本日の日経新聞朝刊には、フィナンシャル・タイムズの元編集長であったライオネル・バーバー氏が「英のファーウェイ排除が招くリスク」と題する論考を寄稿しておられました。アメリカの呼びかけに応じて日本国、イギリス、フランスなどの自由主義国によるファーウェイ製品排除の決定が続く中、同氏は、ファーウェイ排除には対中ビジネス全般にマイナス影響を及ぼすリスクがあり、このリスクから判断すれば望ましい政策ではないと主張しております。
その論拠は至って単純であり、中国から経済上の報復を受けるからというものです。同氏は、新型コロナウイルスの発生源に関する独自調査を要求したオーストラリアが、畜産食肉をはじめとした特産品を中国市場から締め出された事例も挙げていましたが、同氏の立場からすれば、最も恐れているのは、HSBCホールディングスやスタンダードチャータード銀行など、香港に足場のある英系金融機関の収益悪化なのでしょう。両行とも、香港国家安全維持法の制定に際して、既に北京政府に対して‘忠誠’を誓っていますが、英中関係がさらに悪化すれば、何らかの制裁的な措置や妨害を受ける可能性が高まるからです。
中国は既に報復を警告しており、バーバー氏の見解は、香港にあって北京政府によって人質に採られている英系金融機関、あるいは、中国との関係強化を望むロンドンのシティーの利益を代表しているとも言えましょう。世界に先駆けてオフショア人民元取引を始めたのはシティーであり、人民元の国際化にも一役買っています。もしかしますと、中国の経済・金融政策の指南役であり、かつ、同国の急成長を裏から資金面で支えたのも、シティーであったかもしれません(シティーは、香港に代わる中国本土の金融の中心地として北京政府が育てている上海証券取引所との関係強化も求めているとも…)。こうした背景を考慮しますと、同氏は通商や金融上の利益しか眼中になく、同氏の言う‘リスク’とは、経済上の損失や不利益に他ならないことは疑いようもありません。
それでは、アメリカやオーストラリアは、バーバー氏が指摘したリスクに思い至っていない、あるいは、これらを完全に無視して排除に踏み切ったのでしょうか。経済以外の諸リスクに目を向けますと、そうとは思えません。むしろ、自らも損失を被るリスクを承知の上で、ファーウェイ排除を決断しているように思えます。政策決定に際し、これらの政府は、起こり得るあらゆるリスクを比較考量しており、その結果、経済的なリスクよりも政治的なリスクを重く見たのでしょう。政治的リスクとは、最悪の場合には、全世界の情報通信ネットワークを掌握した中国によって自国が支配され(中国が制空権や制海権を握ったに等しいのでは…)、自国が共産党一党独裁体制をモデルとした全体主義体制に移行させられると共に、国際法秩序が根底から破壊され、国際社会全体が無法地帯化するリスクです。言い換えますと、オーウェルの『1984年』に描かれたような徹底した国民監視体制が敷かれ、自由も民主主義も法の支配もなき暗黒時代を迎えるという、ディストピア化のリスクです。
経済的リスクは織り込み済みなである以上、喩えバーバー氏が自説に基づいて‘リスク’を力説し、アメリカやオーストラリアの政策決定者に翻意を促したとしても、これらの諸国が、同氏の意見を受け入れるとは思えません。経済的なリスクは、代替的な手段の模索やビジネス戦略の立て直しに等によって対応ができますが、政治的なリスクは、一旦、それが現実のものとなりますと、自由、民主主義、そして法の支配を取り戻し、暴力と脅しを強制力とする全体主義体制から脱するには、より大きな犠牲を払わなくてはならなくなるからです。実際に、アメリカやオーストラリアの対中姿勢は厳しさを増すばかりです。
バーバー氏は、結論として、‘イギリスは中国との全面対決は避けるべき’と述べていますが、おそらく日経新聞に掲載された理由も、日英ともにアメリカとは一線を画し、中国との関係を維持しようという‘お誘い’なのでしょう。つまり、アメリカから旗幟を鮮明にするように迫られたとしても、お茶を濁して‘コウモリ’に徹しましょう、と言うことなのかもしれません。現状にあっては地政学的に中国の脅威に晒されておらず(もっとも、将来的にはイギリスも蚊帳の外ではいられない…)、また、中国経済の育ての親とも目されるシティーを擁するイギリスとしては、こうした宥和的な政策も選択肢の一つなのでしょうが、日本国にとりましては、中国の拡張を許すことは死活問題となります(この点、オーストラリアも同様の立場に…)。そして、対中経済関係の維持は、同盟国であるアメリカに対する背信行為ともなりましょう。日英両国が、利己的動機から国際社会が暴力主義に覆われるのを手助けしたともなりますと、それはあまりにも罪深く、人類の未来に対して無責任ではないかと思うのです。