リンク: 聖徳太子 実在疑問で教科書での存在が年々薄くなっていった - 速報:@niftyニュース.
『日本書紀』では皇太子厩戸豊総耳皇子と記され、『隋書倭伝』では倭王多利思比孤の名で残る聖徳太子。最近、日本国の教科書では、聖徳太子の実在に疑問が呈されたためか、週刊誌に”暴落”と書かれるほど、扱いが軽くなっているそうです。
非実在論者やその支持者達は、厩戸豊総耳皇子=多利思比孤=聖徳太子の等式が証明できないことを以って、実在が怪しいと主張しています。教科書出版社もまた、実在を証明できないことを理由に、懐疑論の併記する、あるいは、記述を減らすという判断をしているようです(実証性が問題であれば、真っ先に削除すべきは”従軍慰安婦”では…)。しかしながら、7世紀における対隋外交こそが、その後の日中関係を決定付け、そして、アジアの秩序にも決定的な影響を与えています。以後、日本国は、歴代中華帝国に服属することなく独立を維持し、対等外交を基軸とした対中政策を採るからです。聖徳太子が隋の煬帝に送った国書に記された「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々…」の精神は、今日に至るまで、日本国の外交方針の基本として脈々と受け継がれてきました。そして、アジアでは、日本国の存在に阻まれて、ついぞ、中華帝国を中心に同心円状に広がる一元的な華夷秩序は成立しなかったのです。聖徳太子の事績は、日本史のみならず、世界史においても重要なエポック・メーキングであり、この事績なくして、今日を語ることができない、と言っても過言ではありません。
7世紀の対隋外交の重要性に鑑みますと、名称の混乱を以って、その事績までも消し去ろうとする動きは、あまりに不自然です。その背景こそ疑ってみるべきであり、古代の歴史までも、自らの都合、あるいは、野望に合わせて書き変えたい勢力の存在が伺えます。今日の国際社会では、主権平等の原則は一般化しましたが、未だにこの原則を踏みにじろうとする国は存在しているのですから。
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『日本書紀』では皇太子厩戸豊総耳皇子と記され、『隋書倭伝』では倭王多利思比孤の名で残る聖徳太子。最近、日本国の教科書では、聖徳太子の実在に疑問が呈されたためか、週刊誌に”暴落”と書かれるほど、扱いが軽くなっているそうです。
非実在論者やその支持者達は、厩戸豊総耳皇子=多利思比孤=聖徳太子の等式が証明できないことを以って、実在が怪しいと主張しています。教科書出版社もまた、実在を証明できないことを理由に、懐疑論の併記する、あるいは、記述を減らすという判断をしているようです(実証性が問題であれば、真っ先に削除すべきは”従軍慰安婦”では…)。しかしながら、7世紀における対隋外交こそが、その後の日中関係を決定付け、そして、アジアの秩序にも決定的な影響を与えています。以後、日本国は、歴代中華帝国に服属することなく独立を維持し、対等外交を基軸とした対中政策を採るからです。聖徳太子が隋の煬帝に送った国書に記された「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々…」の精神は、今日に至るまで、日本国の外交方針の基本として脈々と受け継がれてきました。そして、アジアでは、日本国の存在に阻まれて、ついぞ、中華帝国を中心に同心円状に広がる一元的な華夷秩序は成立しなかったのです。聖徳太子の事績は、日本史のみならず、世界史においても重要なエポック・メーキングであり、この事績なくして、今日を語ることができない、と言っても過言ではありません。
7世紀の対隋外交の重要性に鑑みますと、名称の混乱を以って、その事績までも消し去ろうとする動きは、あまりに不自然です。その背景こそ疑ってみるべきであり、古代の歴史までも、自らの都合、あるいは、野望に合わせて書き変えたい勢力の存在が伺えます。今日の国際社会では、主権平等の原則は一般化しましたが、未だにこの原則を踏みにじろうとする国は存在しているのですから。
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