フィリピンでは、子供に対する体罰禁止法案は議会上下両院で可決されたものの、同法案に対してデゥテルテ大統領が拒否権を発動したと報じられています。日本国でも、昨日、衆議院の予算員会にて安倍首相が、体罰禁止の児童虐待防止法の改正案としての法案化を明言しており、体罰禁止は‘グローバルな潮流’なようです。デゥテルテ大統領は、こうした流れを‘西側諸国の風潮’と語っていますが、同時期における日比政界の動きは偶然の一致とは思えず、おそらく、背後には国連等の国際組織の意向が働いているのでしょう。
体罰禁止法案に対する署名拒否の理由として、ドゥテルテ大統領は、‘親による責任あるしつけと虐待’との混同を挙げております。日本国内でも、千葉県で起きた痛ましい児童虐待事件が発端となりましたので(虐待の証拠となる映像を何故母親は撮影したのか、謎が残る…)、フィリピンでも、同じようなDV事件を機に法制化へのプロセスを辿ったのかもしれません。何れにしましても、児童虐待と体罰との間には相当の飛躍がありますので、同大統領の説明にも理を認めることができます。そして、体罰禁止には、DVとの混同の他にも、様々な問題が潜んでいるように思えるのです。
第1の問題点とは、言語能力や理解力が未発達な状態にある子供に対しては、してはいけない行為の理由を理屈で説明することができない点です。子供達は大人のようには危険を予知・予測できませんので、命が危うくなるような行動でも平気でとります。言葉そのものを理解できないのですから、時には‘痛み’という伝達手段で危険性を教える必要が生じる場合もないわけではありません。体罰を全面的に禁じますと、子供の命が危うくなるケースもないわけではなく、むしろ、子供の安全を守るためにこそ体罰が必要、という考え方もあるはずです。少なくとも手の平やおしりといった体の一部であれば、傷跡や後遺症が残る程度でなければ、虐待には当たらないのではないでしょうか。
第2の問題点は、自己抑制能力が低いレベルにあるため、子供そのものが時として‘乱暴者’である点です(もっとも、おとなしい子もおります)。体罰禁止の考え方の基本は、子供の権利保護の観点から親による子に対する暴力を禁じるところにあります。しかしながら、現実には、逆の関係もあり得ます。子供による親に対する暴力も当然存在するのであり、街中を歩いていましても、子供が親を激しく叩いたり、蹴ったりする光景を目にすることも少なくありません。こうした場合、親による体罰のみが禁じられますと、親は子供の暴力に忍の文字で耐える一方で、子供の暴力はエスカレートする一方となりましょう。つまり、親の権利保護の観点からすれば、不公平なことにもなりかねないのです。親による体罰とは、原則として家庭内には国家権力は入り込めませんので、いわば、‘私的な警察・司法制度’の意味合いもあるのです。
‘罰’と表現されていることが示すように、体罰は、道徳や倫理に反した行為、即ち、‘罪’を犯した時に身体に対して‘罰’が与えられることを意味します。大人の世界でさえ、犯罪者は刑務所に収監され、自由を制限されるという一種の‘体罰’を受けているのが現実です。しかしながら、罪と罰との関係を考えれば、体罰禁止は、子供の内であれば‘罪’を犯しても‘罰’を受けなくてもよい、あるいは、‘罰’を受けずに過ごした幼児体験が成人後にも影響し、‘罪’と‘罰’との関係に関する意識を希薄化させる可能性もあります。
幼少の時から‘罪’と‘罰’との応報関係を理解しておくべきですし、仮に罰を受けずに育った人々が社会の多数を占めるに至りますと、横暴で身勝手な人々が増え、暴力や犯罪も増加するかもしれません。こうした犯罪意識の希薄化が第3の問題点です。
第4の問題点として監視社会化のリスクの観点から指摘し得るのは、体罰禁止がやがて政府による家庭内監視の根拠とされてしまう懸念です。IT技術等の発展により、今日では監視カメラを家庭内に設置し、外部から監視することは技術的には可能です。DV防止から体罰禁止への流れが造られている点に注目しますと、立法措置の真の目的は、一つの事件を社会問題化することにより、監視対象を全家庭一般へと浸透させることにあるのかもしれません。中国をはじめ、情報・通信技術を以って監視社会化へと向かう徴候が顕著となった今日、政治の動きの背景を疑わざるを得ない状況にあることは、まことに残念なことです。
無抵抗な幼い子供達が家庭内にあって親から虐待を受けることはあってはならず、児童虐待の防止強化それ自体の方向性に反対する人は殆どいないことでしょう。多くの国民が親による冷酷な虐待によって命を奪われている子供達が存在することに心を痛めています。しかしながら、犯罪としての児童虐待と体罰禁止とを直線的に結びつけるのは短絡的であり、上述した諸問題に照らせば危険でさえあります。体罰の禁止を以って虐待死を防ぐことができるはずもなく、子供達の身体や健康状態のチェックや子供の‘駆け込み寺’のような保護機関の設置など、より効果的な別の方法を考案すべきなのではないでしょうか。
