万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

NZ銃乱射事件SNSライブ配信の謎

2019年03月16日 13時26分28秒 | 国際政治
 昨日、ニュージーランドのクライストチャーチにおいてモスク二か所が襲撃され、49名ものイスラム教徒が犠牲になるという痛ましい事件が起きました。主犯格として出廷した人物は、反移民を主張する極右組織のメンバーである28歳のオーストラリア人とされながらも、アーダン首相によれば、定住国がなく「世界中を転々としている」そうですので、自らも‘移民’である放浪者が、他国で暴力を以って‘移民’を排除するという奇妙な構図が浮かび上がっています。

 そして、もう一つ、この事件で考えさせられるのは、同事件の一部始終がフェイスブックで生中継され、それを機に、SNS規制が強化された点です。撮影された動画は瞬く間に拡散され、フェイスブックの他にも、インスタグラム、ワッツアップ、ツイッター、並びにユーチューブ等でも視聴可能となったそうですが、これらのSNS大手は、警察からの要請を受けて、至急、動画やコメントを削除したそうです。フェイスブックやツイッターなどは、今のところ警察当局に対して協力的な姿勢を見せています。

 しかしながら、現場にあって事件の惨状を直に伝える動画を削除する必要があったのでしょうか。仮に、ジャーナリストが自らの命の危険を顧みずに現場の映像を配信すれば、人々は、そこにジャーナリズムの真髄を見出して称賛したことでしょう。修正や編集が一切加わっていない生の映像は、人々にありのままの真実を伝えるからです。この点からしますと、撮影者がプロではなかったに過ぎず、現場で撮影された映像それ自体は、警察が躍起になって拡散を阻止するほどのものではなかったように思われるのです。

 それでも、警察がSNS規制に乗り出したとしますと、そこには、何らかの理由があったはずです。近年、ネット上では、テロ事件の背景として偽旗作戦の疑いが指摘されており、この説に従えば、政府、あるいは、一部の国際組織がSNS規制を強化するために同事件を仕組んだとする見方も否定はできません。仮に、移民反対の立場からテロ事件を起こすならば、今日、最大の移民勢力、かつ、潜在的脅威となっている中国人がターゲットにならなかったのも、どこか不自然な気がします(凄惨なテロ事件が起きる度に、自由主義国も中国の国民監視体制に一歩一歩近づいてゆくかの如く…)。もしくは、事件が発生した都市の名が‘クライストチャーチ’ですので、キリスト教対イスラム教の対立構図を創出したい一部の勢力が計画したのかもしれません。さらには、イスラム過激派によるテロ事件の頻発によってイスラム教徒に対する風当たりが強くなったことに危機感を強めたイスラム側の組織が‘被害者’を装おうとした可能性もないわけではありません(事実無根であれば、疑ってごめんなさい…)。何れにしましても、警察の要請もSNS大手の対応も、事前に申し合わせたかの如くに至ってスムースなのです。

 同現場の撮影者は銃撃事件の犯人自身なそうですので、現場の映像のみならず、イスラム教徒の殺害を教唆する、あるいは、犯行をアピールする内容が含まれているとしますと、警察当局の措置には、事件の背景や真の目的がどうであれ、模倣犯や連鎖的テロの防止を阻止する合理性は認められます。とは申しますもの、犯人が国際的な‘放浪者’であることに加え、遠く海を隔てたイギリスにおいてパキスタン系イスラム教徒であるサジド・ジャビド内相が、すかさずに‘もうたくさんだ’と批判し(‘たくさん’なのは、イスラム過激派によるテロでは?)、SNS大手に対して‘暴力的過激主義阻止に向けた追加策’を求めている点も、水面下における国際的な連帯性が垣間見えます。謎多き同事件につきましては、背後を調査しませんと真相に辿りつくことはできないように思うのです。

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‘徴用工訴訟’日韓局長級会談は法的解決への一歩前進?

2019年03月15日 13時25分18秒 | 日本政治
徴用工、外務局長会談が平行線 韓国、日本に回答示さず
 昨日3月14日、韓国の首都ソウルにおいて、‘徴用工訴訟’への対応をめぐって日本国外務省の金杉憲治アジア大洋州局長と韓国外務省の金容吉東北アジア局長による会談の場が設けられました。同会談の結果は平行線とのことですが、この会談、今後の展開を考慮すれば、法的解決への大きな一歩となったのではないかと思うのです。

 その理由は、韓国政府が‘徴用工訴訟’の問題について対日外交交渉の窓口となった時点で、文在寅大統領が主張してきた三権分立論が崩壊するからです。結果だけを見れば、両国とも事態のエスカレート化は望まない点では合意したものの、同会談では何も解決していません。日本国側が、被告となった日本企業に実害が生じないよう「適切な措置」の実施を求めた上で、日韓請求権協定に基づく協議に応じるよう要請する一方で、韓国側は、具体的対応については検討中と述べるに留め、返答を留保しています。

日本国側としては韓国側の回答待ちのペンディング状況となったのですが、ここで注目すべきは、韓国政府の立場です。三権分立を根拠とした‘政府は司法の決定に対して如何なる介入もなし得ない’とする従来の主張を頑なに貫けば、韓国政府は、(1)‘徴用工訴訟’に関する対日外交交渉の権限を日本企業に対して賠償を命じた韓国大法院に認め、自らを紛争の蚊帳の外に置く、あるいは、(2)韓国大法院から対日交渉権の委任を受ける、の何れかの立場を取らざるを得なくなります。

