グローバリズムの到来とともに、経済界や教育界では、早急な‘グローバリスト’の養成が目標として掲げられることとなりました。‘ガラパゴス’とも揶揄されるように独自性が強く、閉鎖的な日本国は、グローバルな視点を持たなければ時代に取り残されるのではないか、とする危機感が広がったのです。実際に、グローバル時代にあって、飛ぶ鳥を落とす勢いであった日本国の経済も振るわず、米IT大手の躍進や中国の急速な台頭を前にしてなすすべをなくして立ち尽くしている観があります。
かくして日本国内では、今日に至るまで‘グローバリスト待望論’が叫ばれ続けてきたのですが、中国がグローバリズムの旗手を自認するに至った今日、‘グローバリスト’とは何か、という問題を考えてみる必要があるように思えます。‘グローバリスト’とは、一先ずは、‘グローバルな視点から物事を見る人’と定義されるのでしょうが、とりわけ経済分野にあっては、‘グローバリスト’にも3つの種類があるように思えるからです。
第一の‘グローバリスト’とは、自身の国籍国とは関係なく、自らのアイデンティティーを‘グローブ(世界)’に置いている人々です。例えば、金融財閥やグローバル企業のCEO等はこの種の‘グローバリスト’であって、特定の国の国益のために活動しているわけではありません(もっとも、国籍国ではなく、ユダヤ系の人々の場合には民族的な利益追求はあるかもしれない…)。利益の最大化を目指し、全世界を俯瞰して原材料、資本、労働力、技術等の最も効率的な調達先を見つけ出し、最適に配置するのがこの種の‘グローバリスト’の行動様式なのです。このため、多額の資金を投じて経済発展を促した国があっても、他の国が有利となれば、冷徹な経営判断によってあっさりと投資先を変えてしまいます。第一の種類の‘グローバリスト’にとりまして、全世界の諸国は、利用する対象でしかないのです。
それでは、第2の種類の‘グローバリスト’とは、どのような人々なのでしょうか。第2の種類の‘グローバリスト’とは、‘グローバルな視点から物事を見る人’という点においては第一の種類の人々と共通していながら、アイデンティティーを自らの国籍国に置いている人々です。この種の‘グローバリスト’は、自国の視点からのみ世界を理解しようとする国家中心主義者とは異なる一方で、第1のグローバリストとの間には、自国の立場や利益から離れない点において違いがあります。第2の種類の‘グローバリスト’とは、いわば、第1の‘グローバリスト’の視点を理解した上で、それへの対応から自らもグローバルな視点を持つに至った人々なのです。
最後の第3の‘グローバリスト’とは、特定の国の国益とも、企業の私的利益とも離れた超越的な立場から、グローバル市場、あるいは、国際経済の在り方を模索しようとする人々です。国際経済秩序そのものの安定や全世界の諸国の繁栄を目指す点において、WTOの事務総長にはこの種の人物が最も相応しいと言えましょう。もっとも、超越的な視座を有する第3の種類の人物を見出すのは決して容易なことではありません。
以上に‘グローバリスト’を凡そ3つの類型に分けてみましたが、この分類は、今日の国際経済の現状、並びに、日本国の今後の方向性を見極めるにも役立つように思えます。中国、並びに、IT大手を含むグローバル企業と称される企業群は、第1のタイプの‘グローバリスト’として理解されましょう。もっとも、中国は、国益と結びついていますので第2のタイプのように見えるのですが、共産主義の越境性がグローバリズムと一体化している点において、第1の側面がより強く表出しているように思えます。
そして、日本国の‘失われた20年’とも称される長期的な低迷もまた、同分類によって説明できるかもしれません。グローバルな時代とは、ITによって空間的な制約が取り払われたことと相まって、規模の経済(スケールメリット)がものを言う時代ですので、第1の種類の‘グローバリスト’は、製品開発や技術力において秀でながら市場規模において劣る日本経済に見切りをつけ、日本国には、高品質素材の提供地としての役割を残しつつも、中国に乗り換えたと推測されるからです。
日本国の衰退原因が第1の種類の‘グローバリスト’の経営方針の転換であるならば、日本国が同種の‘グローバリスト’の後追いをするには無理があります。せめて一部の日本人がグローバル企業に職を得ることぐらいしか望めないかもしれません。しかも、国際金融やグローバル企業の中核がユダヤ系や中華系でよって占められているとしますと、日本国も日本国民もその閉ざされたサークルに入ることはできず、利用されるだけの存在で終わってしまう可能性すらあります。
となりますと、日本国として先ず目指すべき‘グローバリスト’は、第2の種類となりましょう。この種の‘グローバリスト’は、自国の産業や雇用を含めたい国民生活を擁護しようとしますので、第1の種類の‘グローバリスト’の要求を受け入れることには躊躇するはずです。むしろ、第1の種類の‘グローバリスト’とは距離を置き、グローバル時代におけるサバイバル策を考え抜くことでしょう。その際、‘グローバリスト’でありながら保護主義者、という、一見、矛盾するような行動を見せるかもしれません。
そして、日本国を含めた全ての諸国に対して公平・中立的であり、かつ、中国やグローバル企業の独占的、否、支配的な行動に歯止めをかけるルールや仕組み造りという意味において、日本国が第3の種類の人材を輩出するとしますと、それこそ、日本国の国際貢献ということになりましょう。何れにしましても、‘グローバリスト’の類型を区別しませんと、日本国の未来は危ういのではないかと思うのです。