万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

香港問題―奇妙な‘恥辱の歴史を晴らす論’

2020年07月14日 11時45分55秒 | 国際政治

 香港国家安全維持法の制定により、香港の民主主義は風前の灯となりつつあります。それでも民主派の予備選での投票者数は、当初想定していた17万人を遥かに上回る61万人を数え、香港市民の民主化への強い熱意を表す結果となりました。‘民主的体制か、それとも、一党独裁体制か’の選択肢を提示された場合、自由な選択が許されれば、殆どの人々が前者を選ぶことでしょう。

 

 ところで、中国による香港国家安全維持法については、アヘン戦争時の南京条約によるイギリスへの香港割譲を持ち出し、‘恥辱の歴史を晴らす(’お腹に残った弾丸‘を取り出す?)’ための行為であり、中国人の心情を理解すれば当然である、とする擁護論も聞かれます。しかしながら、この擁護論、どこか誤魔化しがあるように思えます。

 

 同擁護論に納得できない理由の一つは、香港は、領土としては既に1997年7月1日に中国に返還されているからです。仮に、今日なおも香港がイギリス領ということであれば、あるいは、中国の言い分に耳を傾ける人々も現れたかもしれません。しかしながら、既に返還によって‘恥辱の歴史’は晴らされているのですから、今に至って植民地支配を言い出すのは詭弁のように聞こえるのです。

 

しかも、中国は、香港を割譲はしても、西欧列強によって植民地化されたわけでもありません。強いて言えば、アヘン戦争の敗北により‘イギリスの対中貿易赤字解消のために清国全土がインド産アヘンの市場にさせられた’と言った方が事実に即しているかもしれません。仮に、南京条約によって中国がイギリスの‘植民地’とされていたならば、日清戦争もあり得なかったことでしょう(日清戦争の背後には、中国市場のさらなる門戸開放を求める国際勢力も潜んでいたのでは…)。通商権に制約を課せられたものの、清国は、内政の権限はおろか、外交権や軍事権等を失っていたわけではないのです。

 

 もっとも、香港返還は、50年間の「一国二制度」の維持という条件付きであった点を以って‘不十分な返還’と主張するかもしれません。しかしながら、仮に条件付き返還が不服であれば、条約法条約に基づいてその無効を国際司法の場に訴えるべきですし、国際法上の無効要件を欠く場合には、同条約に従ってイギリスとの合意を誠実に順守すべきです。50年が経過すれば、一先ずは‘完全なる返還’となるのですから、今日の北京政府による「一国二制度」潰しは正当化することはできないのです。

 

二つ目の理由は、中国の歴史を見ますと、異民族からの支配を受けた期間が比較的長い点にあります。中国は、4千年とも称する’偉大なる歴史‘を誇りますが、その実、隋、唐、元、清等々の歴代中華帝国はいずれも異民族の征服によって建国されており、これ程長期にわたって異民族王朝が居座った国も珍しいのかもしれません。香港を割譲した清国も満州人が支配する帝国でしたので、異民族が異民族に領土を割譲した形となるのです。また、見方によりましては、現在の共産党による支配もまた、外来のイデオロギーを以って人民を支配しているのですから、異民族支配の’変種‘であるのかもしれません。

 

第3の理由として挙げられるのは、‘中国人の心情を汲むように’とする要求が一方的、かつ、傲慢である点です。それでは、‘中国人’は、自由を失う危機に直面している香港の人々の心情を汲んでいるのでしょうか。あるいは、中国からジェノサイドを受けているチベットやウイグルの人々の心情に思い至ったことはあるのでしょうか。‘恥辱の歴史’の鬱憤を晴らすとする主張が、国際法違反や人権弾圧を正当化できるならば、過去の戦争において領土を失った国や征服された国、あるいは、植民地支配を受けた全ての諸国が同様の行為を正当化できることとなりましょう(過去に‘恥辱の歴史’を持たない国は殆ど存在しないのでは…)。長い歴史を見れば、中国もまた(もっとも、この‘中国’にも異民族の帝国も含まれますが…)、他の諸国に対して恥辱を与えてきたことを忘れていますし、感情論がまかり通れば、国際法秩序は脆くも崩壊してしまいます。

 

以上の理由から見えてくることは、真に北京政府が恐れているのは、やはり、自由、民主主義、法の支配といった統治上の普遍的な諸価値であったのではないか、ということです。‘お腹の中の弾丸’とは、中国大陸における香港という土地ではなく、共産党一党独裁体制の体内にあって僅かに香港に宿っていた民主化という人々の希望であったのではないでしょうか(イギリス統治時代にも民主的制度はなく、この意味においても、今日の香港の民主化運動は香港市民の未来に向けた希望を現わしている…)。北京政府は、その希望を今や踏み潰そうとしているのです(香港市民のみならず全ての中国人の希望ででは…)。中国が恥辱の歴史を払拭することを欲するならば、それは、暴力と拝金主義が支配する現行の一党独裁体制ではなく、全ての中国国民が基本的な自由と権利を享受し、民主的で公平な国家体制を再構築するしかないのではないかと思うのです。

コメント (4)
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