(1)を選択すれば、今日の国際法は外交交渉の権限を原則として国家の政府に認めておりますので、韓国は最早国家の体を為さなくなります。日韓請求権協定にあって、政府を行為者とする紛争解決手続きが明記されているのも、国際法の原則に従ったからに他なりません。従って、上述した韓国側の三権分立の手法がまかり通れば、日本国のみならず、他の諸国も、司法部門による事後的な無効、取消、並びに不履行等を怖れ、条約や協定の締結交渉に際して韓国政府を相手にはしなくなるでしょう。韓国側の手法では、三権分立は国権3分裂を意味するのです。

その一方で、(2)を選択すれば、韓国政府は外交交渉の権限を一先ずは確保できるものの、あくまでも大法院から委任された範囲でしか交渉を行うことができなくなります。大法院は、韓国政府に対して自らが下した判決を覆すような合意をなさぬよう、予め釘をさすものと推測されますので、韓国政府は、手足を縛られた状態で交渉に臨まざるを得なくなるのです。この状態では、日韓政府間交渉での解決の道は最初から閉ざされているに等しく、このケースでは、権力の暴走を抑える仕組みのはずの三権分立は、皮肉なことに司法独裁に帰結するのです。

幸いにして、韓国政府は、(1)も(2)も選択せず、韓国外務省が対日交渉の窓口となりました。このことは、今後、日本国政府が、日韓請求権協定の第3条に記された仲裁委員会、あるいは、その他の国際司法機関や仲裁裁判所等での解決を目指すに際して、韓国政府を相手に解決を要請し得ることを意味します。もはや韓国政府は、三権分立論を盾とした‘逃げの一手’を打つことはできず、国際紛争の矢面に立たざるを得なくなるのです。この意味において、今般の日韓局長級会談は、日本国政府にとりまして解決に向けての好材料となったのではないかと思うのです。

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民主主義を形骸化する‘政治的プロレス’の仕組みとは?

2019年03月14日 13時09分31秒 | 国際政治
政治討論会などにおいて、発言者が‘プロレス’なる場違いの言葉を使うのを耳にしたことがある方は少なくないのではないかと思います。政治と武闘興行の一種であるプロレスは活動分野としては全く別世界なのですが、この表現に誰もがすんなりと納得してしまうのは、国民の多くが、政治の世界においてもプロレスと同様に‘八百長’があるのではないかと疑っているからに他なりません。

 ‘政治的プロレス’の問題は、人々が思っている以上に深刻です。本物のプロレスでは、観客の殆ど誰もが、プロレスラーの双方が演出家の筋書き通りに演じているに過ぎないことを知っています。十分に承知していながらも、ヒーロー役によってアンチヒーロー役が打ちのめされるシーンに熱狂しているのです。一方、‘政治的プロレス’にあっては、人々は、対立する両者が‘役者’に過ぎず、誰かが書いた脚本を忠実に演じていることを知りません。全ての情報がそうあるように、情報の有無は人の判断に決定的な影響を与えますので、人々は、政治闘争などの‘政治的プロレス’を現実と見なしてしまい、政治問題について誤った判断をせざるを得なくなるのです。つまり、脚本を書いた側が、およそ全ての政治家、政党、及び、政治勢力等に役を割り振って国民を騙し、自らにとって有利な方向に政治を誘導しているということとなるのです。

‘政治的プロレス’の存在は同時に、民主主義の価値に照らしますと、国民が政治的な選択の自由を失い、事実上の独裁体制の下に置かれていることを意味します。民主化の証とされる多党制も有名無実となり、一般の国民は、どの政党を支持しても最終的な結果は同じです。‘政治的プロセス’が存在するとすれば、それは民主的制度を悪用した民主主義の否定と直結しますので、極めて悪質、かつ、狡猾な手法と言わざるを得ないのです。

 それでは、この‘政治的プロレス’のからくりとは、一体、どのようなものなのでしょうか。国民が騙されないためには、詐術的手法の仕組みを解明することこそ重要です。そこで、同仕組みについて考えてみますと、おそらく、以下のようなメカニズムが働くことで、背後で操る側は人々を効果的に誘導しているのではないかと推測されるのです。

(1)誘導のための動力は、人々が普遍的に有している善へ志向である。古今東西を問わず、勧善懲悪の結末を歓迎して喜ぶのは普遍的な心理であり、また、不条理な現実に対してより善き世界の実現を求める心情がある。
(2)誘導する側は、其々の政党に対して決して首尾一貫した政策綱領を掲げさせない。保守系であれ、革新系であれ、何であれ、政策分野ごとに自らの実現したい政策とその反対の政策を、政党間の対立軸となるように巧妙にミックスさせる。このことは、各政党の政策綱領には、国民の期待している政策と国民が忌避したい政策を抱き合わされていることを意味する。
(3)選挙に際しては、(1)で指摘した人々の現状改善志向に訴えるアジェンダを設定し、マスコミ等も動員して同政策を掲げる政党に勝利させる(デジタル化の進んだ最近では、票の集計操作もあり得るかもしれない…)。この際、一般国民の大半が真に望んでいる政策は争点とならないよう、予め慎重に排除する。
(4)選挙に勝利した政権政党に対しては、(2)で抱合せた国民が忌避したい政策を実行させると共に、民主的選挙制度を通して‘国民が自らの自由意思で選んだ政権’とする立場を十二分に発揮させ、政策綱領に記載されていない政策であっても強引に推進させる。この間、野党に対しては与党に対して対峙するポーズを取らせつつも、政策や法案に含まれる核心的な欠陥、国益の毀損、国民の不利益については触れさせないようにする。
(5)政権与党による背信的政策が明るみとなり、国民からの批判が高まった時点で、野党に対して‘正義の味方’のふりをして、国民の不満を吸収するよう指示する…。

 以下、このルーティーンを繰り返せば、ほぼ永遠に民主主義国家の政治を裏から全面的にコントロールすることができます。そしてこの手法は、音もなく、誰からも気が付かれず、そして、自らは表に出ることなく、秘かに全人類の支配を目論む者にとって最適の手法とも言えるのです。しかしながら、‘政治的プロレス’の存在が人々に知られるようになれば、この手法の効力も自ずと失われてゆきます。過去の歴史のみならず、今日の政治を世界レベルで見渡しましても、‘政治的プロレス’の存在を確信させるような出来事や現象が多々見られますので、日本国民をはじめ各国の国民は、家畜化されぬように警戒を怠ってはならないのではないかと思うのです。

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日本国政府の北非難決議見送りは悪しきメッセージでは?

