6月30日に施行された香港国家安全維持法により、香港では、既に370人余りの人々が逮捕されたと報じられております(当初は7月1日に施行されると報じられていましたが、施行日は、可決即日の6月30日であったらしい…)。北京政府は、取り締まりの対象となるのは‘少数’の活動家であるかのように説明しておりしたが、370人にも上った大量逮捕は、香港の民主化運動に対する断固たる北京側の姿勢の現れなのでしょう(もっとも、同法違反としての逮捕は10名らしい…)。香港は、今や恐怖が支配する政治犯用の監獄都市と化したかのようです。
香港では、天安門事件はおろか、自由や民主主義という言葉そのものも北京政府によって消されてしまいそうなのですが、中国の本土の一般国民も、香港と然程には変わらない状況に置かれています。違いがあるとすれば、中国本土で暮らす少なくない国民が、皆が平等に貧しい毛沢東時代の経験からすれば今日の中国の状況ははるかに‘まし’と考えている一方で、自由な空気の中で精神的にも物質的にも豊かな生活を送ってきた香港市民にとりましては、北京政府による電撃的な‘共産化’は言い知れない絶望となるという点にあるのかもしれません。
香港の状況を見ますと、今日、戦闘的な遊牧民族の王朝であった北朝が豊かな文明の地であった南朝を征服してきた中国の歴史が繰り返されているかのようです。共産主義の経済モデルも、北方から騎馬を駆って襲来した征服王朝が南方の農耕民を支配するための制度でもあった均田制に酷似しています。この時も、南部の住民たちは圧倒的な武力の前に屈し、自由はもとより命も身体も、そして財産も奪い去られています(奴隷として北方に連行されてしまった人々も…)。習近平国家主席が唱える‘中国の夢’が統一中華帝国の復興であるならば、現代にあっても、暴力こそ相手に有無を言わせない絶対的な強制力を有する‘征服手段’と見なしていることでしょう。そして、近い将来、北京政府は、香港に次いで台湾に対しても牙を剥くかもしれないのです(台湾の次には、日本国を含む周辺諸国へのドミノ倒し的な侵略が開始されるかもしれない…)。
それでは、予測されるえる中国による暴力支配を防ぐことはできるのでしょうか。仮に中国国民に一縷の望みを繋ぐならば、それは、改革開放路線に転じる以前の中国を体験していない、比較的若い世代の意識変化にあります。天安門事件が発生した当時、民主化運動に身を投じた学生たちは、現在、50代に差し掛かっております。少なくともこの世代の多くは、たとえ中国当局が情報統制によって過去を消し去ろうとしても、同世代による自由化、並びに、民主化運動を記憶しているはずです。
それでは、天安門事件以降に生まれた若者世代はどうなのでしょうか。中国政府は、国民が天安門事件を忘れ、かつ、経済的な不満が民主化運動へと向かわないよう、国民が生活の豊かさを実感し得るように経済発展を優先してきました。国民が日々の暮らしに満足し、生活水準の向上を実感すれば、一党独裁体制に疑問を抱くことはないと考えたのでしょう。しかしながら、現実は必ずしも中国政府側の思惑通りとはならなかったようです。中国の経済が成長するにつれ、ネットやSNS上では、体制や政権を批判する‘国民の生の声’が散見されるようになったからです。そこで、中国政府は、人々を自由にするはずの情報・通信技術の発展を逆手に取り、スマートフォンといった端末を国民に携帯させ、かつ、顔認証システムや監視カメラを全国に張り巡らすことにより、国民を完全なる監視下に置いてしまいました。先端的なITは、民主化への流れを逆転させてしまったといえましょう。そして、体制側による情報統制、並びに、国民監視体制の強化こそ、中国国民が、その本心において自由化と民主化を求めている証とも言えましょう。国民が心から共産党による一党独裁体制を受け入れているならば、情報統制も国民の徹底的監視も必要するはずもないのですから。
中国の若者層は、自由や民主主義という言葉を知らなくとも、香港と同様の豊かさを知っています。また、若年層は、海外の教育機関への留学や海外生活等を通して、自由主義国の文化や民主主義を含めた価値観にも親しんでもいます。こうした世代もまた、中国の国内状況がより厳しさを増せば、体制を揺るがすに足る民主化勢力に成長する可能性を秘めていると言えましょう。この意味において、現在の中国の若年たちは、本土の高齢世代よりも、今日の香港の人々に近い存在であるのかもしれません。
このように考えますと、中国の共産党一党独裁体制が崩壊し、中国全土が民主化する可能性も見えてきます。中国は、目下、新型コロナウイルス禍をも利用して国民監視体制の強化に努めていますが、状況次第では、中国共産党が描くものとは違う未来が到来するかもしれないのです。となりますと、自由主義諸国は、まずは中国との経済的な関係を断ち、自らが中国の属国になる事態を回避すると共に、中国の自由化、並びに、民主化を促す、つまり、中国国内を民主化に適した状況に変えるのが、最も望ましい政策のように思えます。かのジョージ・オーウェルのディストピア、『1984年』も、過ぎ去った忌まわしき時代を振り返るという視点から、過去形で書かれているところに救いがあるとする指摘もあるのですから。