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体罰禁止法案に対する署名拒否の理由として、ドゥテルテ大統領は、‘親による責任あるしつけと虐待’との混同を挙げております。日本国内でも、千葉県で起きた痛ましい児童虐待事件が発端となりましたので(虐待の証拠となる映像を何故母親は撮影したのか、謎が残る…)、フィリピンでも、同じようなDV事件を機に法制化へのプロセスを辿ったのかもしれません。何れにしましても、児童虐待と体罰との間には相当の飛躍がありますので、同大統領の説明にも理を認めることができます。そして、体罰禁止には、DVとの混同の他にも、様々な問題が潜んでいるように思えるのです。
第1の問題点とは、言語能力や理解力が未発達な状態にある子供に対しては、してはいけない行為の理由を理屈で説明することができない点です。子供達は大人のようには危険を予知・予測できませんので、命が危うくなるような行動でも平気でとります。言葉そのものを理解できないのですから、時には‘痛み’という伝達手段で危険性を教える必要が生じる場合もないわけではありません。体罰を全面的に禁じますと、子供の命が危うくなるケースもないわけではなく、むしろ、子供の安全を守るためにこそ体罰が必要、という考え方もあるはずです。少なくとも手の平やおしりといった体の一部であれば、傷跡や後遺症が残る程度でなければ、虐待には当たらないのではないでしょうか。
第2の問題点は、自己抑制能力が低いレベルにあるため、子供そのものが時として‘乱暴者’である点です(もっとも、おとなしい子もおります)。体罰禁止の考え方の基本は、子供の権利保護の観点から親による子に対する暴力を禁じるところにあります。しかしながら、現実には、逆の関係もあり得ます。子供による親に対する暴力も当然存在するのであり、街中を歩いていましても、子供が親を激しく叩いたり、蹴ったりする光景を目にすることも少なくありません。こうした場合、親による体罰のみが禁じられますと、親は子供の暴力に忍の文字で耐える一方で、子供の暴力はエスカレートする一方となりましょう。つまり、親の権利保護の観点からすれば、不公平なことにもなりかねないのです。親による体罰とは、原則として家庭内には国家権力は入り込めませんので、いわば、‘私的な警察・司法制度’の意味合いもあるのです。
‘罰’と表現されていることが示すように、体罰は、道徳や倫理に反した行為、即ち、‘罪’を犯した時に身体に対して‘罰’が与えられることを意味します。大人の世界でさえ、犯罪者は刑務所に収監され、自由を制限されるという一種の‘体罰’を受けているのが現実です。しかしながら、罪と罰との関係を考えれば、体罰禁止は、子供の内であれば‘罪’を犯しても‘罰’を受けなくてもよい、あるいは、‘罰’を受けずに過ごした幼児体験が成人後にも影響し、‘罪’と‘罰’との関係に関する意識を希薄化させる可能性もあります。
幼少の時から‘罪’と‘罰’との応報関係を理解しておくべきですし、仮に罰を受けずに育った人々が社会の多数を占めるに至りますと、横暴で身勝手な人々が増え、暴力や犯罪も増加するかもしれません。こうした犯罪意識の希薄化が第3の問題点です。
第4の問題点として監視社会化のリスクの観点から指摘し得るのは、体罰禁止がやがて政府による家庭内監視の根拠とされてしまう懸念です。IT技術等の発展により、今日では監視カメラを家庭内に設置し、外部から監視することは技術的には可能です。DV防止から体罰禁止への流れが造られている点に注目しますと、立法措置の真の目的は、一つの事件を社会問題化することにより、監視対象を全家庭一般へと浸透させることにあるのかもしれません。中国をはじめ、情報・通信技術を以って監視社会化へと向かう徴候が顕著となった今日、政治の動きの背景を疑わざるを得ない状況にあることは、まことに残念なことです。
無抵抗な幼い子供達が家庭内にあって親から虐待を受けることはあってはならず、児童虐待の防止強化それ自体の方向性に反対する人は殆どいないことでしょう。多くの国民が親による冷酷な虐待によって命を奪われている子供達が存在することに心を痛めています。しかしながら、犯罪としての児童虐待と体罰禁止とを直線的に結びつけるのは短絡的であり、上述した諸問題に照らせば危険でさえあります。体罰の禁止を以って虐待死を防ぐことができるはずもなく、子供達の身体や健康状態のチェックや子供の‘駆け込み寺’のような保護機関の設置など、より効果的な別の方法を考案すべきなのではないでしょうか。
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