他人というのが、父親なのだ。父親が、自分のことを他人とみる最初の他人だ、第三者なのだ。一人称の自分、二人称の母親、この閉じられた関係に、三人称としての父親が登場してくることになるのだ。だから、父親が、その役回りをきちんと演じてみせないことには、子供は決して自立できないわけだね。」

「自分は自分であって親から生れてきたのではないということを自覚している人にとっては、家族ってのは役割演技でしかないんだが、人がそのことをきちんと自覚できるようになるためには、やっぱり家族の演技が必要なわけだね。」

「家族は孤独の避難所ではなく、自分の孤独を学ぶところだ。」

「懐疑という父親と、自己愛という母親の間に生れる子供とは、では何か。それが、他でもない、この自分、自分という精神そのものなのだ。精神とは、懐疑と自己愛すなわち否定と肯定との弁証法、したがって、この両者の間に生れた自分とは、両者を止揚するところの純粋精神だったのだ。出生とは、なんとまあ、純粋精神の正・反・合、弁証法的統一のことだったのだよ。」

「子供が自分は自分である、自分は純粋精神であるということを自覚する契機とは何か。これが内なる弁証法、すなわち、親殺しだ。」

「完璧なる子育ての結果は、完璧なる親殺しで終わるってわけだ。」

500ページほどの本の内容も、これほどに凝縮してみると、かえって内容がよく見えてくるような気がする。ここに書かれているようなことに共感できる人となら、親交を結べるような気もする。

雨にもめげず

2010年07月07日 | Weblog
このところ木工のある日の前の晩は激しい雨に見舞われる。昨夜もひどい雨だった。それで、今日も製作中のレターケースの引き出しが開かなくなっていた。

さすがに3週目なので、今日は鉋をかけるといっても微妙なところばかりで、結果として全て先生にお任せとなってしまった。集成材を使っていても、木であることに変わりはないので、梅雨時の、しかも豪雨の後の湿度の高いときには、木は暴れるのである。暴れない木はもちろんあるが、それは長い時間をかけて十分に乾燥させた木である。私如きがそこらのホームセンターで調達するようなものは、予算の制約もあるので、生乾きのものにならざるを得ない。それを騙し騙し、なんとか形にするのである。それはそれで楽しい経験であることには違いない。

なんとか引き出しを整えて、鉋で削ってしまったオイル塗装面にオイルを塗りなおし、全体を乾いた布で丹念に磨く。引き出しの出し入れで摩擦が生じる部分にワックスを塗り、出し入れが円滑になるようにする。これで完成だ。

次回からは、これまでの製作で溜まってしまった端材を使って置時計を作る予定である。ちょっと奇抜なデザインにしようかと思うのだが、それは実際に端材を目の前に並べて考えようかとも思っている。

盗人猛々しく

2010年07月06日 | Weblog
国税に「ノー」…主婦の訴え、税務行政揺るがす(読売新聞) - goo ニュース

年金方式で受給を受ける生命保険金に対して、これまで相続税と所得税の両方が課されていたのだが、これが「違法な二重課税」との判決が今日、最高裁判所で下された。生命保険金というと、それを狙った殺人事件が思い浮かんでしまうが、おそらく圧倒的大多数の生命保険は、自分が死んだ後の家族の生活を心配して掛けているものだろう。私は幸か不幸かこれまで死亡保険金を受け取った経験がないのだが、当然に無税だと思っていた。なぜなら、例えば給与生活者が保険を掛けるとすれば、掛け金は所得税と住民税とを納めた後の所得からやり繰りして支払うのである。そうして掛けた保険をいざ受け取る状況というのは、働き手を失って困ったことになっている人たちが少なくないはずだ。しかも、事故で亡くなった家族のものであれば、その喪失感は金銭には換算できないほど深いものだろう。病気で亡くなった家族のものであれば、看病や介護で既にそれなりの負担を抱えて後のことである。そういう人たちが受け取る保険金に課税するというだけでも非道だと思うのだが、ご丁寧に二重にかけるとは呆れて何も言えない。

