万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

世界を徘徊する危険な思想-共産主義と資本主義の‘止降’?

2019年03月02日 14時21分20秒 | 国際政治
金正恩氏が帰国の途、再び中国へ 習主席と会談するかが焦点
第2回米朝首脳会談がベトナムの首都ハノイで開催された理由は、政治分野では共産党一党独裁体制を堅持しながらも中国同様に経済分野にあって改革開放路線を選択したベトナムを、模範とすべき発展モデルとして北朝鮮に提示するためであったと説明されています。開催地選定には、体制移行、即ち、金王朝の退陣を求めないとするアメリカ側のメッセージが込められていたのでしょうが、近年の国際社会における動きを見ていますと、共産主義と資本主義の‘止揚’ならぬ、‘止降’という現象が起きているように思えます。

 ‘止揚’とは、近代哲学の巨人であったヘーゲルが唱えた弁証論において用いられている概念であり、初期段階において二つのものが相矛盾し対立し合う状態にあっても、相互に反発し合う力がやがて両者を上方に押し上げ、高次においてより優れたものとして一体化するとしています。短辺となる一面を接して水平状態に並べた二枚の板を左右両方の端から同程度の力を加えれば、二枚の板は両者が接する面を頂点として山型を為しますが、‘止揚’とは、こうした力学的な説明を以ってイメージされるのです。このため、カール・マルクスを含め、批判的継受であれ、ヘーゲル哲学に基礎を置く思想家の多くは自然科学における絶対普遍の理論の如くに‘止揚’を絶対真理として信奉する嫌いがありました。

しかしながら、一方の押す力が圧倒的に優っている、あるいは、板の‘素材’の強度に違いがあれば、他方は押し出されるか、壊れてしまいます。また、押す力や材質が同程度であったとしても、逆方向から相互に押し合う力は必ずしも高次において‘止揚’するとは限らず、低次においてバランスしてしまう‘止降’もあり得るはずです。すなわち、山型ではなく、谷型となるのです。そもそも人文や社会科学の分野に物理学的な現象説明を持ち込むことにも疑問もあるのですが、現実には、古今東西を問わず、人類社会における対立にあっては、一方の他方に対する攻撃や抹殺といった悲劇をもたらしたケースの方が遥かに多いのです。

ヘーゲル哲学の問題点が分かれば、二項対立の構図に内在するリスクも見えてくるのですが(三つ巴でも基本的構図は変わらない…)、近代以降の人類社会が、凡そ資本主義対共産主義の対立構図で覆われてきたのは、単なる偶然なのでしょうか。ヘーゲル信奉者であれば、人類がより高次の存在に‘止揚’するためには、両者が対立して押し合う二項対立こそ望ましい状況なはずです。共産主義なる思想がカール・マルクスという一人の俗人の頭の中の産物であるにもかかわらず、世界を二分する一大イデオロギーへと伸し上がった背景には、後進国であったソ連邦や中国の急速なる超大国化と同様に、ヘーゲル哲学を取り入れた何らかの国際勢力によるバックアップがあったとしか考えられないのです。

そして、全世界を操る組織がヘーゲル哲学に従って二項対立から単一への道を計画しているとしますと、相対立する共産主義と資本主義との間の‘止揚’を、両者が融合された新たな未来像として提起してくる時期にそろそろ差し掛かっているように思えます。しかしながら、それは、先述したように必ずしも高次元ではなく、低次元である可能性の方が高いのです。つまり、両者の最悪の部分を併せ持つ形での‘止降’かもしれないのです。

共産主義と資本主義との対立が‘止降’によって解消される場合、資本主義国の良い側面であった自由、民主主義、基本権の尊重、法の支配といった諸価値が削ぎ落される一方で、経済的自由のみは、巨大独占企業がグローバル市場を掌握するために残されることでしょう。共産主義国でも、その良い面であった平等が消え去る一方で(もちろん、平等に貧しくですが…)、‘プロレタリアート独裁’の名の下での政治的共産党一党独裁体制のみは生き残ることでしょう。結局は、官民何れであれ、独裁、あるいは、寡頭体制が成立し、少数が権力や富を独占すると共に、その他の多数の人々の‘家畜化’となるのではないでしょうか。‘家畜化’された人々は、動物の家畜と同様に‘客体’として最低限の生活は保障されてはいても、政経の両面においてもはや自らの運命を自らで決めることができる‘主体’とはなり得ないのです。国際勢力の目指す未来像が、一部の少数者による全世界の政治権力と富の独占による人類支配であるならば、その手法が如何に高度で手が込んではいても、ある意味において、子供じみた単純なヴィジョンであるのかもしれません。

こうした視点から見ると、今日、共産主義国は経済面での資本主義化により、そして、資本主義国は政治面での共産主義化により、双方とも、一つの未来社会に向かって進んでいるように見えます。官民を問わず、情報の独占を許すITやAI等の技術は、こうした社会の実現を支える支配のためのテクノロジーともなりましょう。そして、たとえ完全なる非核化と引き換えに北朝鮮に多額の外資が流れ込み、中国やベトナムと同様の経済発展を遂げたとしても、そこには独裁体制の下で全国民をテクノロジーで徹底的に統制する‘ミニ中国’が出現するに過ぎません。国民の生活レベルがある程度は向上したとしても、それは、‘当局’が許す限りに過ぎず、国民は、誰からも干渉されない私的空間を持つことも、自由を享受することも叶わないのです。北朝鮮問題は、同国の未来のみならず、人類社会の未来についても警鐘を鳴らしているように思えるのは、果たして杞憂なのでしょうか。

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