2019年03月13日 12時55分54秒 | 日本政治
北朝鮮非難決議案の提出、今回は見送る方針
報道に拠りますと、日本国政府は、11年連続でEUと共に国連人権委員会に共同提出してきた対北非難決議案を、今年は見送る方針なそうです。その理由として、‘拉致事件解決のきっかけ’としたい安倍首相の意向が挙げられています。しかしながら、この見送り、北朝鮮に対する悪しきメッセージになるのではないでしょうか。

 第一の理由は、日本国政府による非難決議案見送りが、北朝鮮の独裁体制下における国民弾圧や人権侵害の容認に転じた証と解される点です。過去11年間に亘って非難決議案を提出してきたのですから、北朝鮮、並びに、国際社会は、日本国は北朝鮮の人道犯罪を厳しく糾弾し、人権弾圧体制と鋭く対峙する人道国家として認識してきたはずです。そして、日本国民も、対北非難決議案を提出し続けてきた日本国政府に誇りを感じてきたはずなのです。ところが、今般、突然に共同提出から離脱するとなりますと、これを体制容認への転換と見た金正委員長は歓迎するのでしょうが、北朝鮮の人権弾圧に同調した国として国際社会における日本国のイメージは悪化することでしょう。

 第二の理由は、同決議案の見送りが、日朝首脳会談を前提とした対北譲歩となっている点です。上述した同決議案提出見送りの説明からしますと、安倍首相は、近々、北朝鮮の金委員長と日朝首脳会談に強い意欲を示していると推測されます。つまり、決議案見送りは、北朝鮮が‘何もしない’うちに、既に日本国側が‘見返り’を与えてしったようなものなのです。

第三点として挙げられるのは、仮に、日朝首脳会談が実現した場合、日本国側の譲歩が制裁緩和の引き金となるリスクです。日朝首脳会談の最大の議題は、拉致問題の解決とされています。ベトナムで開催された第2回米朝首脳会談では、トランプ大統領は北朝鮮による全面制裁解除の要求を退けて合意を見送りましたが、日朝間の首脳会談でも、拉致問題の解決の‘見返り’として金委員長は経済制裁の緩和を日本側に強く求めてくることでしょう。この時、日本国は、仮に自国の人道問題は解決しても、北朝鮮の人道問題に‘見て見ぬふり’をする、というジレンマに陥ることとなります。また、狡猾な交渉術で知られる北朝鮮のことですから、拉致被害者の解放を小出しにしつつ、日本国から段階的に‘見返り’を引き出そうとするかもしれません。何れにしましても、対北制裁網を緩ませるきっかけを日本国が造るとしますと、国際社会からの批判は免れ得ないのではないでしょうか。

以上に3点ほど述べてきましたが、米朝首脳会談が事実上の決裂となり、日朝首脳会談の今後の見通しも不透明な中、日中首脳会談の開催を前提とした対北譲歩は相応のリスクが伴います。対米関係に対するマイナス影響も予測されます。もっとも、仮にアメリカが日朝首脳会談の開催を影ながら容認しているとしますと、(1)日朝交渉の場で、決裂後の北朝鮮の意向を探らせる、(2)アメリカに替って日本国に対北経済支援を実施させる、といった思惑があるのかもしれません。(2)については、米朝首脳会談に先立ってトランプ大統領が日本国による経済支援を示唆したこと、並びに、同会談の席で二度も拉致問題に言及したことなどから、少なくとも決裂以前の段階ではアメリカのシナリオの射程内にあった可能性はないわけではありません。

何れにいたしましても、日本国政府による北非難決議提出の見送りは、一般の日本国民をいたく落胆させると共に、‘人道の名を持って非人道的な体制を許してもよいのか’という問題をも提起しております(近年、善の名目で悪を擁護する手法が散見される…)。拉致事件の発生が人を人とも思わない北朝鮮という国家の独裁体制に起因している以上、元を断たなければ根本的な解決とはならないのですから、ここは、人道国家としての矜持を捨てることなく、EUと共に日本国政府は共同提案国となるべきではなかったかと思うのです。

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ゴーン容疑者の変装は許されるのか?-仮想と現実が交差する時代の象徴

2019年03月12日 13時11分53秒 | 国際政治
 先日、小菅の東京拘置所から釈放されたカルロス・ゴーン容疑者は、一作業員に変装したことらサスペンス映画の一シーンを思わせる釈放劇となりました。同容疑者の容貌がMr.ビーン氏に似ていることもあって、それ程には違和感がないところがむしろ怖いのですが、ここで一つの素朴な疑問が湧いてきます。それは、拘置所からの保釈に際して、保釈者が他者を欺くために変装することは許されるのか、という問題です。

 同容疑者を主人公とした‘変装大作戦’については、弁護団の一員である高野隆弁護士が発案し、自らシナリオを書いたと‘自供’しております。真相は藪の中なのですが、ゴーン容疑者が乗り込んだ軽ワゴン車には実在の会社名が描かれており、作業服やキャップ等その他も、舞台用の小道具ではなく、実在の会社法人において制服として使用されていた物ばかりが集められていますので、一般の人が見れば、‘本物の作業員’と認識するレベルの変装なのです。そして、人々に、その実在性を誤認させる変装は、よくよく考えても見ますと、‘詐欺’や‘成り済まし’といった罪に当たる可能性がないわけではありません。