私は常々、公務員というのはヤクザと同じだと思っている。暴力団というのは、末端の者はしばしば反社会的行為で市井の人々に迷惑を振りまくものだが、社会秩序の維持という点においては、それなりの役割を果たしているのではないだろうか。いわば、秩序維持のための民間組織がヤクザで、公的組織が行政官庁だという理解だ。表沙汰になれば、いかにもスキャンダルであるかのように報道されるが、現実としては暴力団と政治や行政との交流は常態として存在していると考えるのが自然だろう。何がどう変化したのか知らないが、ここ数年、警察が暴力団追放に躍起になっているという話をしばしば耳にするようになった。おかげで歌舞伎町などはずいぶん様相が変わったそうだ。ところが、暴力団の抜けた穴を警察やその他の行政が補いきれるわけもなく、そこに非日本人の困った組織が蔓延りだして却って厄介なことになっているという話も聞こえてくる。

「お役所仕事」というと、形式主義で融通の利かないことを指す否定的な意味に使われることが多いが、地方自治体とか国家行政というような巨大組織を動かすには形式主義でなければ機能しないのである。私が子供の頃は郵便局の局員だの国鉄の駅員だの役場の窓口だのに居る人というのは、妙に威張り腐っていたものだが、近頃の公務員はこちらが恐縮してしまうくらいに腰が低い。現場で働く個々人の公務員は職務に忠実で、少なくとも私の個人的経験に基づく限りは例外なく親切だ。いったい、いつごろからこのように変化したのか、何がきっかけだったのか、今となってはわからない。国鉄は民営化が契機となって組織が変わったのだろうが、郵便局は民営化前から既に変化していた。実家の近所の郵便局では、少なくとも私が中学生の頃までは、ひどく横柄な高齢の女性局員がいて、その態度に腹を立てた客と言い合いをしている姿をしばしば目撃した記憶がある。しかし、官公庁の窓口へ足を運ぶ用件というのは、そうたびたびあるわけではないので、国鉄と郵便局以外は記憶が連続していない。

末端の現象面の話はともかくとして、この国には「泣く子と地頭には勝てない」という精神風土があるのは確かだろう。言葉遣いや態度が慇懃であっても、親方日の丸が背後についているという意識は公系の人たちにはあるのだろうし、そういう意識があるからこそ、保険金に対する二重課税という発想が生れるのである。

保険金ではないが、私個人として、どうも納得しかねることに現在遭遇している。国民年金なのだが、ロンドン滞在中の2007年9月から2008年12月の分に対して支払えというのである。国民年金は日本国内に居住していなければ支払義務は無いと思っていたので、その旨の問い合わせをしたところ、「日本国内に居住していない場合でも、住民票が日本国内にある場合は納付義務があります。」という返事だった。しかし、日本を発つ前にそれまで住民票を置いていた自治体には転出届を提出しているし、帰国後に転入届を出した自治体が発行した私の住民票にはそれ以前に居住していた場所は「海外」とある。この期間、私の住民票は日本のどこにあったというのだろうか。

余談だが、国民年金の納付に関しては「もしもしホットライン」と名乗るところから電話があり、高齢の男性の声で、慇懃ではあるが高圧的な物言いで支払うことを要求された。「もしもし」自体は三井物産系の上場企業で、知り合いのなかにも学生時代にここでアルバイトをしていたという人もいるし、仕事の関係で代々木の事務所に何度かお邪魔しているので、よく知っている。しかし、私のところにかかってきた電話の主は、コールセンターの社員というイメージとは程遠い、コワイおじさん、という感じの声で驚いた。

こうした電話があってもなくても、お上に楯突く気などない小市民なので、粛々と毎月少額ずつ国民年金を納めている。わが国の年金制度は現役世代が年金受給者が受け取る年金を賄うというものだ。今、年金を受け取る人たちの血と汗と涙があればこそ、我々は今日の取り立てて不自由の無い生活を享受できている。それを思えば、納めないわけにはいかない。毎月給料が入ると、納付書を手にコンビニに赴く。心の中で手を合わせ、「ありがとうございます」とつぶやきながら納めるのである。あと2ヶ月で納付完了だ。

馬蝗絆

2010年07月05日 | Weblog
昨日、目黒区美術館で小堀宗慶展を観てきた。そこで久しぶりに馬蝗絆を観たのだが、以前よりも大きく感じられた。最初に見た頃は、まだ陶芸を始める遥か以前だったので、あまり深く考えなかったが、改めて眺めてみると、青磁の美しさは以前も今も印象深く感じるが、見込の大ぶり感が際立っていることに眼が行く。良い茶碗とは実際の大きさよりも内側が大きく感じられる、と言われるのだが、まさにその通りなのである。ただ、鎹を蝗に見立てるというのは、さすがに無理があるように思う。割れた茶碗を金継などで補修したり、意図的に割って金継をするというようなものもあるが、皹は皹であるに違いなく、そうした補修跡を気にしながら使う窮屈さをどのように捉えたらよいのか、今のところは考えあぐねてしまう。もう少し茶のことを学んで、考え方に変化が出てくれば、違った感じ方ができるのかもしれない。ただ、鎹はさておき、馬蝗絆の茶碗としての形であるとか、佇まいといったものの素晴らしさは、以前に見たときよりも今のほうが強く感じるのは確かである。

