第二次世界大戦後にあって、日本国内では、国家の存在を否定した共産主義の影響も手伝って‘国家は悪者’と見なす傾向が強く、国際社会における国民国家体系に対しても否定的な見解が大勢を占めておりました。国家がなければ戦争もなく、平和な時代が訪れるとして…。とりわけ左翼の人々にとりましては、国家やそれによって構成される国民国家体系とは、平和実現のために‘倒すべき敵’、あるいは、‘破壊すべき目的’でもあったのです。
米ソ冷戦期にあっては、ソ連邦が日本国に対して軍事的脅威を与えつつも、戦後復興やその後の急速な高度成長の陰に隠れて国民の関心は低く、左翼の欺瞞、即ち、‘ソ連邦の軍備は是であって、日本国のそれは許さない’というダブルスタンダードも見過ごされてきた嫌いがあります(ソ連という国家存在のみは認める…)。憲法第9条が定めた軍事的な制約の下で経済優先の道を選んだ日本国は、主たる海外への関心は、自国製品の輸出市場としての重要性に向けられていたと言えましょう。このため、国防の最前線にある一部の人々を除いて、米ソ間の軍事的対立はどこか他人事であり、日本国の国家としての弱体化も取り立てて安全保障上の危機としては認識されていなかったのです。
ソ連邦に対する危機感の薄さの原因は、おそらく、その経済力が微々たるものであったからなのでしょう。社会・共産主義国との取引を制限するCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)の規制があったこともあり、日ソ間の経済関係も皆無に近く、また、ソ連邦は、他国に優る軍事力は備えていても、統制経済の下における貧弱な経済力故に、戦争遂行能力には欠けていたのです。冷静、かつ、客観的に分析すれば、ソ連が全世界の諸国を支配する可能性は低く、対米戦争に踏み切るだけの資源や国力を備えていないことは一目瞭然であったのです。つまり、統制経済の徹底が、ソ連邦の脅威を薄めていたとも言えましょう。
しかしながら、今世紀に入ってからの中国の急速な軍事的台頭は、この状況を一変させてしまったように思えます。その第一の要因は、ソ連邦とは違い、中国は、政治的には共産主義イデオロギーの下で一党独裁体制を維持しつつ、経済分野では、改革開放路線を選択して自由主義経済のメカニズムを取り入れたことです。いまや世界第二位の経済大国に成長した中国は、ソ連邦には欠如していた戦争遂行能力を備えることとなりました。
第2の要因は、中国経済の自由化にむけた改革は、改革開放路線という名称が示すように、国内の制度改革に留まらず、海外への自国市場の開放を伴った点です。国際経済への中国の参加こそグローバリズムそのものであり、労働コストや人民元の為替レート等において競争力を有する中国は、海外のグローバル企業によってサプライチェーンに組み込まれる、あるいは、自国においてグローバル企業を育成することで、世界経済の舞台の中心に躍り出たのです。グローバリズムの波に乗ることで、ソ連邦が喉から手が出るほどに欲しても得ることができなかった、自由主義国の先端的なテクノロジーや知的財産をも、M&Aをはじめ‘チャイナ・マネー’を以ってすれば容易に手にすることができたのですから、グローバリズムの最大の受益者の一人とは中国であったのかもしれません(中国の他にはIT大手…)。
そして、第3の要因として挙げられる点は、以上に述べた技術力を含めた経済力を軍事力に転用したことです。将来的にはアメリカを追い越すとする予測もあり、中国は、経済大国であると同時にアメリカをも脅かす軍事大国として全世界を威圧することとなるのです。
ここに、共産党一党独裁国家としての顔が再び現れるのであり、軍事力とそれを支える経済力、即ち、戦争遂行能力の両者を備えた今日の中国は、かつてのソ連邦の比ではありません。そして、同体制を支える共産主義は国家の存在や国境を否定する‘世界思想’ですので、このまま中国が‘中国の夢’を追求しようとすれば、その先には、他の諸国の併呑、並びに、国民国家体系の破壊が待ち受けていることでしょう。この機に至っては、国家や国民国家体系を消滅させるべき存在と見なしてきた人々も、自らの考えを見直さざるを得なくなるのではないでしょうか。今日、人類が直面している危機とは、暴力と‘お金’が全てと考える無法国家による世界支配なのですから(国民国家体系は国際レベルにおける法の支配と最も親和性が高い…)。
人類が暗黒の未来を迎えないためにまずもって自由主義国がすべきは、軍事力と戦争遂行能力の両者を削ぐために、グローバリズムを逆手にとって中国経済を弱体化させることなのかもしれません。つまり、上述した3つの要因の効果を封じるために、逆方向への政策を実行するのです(新たなCOCOMが必要…)。そしてそれは、‘戦わずして勝つ’方法でもあるのではないかと思うのです。