 刑法典を読みますと、詐欺罪が成立するためには財物の被害が発生している必要がありますので、刑法上の詐欺罪には当たらないのでしょうが(発案者が弁護士であれば当然…)、少なくとも道義上の罪は問われて然るべきのように思えます。そもそも、他者を騙す行為は、古今東西を問わず普遍的に罪なことですし、況してや拘置所からの保釈という、刑事訴訟法上の公的な行為に際して行われたのですから、その罪はさらに重いはずです。何故、東京拘置所の職員の方々が、同署を舞台としたゴーン容疑者、並びに、弁護士事務所のメンバーによる変装大作戦を黙認したか不思議でなりません。その目的が、マスメディアに同容疑者の住居を知られないためであれ、家族や近隣の人々に迷惑をかけないためであれ、変装という手段は一般の社会常識からはかけ離れており、それ故に、同容疑者の保釈には劇場的な雰囲気が漂うのです。

 現実世界と仮想世界との境界線の融解は、ゴーン容疑者の保釈に限ったことではないようです。例えば、北朝鮮の金正恩委員長は、昨年の第1回米朝首脳会談での初顔合わせにおいて、トランプ大統領に対して‘まるでSFの世界のようですね’と語りかけ、今般の第2回米朝首脳会談にあっても、決裂したとはいえ、‘映画の一シーンのようですね(確かこのような表現…)’と、再び同じような表現を用いていました。また、ウクライナの大統領選挙において、現職のポロシェンコ大統領を押さえて支持率トップの座を得ているは、コメディアン出身のボロディミール・ゼレンスキー氏です(ゼレンンスキー氏19.0%、ティモシェンコ氏、18.2%、ポロシェンコ氏15.1%)。氏は、2016年に放送された連続ドラマで大統領役を演じており、「これは映画でなく現実で、国家と国民を助けたい」と述べているものの、ここにも現実世界と仮想世界との境が揺らいでいるのです。

 全世界的な規模で観察されている現実の劇場化は、単なる偶然の一致なのでしょうか。金融の分野における仮想通貨やデジタルの世界を実体験させる仮想現実(VR)テクノロジーの登場も軌を一にしているとしますと、これらの現象の底流において共通する‘何か’があるように思えてなりません。そして、現実世界と仮想世界との融解が人々の思考を混乱させ、両者の判別を困難にする方向に導いているとしますと、それは、人類にとりまして極めて危険な兆候とも言えます。現実が仮想化によって操作可能な劇場化する一方で、現実世界で罪を問うべき犯罪や禍々しい出来事が起きても、その責任者には仮想世界という逃げ込む場所が用意されてしまうのですから。

まずはゴーン容疑者の変装といった詐術的手法を許さず、現実の世界に一般的な常識や良識を取り戻すことこそ、人類が魔の手に落ちることなく混沌への転落を回避する最初のステップとなるのではないかと思うのです。

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‘トルーマン発言’を考える-勝者には敗者の家畜化の権利はあるのか?

2019年03月11日 13時30分14秒 | 国際政治
第二次世界大戦末期、急逝したルーズベルト大統領に替って急遽大統領の椅子に座ることとなったヘンリー・トルーマン。同氏は、とある身の毛もよだつ発言の主としても知られていたようなのです。その内容があまりにも深刻なため、氏の問題発言の全文を以下にご紹介します。

 「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らの多少の贅沢さと便利さを与えるだけでよい。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が、主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿させなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも、生かし続けるのだ。これによって、我々は、収穫を得続けるだろう。これは、戦勝国の権限でもある。」

 日本人がこの一文を読めば、誰もがトルーマン大統領に対する怒りがふつふつと込み上げてくるはずです。そもそも、日本国が受け入れたポツダム宣言の第十項では、「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし、又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも…」と明記した上で、戦争犯罪人の処罰を要求すると共に、民主化、言論・宗教の自由、並びに、基本的人権の尊重の確立を求めています。降伏条件において日本国は、連合国による自国民の家畜化を認めていませんし、‘主人’への貢献義務を受け入れていません。サンフランシスコ講和条約を以って敗戦国の地位からも脱しています。また、何よりも、植民地主義を否定したように、国際法は、戦勝国による敗戦国の民の家畜化など認めていないです。

本心からトルーマン大統領が、敗戦国民の家畜化を戦勝国の当然の権限であると考えていたとしますと、空恐ろしい限りです。紳士然としていながら同大統領こそ、国際法を平然と破る犯罪者メンタリティーの持ち主であり、サイコパスさえ疑われます。一個人が主観的に自らの‘権限’であると主張しても、客観的な法的根拠がない限り、それは、身勝手な‘たわごと’となります。公的な合意(立法化)がない限り、一方的な‘権限’の主張は傲慢な一個人による利己的な要求に過ぎず、それを実行し、かつ、他者の権利を侵害する場合には、犯罪となるのですから(国際法は、国家レベルにおいて全ての国民に対して平等の権利を保障しているし、個人レベルでも奴隷化を禁じている…)。同発言では、‘主人’は、‘猿’を家畜、即ち、動物と見なしていますが、精神性を基準に判断しますと、‘主人’こそ野獣であり、これでは、野獣による人類支配となりましょう(‘主人’は自らが野獣であることに気が付いていないのでは…)。

 このように考えますと、トルーマン発言は犯罪宣言に等しいのですが、頭を冷やして同文を読み直してみますと、日本人に限らず、全ての人類を取り巻いている現代という時代状況と、何故か、オーバーラップしてきます。そして、同文には、人類家畜化の危機に関する幾つかのヒントも隠されているように思えます。