馬蝗絆の隣に喜左衛門。これは日本民藝館で観た朝鮮陶器の系列と言えると思う。やはり造形が素晴らしいが、細部の詰めに甘いところがあり、そこに却って心を惹きつけるものがある。縁に何箇所か欠けの補修跡があるが、今となってはそれも景色のうちである。造形の完成度として完璧と言える馬蝗絆の対極にあるものと見ることもできるだろう。対極といっても不完全ということではなく、微妙な揺れのようなものを含んでいるということだ。色も渋くてよい。最初からこの色だったのではなく、年月を重ねて現在の姿に至ったのだが、こうした終わりの無い変化もやきものの面白いところである。

たいがい美術館を訪れる時は、直前に腹ごしらえをする。そのほうが落ち着いて観ることができるからだ。昨日は権之助坂にある「東京うどん」というところで店名の「東京うどん」を頂いた。少し黒ずんだ蕎麦のような色の麺だが、この色は小麦のフスマの所為との説明書が店内の壁に書いてあった。なんとなく懐かしい味のする麺だと思ったら、子供の頃に祖母が作ってくれたうどんがこんな感じだったことを思い出した。何故だか知らないが、40代も後半に入ってから、子供の頃に慣れ親しんだ味が折りに触れて思い出されるようになった。蒸パンとか手打ち蕎麦とか、作ってもらって食べていた頃は、それが特別美味しいとも思わなかった。それが今頃になって食べてみたくなるのである。その祖母が亡くなったのはいつのことだったろうか。私が大学を出て留学をするまでの間だったから、23年前頃のことだったはずだ。私も死期が迫っていて、記憶が自然とフラッシュバックしているのだろうか。

メモワール.

2010年07月04日 | Weblog
東京都写真美術館で「古屋誠一 メモワール.愛の復讐、共に離れて…」を観た。写真家が自分の妻の写真を結婚した1978年から亡くなる1985年、亡くなった後の遺影の写真まで含めるなら1987年まで時間を遡って並べた作品展だ。古屋の妻、クリスティーネ・フルヤ=ゲッスラーは1985年10月7日、東ドイツ建国36周年の記念式典が行われているさなかに、当時住んでいた東ベルリンのアパートの9階から飛び降りたのだそうだ。統合失調症を患っていたという。そう思って見るからなのだろうが、写真の彼女の眼がどれも少し妙だ。まっすぐにカメラのレンズに向いているのに、カメラを見つめているのでもなければ、カメラを構える夫を見つめるのでもなく、それらを突き抜けた先を向いているような印象を受ける。結婚直後、新婚旅行を兼ねて来日したときの写真は少し怖い。「Izu 1978」と題された写真では、どこかの小さな港で、海を背にカメラを首からぶらさげて竿のようなものを持って笑顔で立っている。この作品展にある数少ない笑顔の写真だ。1978年という結婚した年、夫の故郷を訪ねる新婚旅行、楽しそうな笑顔。しかし、竿を握る手首にはリストカットの痕がはっきりと写っている。彼女は、古屋との出会いで、自分が抱える闇から抜けられると期待したのではないだろうか。改めてその写真から死の年へと時間を辿る。そこに笑顔はもうない。

彼女と古屋がどのようにして出会い、どのような時間を重ねてきたのか知らない。写真で語られているのは、ふたりの生活の最初から不安の影が色濃く漂っていた、その空気のようなものだ。それでもふたりの生活を始めることを選択したのは何故なのか。それは所謂「愛」故のことなのか。当事者にしかわからない、当事者すらもおそらくわからないことなのだろう。写真で切り取った断片を眺めてみれば、そこにその場では気付かなかった、気付くまいとしていた、気付いていたけれど敢えて無視していた、痛切な現実が見えてきてしまうこともある。それは傍観者にとっては他人事でしかないのだけれど、そこに重ね合わせることのできる現実を抱えて生きている人は、案外多いのかもしれない。だからこそ、そうした写真が高い評価を得るのではないだろうか。

