政治討論会などにおいて、発言者が‘プロレス’なる場違いの言葉を使うのを耳にしたことがある方は少なくないのではないかと思います。政治と武闘興行の一種であるプロレスは活動分野としては全く別世界なのですが、この表現に誰もがすんなりと納得してしまうのは、国民の多くが、政治の世界においてもプロレスと同様に‘八百長’があるのではないかと疑っているからに他なりません。
‘政治的プロレス’の問題は、人々が思っている以上に深刻です。本物のプロレスでは、観客の殆ど誰もが、プロレスラーの双方が演出家の筋書き通りに演じているに過ぎないことを知っています。十分に承知していながらも、ヒーロー役によってアンチヒーロー役が打ちのめされるシーンに熱狂しているのです。一方、‘政治的プロレス’にあっては、人々は、対立する両者が‘役者’に過ぎず、誰かが書いた脚本を忠実に演じていることを知りません。全ての情報がそうあるように、情報の有無は人の判断に決定的な影響を与えますので、人々は、政治闘争などの‘政治的プロレス’を現実と見なしてしまい、政治問題について誤った判断をせざるを得なくなるのです。つまり、脚本を書いた側が、およそ全ての政治家、政党、及び、政治勢力等に役を割り振って国民を騙し、自らにとって有利な方向に政治を誘導しているということとなるのです。
‘政治的プロレス’の存在は同時に、民主主義の価値に照らしますと、国民が政治的な選択の自由を失い、事実上の独裁体制の下に置かれていることを意味します。民主化の証とされる多党制も有名無実となり、一般の国民は、どの政党を支持しても最終的な結果は同じです。‘政治的プロセス’が存在するとすれば、それは民主的制度を悪用した民主主義の否定と直結しますので、極めて悪質、かつ、狡猾な手法と言わざるを得ないのです。
それでは、この‘政治的プロレス’のからくりとは、一体、どのようなものなのでしょうか。国民が騙されないためには、詐術的手法の仕組みを解明することこそ重要です。そこで、同仕組みについて考えてみますと、おそらく、以下のようなメカニズムが働くことで、背後で操る側は人々を効果的に誘導しているのではないかと推測されるのです。
(1)誘導のための動力は、人々が普遍的に有している善へ志向である。古今東西を問わず、勧善懲悪の結末を歓迎して喜ぶのは普遍的な心理であり、また、不条理な現実に対してより善き世界の実現を求める心情がある。
(2)誘導する側は、其々の政党に対して決して首尾一貫した政策綱領を掲げさせない。保守系であれ、革新系であれ、何であれ、政策分野ごとに自らの実現したい政策とその反対の政策を、政党間の対立軸となるように巧妙にミックスさせる。このことは、各政党の政策綱領には、国民の期待している政策と国民が忌避したい政策を抱き合わされていることを意味する。
(3)選挙に際しては、(1)で指摘した人々の現状改善志向に訴えるアジェンダを設定し、マスコミ等も動員して同政策を掲げる政党に勝利させる(デジタル化の進んだ最近では、票の集計操作もあり得るかもしれない…)。この際、一般国民の大半が真に望んでいる政策は争点とならないよう、予め慎重に排除する。
(4)選挙に勝利した政権政党に対しては、(2)で抱合せた国民が忌避したい政策を実行させると共に、民主的選挙制度を通して‘国民が自らの自由意思で選んだ政権’とする立場を十二分に発揮させ、政策綱領に記載されていない政策であっても強引に推進させる。この間、野党に対しては与党に対して対峙するポーズを取らせつつも、政策や法案に含まれる核心的な欠陥、国益の毀損、国民の不利益については触れさせないようにする。
(5)政権与党による背信的政策が明るみとなり、国民からの批判が高まった時点で、野党に対して‘正義の味方’のふりをして、国民の不満を吸収するよう指示する…。
以下、このルーティーンを繰り返せば、ほぼ永遠に民主主義国家の政治を裏から全面的にコントロールすることができます。そしてこの手法は、音もなく、誰からも気が付かれず、そして、自らは表に出ることなく、秘かに全人類の支配を目論む者にとって最適の手法とも言えるのです。しかしながら、‘政治的プロレス’の存在が人々に知られるようになれば、この手法の効力も自ずと失われてゆきます。過去の歴史のみならず、今日の政治を世界レベルで見渡しましても、‘政治的プロレス’の存在を確信させるような出来事や現象が多々見られますので、日本国民をはじめ各国の国民は、家畜化されぬように警戒を怠ってはならないのではないかと思うのです。