 まず初めに考えるべきは、この発言はフェイクなのか、ということです。かつて、ユダヤの長老が書いたとされる『シオンの議定書』と称される作者不明のプロトコールがヨーロッパ全域に広がり、ドイツにおいて反ユダヤ主義を助長すると共に、ナチス・ドイツの誕生を援けたとされます。‘トルーマン発言’と『シオンの議定書』とは、狡猾、かつ、サタニックな人類家畜化の手法を記した点において共通しています(両者の原典となる古くから伝わる‘教典’が存在しているのかもしれない…)。今日では、『シオンの議定書』は偽書として扱われていますが、その内容を読みますと、むしろ現実の歴史の展開をよく説明しており、背筋が寒くなります。一般的な常識人では思いも付かない邪悪な発想が偽書説の信憑性を高めているに過ぎず、その内容自体には、無視できない‘何か’があるのです。つまり、これらの文章は、何者かが邪悪な手段で人類の家畜化を企んでいるという‘事実’を示している可能性が高いのです。

 同発言が‘事実’であるとしても、その発言の主が、トルーマン大統領であるとは限りません。次に考えるべきは、真の発言者は誰かの問題です。『シオンの議定書』も作者不明なのですが、綴られている内容から判断しますと、20世紀初頭に作成されたものと考えられます。‘トルーマン発言’も‘戦勝国’との表現から第二次世界大戦終結間もない時期のものと推測されるのですが、ここで注目すべきは、‘我々’という表現です。同氏が大統領の立場から‘我々’と述べているとしますと、それは、連合国、あるいは、全てのアメリカ人と言うことになるのですが、キリスト教徒が人口の大半を占め、優しさと善良さを備えた人々が多い米欧の人々がトルーマン大統領の考え方を共有していたとは思えません。となりますと、発言の主は、トルーマン自身ではなくとも、極少数の邪悪な思想を秘かに共有する組織のトップ、あるいは、その一員であるのかもしれません。

第三点として‘猿’の表現を取り上げて見ますと、一般的には‘猿’は日本人と解されているものの、これをそのまま人類に置き換えますと、『シオンの議定書』と同様に、‘トルーマン発言’は今日の時代状況を見事なまでに説明しています。IT等の先端テクノロジーの発展によってもたらされた‘多少の贅沢さと便利さ’は、今や、人類に対して利便性と引き換えにプライバシーの消滅と全人格的なコントロールを意味する監視社会の受け入れを要求しておりますし、マスコミは、日々、人々の関心が3Sに向けられるように誘導しています。汚染された大気、食品添加物、農薬、ジャンクフード等が人々の健康を蝕んでいる現状も、‘トルーマン発言’の通りなのです(その一方で、人類の平均的な寿命は延びている…)。

以上に‘トルーマン発言’について述べてきましたが、同発言は、フェイクの一種として聞き流してもよいのでしょうか。あるいは、現実と同発言との同調性は、些か心配性の筆者の思い過ごしに過ぎないのでしょうか。

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アムステルダム拠点閉鎖でゴーン容疑者有罪は凡そ確定では?

2019年03月10日 12時58分04秒 | 国際政治
日産連合、ゴーン被告の影響力喪失 発信力に警戒
 先日、凡そ3か月半の長きにわたる拘留の末に、10億円もの巨額の保釈金を積んでようやく保釈されたカルロス・ゴーン容疑者。‘無罪請負人’とも称される弘中惇一郎弁護士をも弁護団の一員に加え、今頃、自宅で無罪を勝ち取るべく闘志に燃えているかもしれません。しかしながら、ゴーン容疑者の‘有罪’は、ほぼ固まっているように思えます。

 その理由は、仏ルノー、日産、三菱自動車の三社連合を統括するために設立されたアムステルダムの二つの子会社が、新たな提携戦略協議の発足を機に閉鎖されるからです。そもそも、日仏連合にも拘わらず、本社が所在するパリでも横浜でもなく、オランダのアムステルダムにアライアンスの拠点が置かれていたこと自体が奇妙なお話です。しかも、二つの統括会社の内の一つは「日産三菱BV」であり、日本企業同士なのですから日本国内に設置する、あるいは、「ルノー日産BV」に吸収して「ルノー日産三菱BV」として纏めた方が合理的でもあります。報道に拠りますと、これらの統括会社の役員報酬はゴーン容疑者が独占しており、他の役員は無報酬であったそうです。

こうした疑問に対しては、オランダの税制が高額所得者であるゴーン容疑者にとりまして有利であったとも説明されています。表向きはゴーン容疑者の個人的な‘節税’が目的とされているのですが、アムステルダムという国際都市の性格からしますと、同地に拠点を有する国際組織が、そのメンバーであるゴーン容疑者を操って三社連合から‘資金を吸い上げるため’に設立された疑いも捨て切れません(日経新聞の温和な表現を借りれば‘ゴーン元会長に報酬を支払うための組織’…)。

 ゴーン事件の発覚当初、ルノーもフランス政府もゴーン容疑者擁護一辺倒でした。事件の真相解明に協力するどころか、被害者であるはずの日産や日本国の検察・司法制度が、メディアも総動員されて激しくバッシングされたのです。同問題が議題となった日仏間の閣僚級の協議の場でも、フランス側は‘推定無罪’を盾に日本側に対してゴーン容疑者に対する善処を求めたとも伝わります。しかしながら、ヴェルサイユ宮殿をめぐるルノーからの私的資金流用等の疑惑がフランスでも明るみになるにつれ、同容疑者に対する擁護論はトーンダウンしてゆきます。

仮に‘推定無罪’を貫くならば、アムステルダムの二つの統括会社は、特段に問題視されることなく存続したことでしょう。早々に閉鎖を決断したのは、日産のみならず、ルノーも詳細な内部調査を実施し、これら二つの統括会社がゴーン容疑者の犯罪の温床となっていた事実を示す動かぬ証拠を掴んだからではないかと推測されるのです。ゴーン容疑者は、自ら辞任を申し出る形で仏ルノーの会長兼CEOを辞任しましたが、退職に伴う高額報酬を支払われないことに対しても、然したる反対もなかったようです。ルノー側の態度の変化は、自社もまた、日産と並んでゴーン事件の‘被害者’の立場にあるとする認識が生まれたからなのかもしれません。