暑中見舞い準備

2010年07月03日 | Weblog
今年は珍しく暑中見舞いを書くことにした。しかも手書きで。誰に出そうかと住所録を繰りながら名前を書き出してみたら24名になった。ちょうどよい人数だろう。私が自分の意識のなかで、日頃付き合いの無いなかで意識を振り向けることのできる人数はせいぜい30人程度が限度だろうと感じていたが、書きたいけれど住所がわからない先も含めるとそのくらいの人数になる。まさに感覚通りの結果になったことに多少の満足を含んだ驚きを覚えた。

葉書に使う紙は昨日の出勤前に寄り道をして、小津和紙で買い求めた。今日は新宿の世界堂でGペンを購入した。文面は既に定型部分は出来上がっており、相手に応じて1行かそこらを書き加えるだけなので、いつでも書き始めることができる。梅雨明けまでに準備をして、梅雨明け宣言と同時に発送しようと思う。

入念に準備をしても、おそらくそういうことが通じる相手はいないかもしれない。それはそれで面白いのではないかと思っている。真夏の喜劇だ。

設立趣意書草案

2010年07月02日 | Weblog
以前から古道具屋兼ギャラリー兼カフェのようなものを経営したいと考えている。そこを拠点に世界を変える、というような大それたことは考えもしないが、それでも半径25kmくらいは変えてみたいとは思う。

バブル崩壊以降、自分の生活圏はなんとなく閉塞感に満ちている。それは景気が悪いということよりも、社会が成長フェーズから成熟フェーズに移行したのに、そこで暮らす人々の感覚が適応できていないからという気がする。

経済が当然の如くに成長する時代にあっては、平均的な国民所得が増加し、それに伴って生活コストも上昇する。生活コストの上昇とはその社会における人件費の上昇でもある。同じ性能性質のものを作る場合、市場での競争力は相対的に低コストの地域で作られたものにはかなわない。

一旦上昇した生活コストを下げるのは容易ではない。それならば、「同じ性能性質」という尺度ではない、全く別の土俵で勝負をするべきなのではないだろうか。既存の価値観とは一線を画し、自分自身の知性と感性に基づいて新たな価値を創造すれば、そこに新たな地平が開けるのではないだろうか。どこに出しても競争力を発揮できるような独自性や独創性を追求するのである。その一助として、自分が考えて、これは、と思うものを持ち寄る場があれば、そこに化学反応のようなものが生じて、そこに集う人々にとって新たな世界が生れるのではないだろうか。

決して市場原理や既存の価値観を否定しようというのではない。人それぞれの価値観を認め合う場があってもいいだろうということだ。既存の権威にすがるのではなしに、自分の価値を創り出すのは自分以外に無いという当然のことを実践しようというだけのことだ。

市場原理に基づく既存の価値観があり、それとは別に個人の独自の価値観があり、しかもそれらが時と場合に応じて重複したり並立したりするのである。それは当然の在りようなのだから、そういう場の居心地は良いはずだ。ひとりよがりのものさしがたくさんひしめき合ったら楽しいだろうと思うのである。

店のイメージとしては、須賀敦子の著作に登場するコルシア書店の道具屋版のようなものを漠然と考えている。実際のコルシア書店を知らないので、私の夢想でしかないのだが、物を媒介にして人と人とが繋がり合う、しかも、現実に面と向かう機会を得る場、というところが肝心だ。新しいことというのは、人と人とのある程度濃密な関係のなかからしか生れないものではないかと思っている。

大まかな店のイメージとしては以下のようなものを考えている。
取り扱い商品:
・原則として手仕事の製品
・安物は扱わない
・店舗はギャラリーとして使うこともあるので、移動が容易な大きさや重さのもの
対象顧客層:
・独自の視点を持ち、且つ、他人の視点も尊重できる人
店舗の立地:
・不便でないが、コストもかからない場所
・こんなところにこんな店が、という意外性のある場所
会員制:
・任意だが会費を徴収し、会報を発行する
・会費は年間1,200円程度に抑えて敷居は低くする
・しかし誰でも受け容れるというわけではない
・会報は月刊 広告を取れるくらいの内容を目指す
その他:
・ウエッブサイトは用意するが、ネット販売はやらない
・実物を見ないで買おうと思うような発想の客を排除することと、生身の人間どうしの付き合いを基本にするため

今は漠然としたイメージだけで、実現のために必要な資金もコネも何も無いが、なんとか実現させてみたいものだ。