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‘政治的プロレス’の問題は、人々が思っている以上に深刻です。本物のプロレスでは、観客の殆ど誰もが、プロレスラーの双方が演出家の筋書き通りに演じているに過ぎないことを知っています。十分に承知していながらも、ヒーロー役によってアンチヒーロー役が打ちのめされるシーンに熱狂しているのです。一方、‘政治的プロレス’にあっては、人々は、対立する両者が‘役者’に過ぎず、誰かが書いた脚本を忠実に演じていることを知りません。全ての情報がそうあるように、情報の有無は人の判断に決定的な影響を与えますので、人々は、政治闘争などの‘政治的プロレス’を現実と見なしてしまい、政治問題について誤った判断をせざるを得なくなるのです。つまり、脚本を書いた側が、およそ全ての政治家、政党、及び、政治勢力等に役を割り振って国民を騙し、自らにとって有利な方向に政治を誘導しているということとなるのです。
‘政治的プロレス’の存在は同時に、民主主義の価値に照らしますと、国民が政治的な選択の自由を失い、事実上の独裁体制の下に置かれていることを意味します。民主化の証とされる多党制も有名無実となり、一般の国民は、どの政党を支持しても最終的な結果は同じです。‘政治的プロセス’が存在するとすれば、それは民主的制度を悪用した民主主義の否定と直結しますので、極めて悪質、かつ、狡猾な手法と言わざるを得ないのです。
それでは、この‘政治的プロレス’のからくりとは、一体、どのようなものなのでしょうか。国民が騙されないためには、詐術的手法の仕組みを解明することこそ重要です。そこで、同仕組みについて考えてみますと、おそらく、以下のようなメカニズムが働くことで、背後で操る側は人々を効果的に誘導しているのではないかと推測されるのです。
(1)誘導のための動力は、人々が普遍的に有している善へ志向である。古今東西を問わず、勧善懲悪の結末を歓迎して喜ぶのは普遍的な心理であり、また、不条理な現実に対してより善き世界の実現を求める心情がある。
(2)誘導する側は、其々の政党に対して決して首尾一貫した政策綱領を掲げさせない。保守系であれ、革新系であれ、何であれ、政策分野ごとに自らの実現したい政策とその反対の政策を、政党間の対立軸となるように巧妙にミックスさせる。このことは、各政党の政策綱領には、国民の期待している政策と国民が忌避したい政策を抱き合わされていることを意味する。
(3)選挙に際しては、(1)で指摘した人々の現状改善志向に訴えるアジェンダを設定し、マスコミ等も動員して同政策を掲げる政党に勝利させる(デジタル化の進んだ最近では、票の集計操作もあり得るかもしれない…)。この際、一般国民の大半が真に望んでいる政策は争点とならないよう、予め慎重に排除する。
(4)選挙に勝利した政権政党に対しては、(2)で抱合せた国民が忌避したい政策を実行させると共に、民主的選挙制度を通して‘国民が自らの自由意思で選んだ政権’とする立場を十二分に発揮させ、政策綱領に記載されていない政策であっても強引に推進させる。この間、野党に対しては与党に対して対峙するポーズを取らせつつも、政策や法案に含まれる核心的な欠陥、国益の毀損、国民の不利益については触れさせないようにする。
(5)政権与党による背信的政策が明るみとなり、国民からの批判が高まった時点で、野党に対して‘正義の味方’のふりをして、国民の不満を吸収するよう指示する…。
以下、このルーティーンを繰り返せば、ほぼ永遠に民主主義国家の政治を裏から全面的にコントロールすることができます。そしてこの手法は、音もなく、誰からも気が付かれず、そして、自らは表に出ることなく、秘かに全人類の支配を目論む者にとって最適の手法とも言えるのです。しかしながら、‘政治的プロレス’の存在が人々に知られるようになれば、この手法の効力も自ずと失われてゆきます。過去の歴史のみならず、今日の政治を世界レベルで見渡しましても、‘政治的プロレス’の存在を確信させるような出来事や現象が多々見られますので、日本国民をはじめ各国の国民は、家畜化されぬように警戒を怠ってはならないのではないかと思うのです。
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