ゴーン事件がカルロス・ゴーン容疑者による個人犯罪ではなく国際的な組織犯罪であるとしますと、日本国の検察は、相当に手強い相手と法廷を舞台に戦うこととなります。同組織の戦法は、‘無罪を証明できなくとも有罪にならない’、即ち、証拠不十分による無罪を目指すというものかもしれません。ほぼ有罪が確定しているゴーン容疑者を何としても無罪にすべく、海外からの‘救援軍’を繰り出してくる可能性もあります。ゴーン事件は、個人的な事件に矮小化することなく(事件を矮小化すると今般の事件の弁護団も担当したオウム事件の如く国際性が隠されてしまう…)、国際的組織犯罪と見立て、国境を越えた資金の流れも追えば、事件の全貌がより明確に見えてきますし、世界の裏側で暗躍する真の悪の存在も自ずと浮かび上がってくるのではないかと思うのです。

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米韓軍事演習縮小は‘韓国抜きの武力行使’への準備?

2019年03月09日 13時15分31秒 | アメリカ
昨年、第一回米朝首脳会談で両国首脳が直接に顔を合わせて以来、アメリカ側は、軍事面においても北朝鮮に配慮する動きを見せてきました。1976年以来、毎年春に慣例の如くに実施されてきた韓国軍との大規模軍事演習についても、今年はその実施を見送っています。

 もっとも、米韓軍事演習が完全に廃止されたわけではなく、規模を縮小した形で実施されているため、自らの核・ミサイル開発の継続を棚に上げて、北朝鮮は、軍事的緊張緩和を明記した「南北共同宣言」に違反するとして過剰な反応を見せています。一方、トランプ大統領も、「南北共同宣言」を根拠とした措置というよりも経費面での‘節約’を強調しており、かねてからの持論であった米軍の負担軽減の一環として説明しています。アメリカ側は、やんわりと対北配慮説を否定しているのですが、米韓軍事演習の縮小には、もう一つの可能性が潜んでいるように思えます。

 もう一つの可能性とは、近い将来、仮に朝鮮戦争が再開される、あるいは、米軍による対北軍事制裁が行われる場合、アメリカは、米韓同盟に基づく韓国軍との共同防衛ではなく、米軍による単独行動、もしくは、有志連合による行動を準備していると言うものです。韓国の文在寅大統領の北朝鮮への傾斜は著しく、第2回米朝首脳会談の事実上の‘決裂’の背景にも、両首脳間の仲介役を務めた同大統領が、合意を急ぐあまりにトランプ大統領を言葉巧みに騙したのではないか、とする疑いがあります。

日韓関係を見ましても、対北朝鮮、さらにその先の対中国を睨めば日米韓の三国による軍事協力関係の維持は望ましいにも拘わらず、文政権は、慰安婦合意の事実上の破棄や日韓請求権協定に反する‘徴用工判決’など、日韓間の関係も修復不可能なレベルにまで破壊を進めています。昨年末に起きた韓国海軍駆逐艦による自衛隊哨戒機レーダー照射事件も、韓国側が見え透いた嘘を吐いてまで事実を認めない背景には、対北協力の実態を隠す目的があったとも指摘されており、南北両国は、トップレベルでは既に一体化されている様子が窺えるのです。

 こうした朝鮮半島両国の現状を冷静に分析すれば、アメリカは、有事に際して韓国を信頼するリスクについて真剣に検討せざるを得なくなるはずです。特に味方の‘寝返り’は戦局を逆転させるほどの危険性がありますので、アメリカが、事前にリスク排除に動いても不思議ではありません(有事に際して同盟軍としての韓国軍の戦力に期待できないならば、軍事演習に費やされる国費は全くの無駄に…)。むしろ、純粋に軍事的な観点から見れば至極当然の判断であり、かくも他国や国際社会からの信頼を失う行為を繰り返しながら、米韓同盟や日韓友好を維持できると考えている韓国の方が、余程、事態の深刻さを理解していないとしか言いようがないのです(もちろん、‘確信犯’かもしれませんが…)。

 このように考えますと、第2回米朝首脳会談における米朝間の‘決裂’は、同時に米韓間の‘決裂’でもあったのかもしれません。アメリカは、もはや、有事にあって韓国軍とは共に闘うことはできないと判断している可能性は否定できないのです。そして、仮に、アメリカが韓国不要論に傾いているとしますと、在韓米軍の撤退は必ずしも米朝間の‘平和’を意味せず、対北、並びに、対中包囲網の再編成プロセスの一環となるかもしれません。日本国政府も、急激に変化しつつある東アジア、そして、国際情勢に的確に対応すべく、同盟国であるアメリカとの軍事面での協議を急ぐべきではないかと思うのです。

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ゴーン容疑者‘変装保釈大作戦’が示唆する国際組織犯罪の疑い

2019年03月08日 12時54分40秒 | 国際政治
ゴーン被告の変装帽子は埼玉の会社の作業帽 担当者「びっくり」
日産自動車の前会長であり、特別背任罪等の容疑で東京拘置所に凡そ3か月半拘留されてきたカルロス・ゴーン容疑者は、保釈金の10億円を納付してようやく東京地裁から保釈されました。ところが、この時、前代未聞の珍事が起こります。拘置所の前で待ち構える報道陣を煙に巻くためか、ゴーン容疑者は、大きなマスクで顔を覆った作業員姿で拘置所の玄関口に現れ、左前方脇に止めてあったスズキ自動車の軽ワゴン車に乗り込んだのですから。‘おとり’の黒塗りの車が玄関正面に付けられる一方で、同車の屋根には脚立が載せられ、運転手も同容疑者とお揃いの作業員の服装といった念の入れようなのです。

 3月8日の報道によりますと、この‘変装保釈大作戦’を発案したのは、弁護団の高野隆弁護士なそうです。メディアも同作戦に使用された‘小道具’の入手先を追っており、同軽自動車に社名が記されていた建設会社が埼玉県に実在することや同容疑者が被っていた「N」マーク付きもの帽子も実在の会社で過去に使われていたものであったと報じています。ゴーン容疑者の出迎えを装った玄関正面の黒塗りの車も作戦の一環なのでしょうから、大掛かりな作戦であったことが窺えます。

 かくも綿密に準備された‘変装保釈大作戦’も、結局のところは大失敗であったようです。その理由は、第1に、‘騙しのテクニック’を用いてしまったことです。職を解かれたとはいえ、ルノー、日産、三菱自動車を束ねてきたグローバル企業連合の前会長であり、かつ、一貫して無罪を主張しているのですから、スーツ姿でパシッと決め、堂々と黒塗りの車に乗り込んだ方が自らの清廉潔白さを印象付けられたはずです。ところが、ゴーン容疑者は、メディアや一般の人々の目を誤魔化そうとしたのですから、同氏に対する信頼は地に墜ちたと言っても過言ではありません。これまで同氏を擁護してきた海外メディアも当惑しており、ゴーン容疑者の作業員姿について‘まるで囚人服のようだ’と表現しているコメンテーターも見受けられました。無罪を信じてきた人々も、姑息な詐術的な変装によって心証が有罪に傾いた人も少なくなかったはずです。

 第2の理由は、作戦上の目的そのものの失敗です。保釈のシーンを撮ろうと待ち構えているカメラ陣の目を盗んでその場をひっそりと去ろうとしたのでしょうが(高野弁護士は、ゴーン容疑者の住所がメディアに知られ、本人、家族、並びに、近隣住民の迷惑となることを避けるためと説明…)、結果は逆でした。作業員に変装した奇異なゴーン容疑者の不名誉な姿が大々的に報じられ、‘騒ぎ’はさらに大きくなってしまったのです。

 もっとも、常識的に考えれば、‘変装保釈大作戦’が失敗に終わることは当然に予測され得るように思えます。それにも拘らず、何故、誰からも見破られるような‘大作戦’を敢行したのでしょうか。ここで生じてくる疑問は、この作戦の真の発案者は弁護団ではなかったのではないか、というものです。日本の司法史において、保釈に際して弁護士が変装を画策したのは今般の事件が初めてなのではないかと思います。否、日本国の国民性を理解していれば、決して採用しなかったアイディアなはずです。となりますと、この‘変装大作戦’は、日本国を十分に理解していない外部からの指示、あるいは、入れ知恵であった可能性も否定はできないのです(ゴーン容疑者による発案である可能性もあるが、拘置所内で作戦の詳細を練り、外部にその実行を指示できるとは思えない…)。もっとも、発案者とされる高野弁護士は自身のブログで同作戦は失敗と認め、ゴーン容疑者の名誉を傷つけたとして謝罪していますが、同弁護士が全責任は自らにあると強調すればするほどに、怪しさが増してゆきます。

 仮にこの憶測が正しければ、ゴーン事件とは、カルロス・ゴーン容疑者個人が引き起こした個人的な事件ではなく、国際的組織が絡む犯罪と言うことになります。つまり、ゴーン容疑者自身も同組織の‘駒’でしかなく、この意味において、同容疑者の取り調べのみでは事件の全容を明らかにすることはできないのです。真の犯人は別のところに潜んでいるのかもしれないのですから。

ゴーン事件に関しては、メディアは世論の関心を事件そのもの悪質さよりも、日本国の検察・司法の制度改革に向けようとしております。しかしながら、百歩譲って制度改革の側面からゴーン事件に迫るとしても、その主たる改革点は、組織犯罪に対しては現制度では十分に対応し切れない点にあるはずです。今般のゴーン容疑者保釈に際して課された条件も、実効性に対する疑問以外にも、組織犯罪であれば殆ど無意味となりかねません。証拠隠滅等の作業は、組織内の別のメンバー達が行うかもしれないからです。ゴーン事件については、国際的組織犯罪とする見立てに基づいて対応した方が、余程、真相究明、並びに、再発防止に役立つのではないかと思うのです。

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中国から日本企業への魔の誘い

2019年03月07日 15時08分35秒 | 日本政治
タイでの日中協力事業 中国「一帯一路の一環」
本日3月7日の日経新聞朝刊の第一面には、スパイ容疑でアメリカから‘排除処分’を受けている中国IT大手のファウエイが、日本の電子部品メーカーに対して発注量を増やしているとの記事が掲載されておりました。

 同記事では、米企業からの供給が細っているため、サプライチェーンを維持するためにファウエイは、当面、目途に在庫の積み増す必要があったと説明しております。その一方で、こうした動きは、米中貿易戦争の長期化を見越したサプライチェーンの再構築である可能性も否定はできません(ファウエイは、2019年の計画として現在64億ドルの日本企業との取引額を80億ドルに増やす予定…)。仮に後者であれば、ファウエイからの誘いは、日本国、並びに、日本企業にとりましては魔の誘いとなりそうなのです。ファウエイの誘いに応じれば企業の受注高も増え、輸出も拡大するわけですから、経済的な観点からすれば一種の‘戦争特需’ともなり得ます。“米中貿易戦争は日本経済にとってはチャンス”とする楽観的な観測の多くは、敵対し合う米中両国の間にあって双方から代替需要を取り込む状況の到来を期待しています。

 果たして、米中貿易戦争は、楽観論者が主張するように日本国のみが‘戦争特需’を享受することを許すのでしょうか。仮にこれが許される条件が存在するとしますと、日本国が中立国であるか、あるいは、政治と経済が完全に分離された状態にある必要があります。しかしながら、日本国がこうした条件を満たしているのかと申しますと、そうではないようです。

先ずもって日本国はアメリカの軍事同盟国であり、中立国ではありません。米中貿易戦争は、既に通商上の貿易不均衡問題の次元を越えており、ファウエイ排除とは、まさに米中対立の政治化を象徴する事件でもありました。仮にトランプ政権が経済合理性に徹していたのであれば、‘安価で高品質の製品’を提供するファウエイを排除するという決断はあり得なかったはずです。情報漏洩という安全保障上の重大な懸念があったからこそ、ファウエイ製品はG5の政府調達から締め出されたのであり、同盟国が中国を‘仮想敵国’と見なした以上、同盟国である日本国もまた、有事に至らない段階にあっても中立を主張できず、法的義務はなくとも道義上の対米協力義務が生じるのです。

 それでは、アメリカから対中制裁に関する協力を求められた場合、日本国は、この要請を政経分離論を以って拒否できるのでしょうか。しばしば、政経分離論は対韓関係において用いられており、竹島問題や慰安婦問題などの政治的な対立点があっても、経済的には協力を進めるべきとする‘ご都合主義’の論法です。この論法によって、韓国は過激、かつ、常軌を逸するような反日政策を実行しても何らの経済制裁をも受けずに済んできました。対中関係にあっても、経済面に限定して対中関係を発展・深化させることができるとする主張も、基本的にはこの経済優先主義に立脚しています(経済的な利益を得られれば、自国の安全保障や人道は犠牲になっても良いと考える…)。

 しかしながら、この政経分離論は、対韓関係以上に対中関係では通用し難い論法となりましょう。何故ならば、対韓関係では日本国のみが韓国からの仕打ちを忍耐すれば事済みますが、対中関係にあっては、アメリカがそれを許さない可能性が高いからです。上述したように、アメリカは、オバマ前政権にあってその傾向の強かった政経分離路線から既に離れ、中国との対立関係を政治のステージに乗せています。つまり、アメリカは、中国との間の取引関係を継続させ、その軍事力強化、あるいは、‘中国の夢’の実現に間接的に貢献している日本企業をも制裁対象に含める可能性が高いのです。さらには、経済面で対中協力を維持している日本国をも‘仮想敵国’と見なすかもしれません。今般の中国からの誘いには経済的利益を誘因とした日米離反の政治的狙いが潜んでおり、日本国に仕掛けられた罠であるかもしれないのです。また、さらにその先を見据えれば、中国企業は電子部品を内製化し、日本企業は‘使い捨て’にされることでしょう(もっとも、中国は、日本国を自陣営に留めるために、日本企業に対して下請けや子会社としての役割や地位は残すかもしれない…)。

 日本国政府は、‘民間企業の経営判断に任せる’として、‘逃げ’の態度で対応するのでしょうが、その影響は日米同盟にまで及びますので、‘我、関せず’では、あまりにも無責任なように思えます。あるいは、敢えて積極的に対応しないことで、中国陣営入りを目指しているのでしょうか。中国で開催される一帯一路会議には、日本国から親中派の筆頭である二階自民党幹事長が出席すると伝わり、また、中国は、タイにおいて日中協力の下で実施される第三国市場での協力事業について、日本国が一帯一路構想に参加したとアピールしているそうです。

国際社会において中国に対する逆風が強まる中、仮に日本国政府が中国に靡くとしますと、ナチス・ドイツと三国同盟を締結した戦前と同じく、安倍政権は、日米同盟を御破算にして国民監視体制を敷く邪悪な独裁国家と手を結んだ過去の歴史が思い起こされます。日本国民の誰もがこうした悲劇的な展開は望んではいないはずです。中国からの魔の誘いには先の先を予測し、手遅れとならぬよう傷が浅いうちに意を決して断る勇気が必要なように思えるのです。

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‘宗教戦士’の問題-イエズス会とイスラム教

2019年03月06日 14時02分43秒 | 国際政治
イスラム教とは、実に不可解な宗教のように思えます。世界三大宗教の一つに数えられる普遍宗教ではありながら、その誕生は7世紀に過ぎません(イスラム元年は622年)。イメージとしては、時系列に従えば、ユダヤ教、キリスト教、最後にイスラム教となりますので、この三つの宗教は一直線上に描かれるのですが、キリスト教とイスラム教の間には、天と地ほどの開きがあり、同系列の宗教と見なすことは困難です。

 例えば、共に教祖の立場にあるイエス・キリストとマホメットを比較しましても、両者の人物像は凡そ対照的です。例えば、前者は神の子として誕生し、生涯に亘って妻帯せず、奇蹟や神秘に包まれた人でしたが、後者の一生を見ますと、孤児として恵まれない境遇にありながら、裕福な女性の配偶者となることで商人として成功した俗人です。しかも、後には一夫多妻制の下で幼な妻を娶っており、この事が、マホメットの死後にイスラム教団が分裂する要因ともなりましたし、『コーラン』が定める宗教的戒律にも影響を与えています。

 さらに、両者の教義や‘神の言葉’の信者への伝達の仕方を比べましても、両者の間には大きな違いが見られます。イエス・キリストは、人々の道徳心に働きかけて自然に‘重要な何かに気が付く’ように語りかけており、この点は、仏教の祖とされるゴーダマ・シッタルダとも共通しています。その一方で、『コーラン』の語り口、‘お前たちは…をせよ’といった具合に命令調なのです。そして、前者は、信者に解き難い悩みを提起しつつ、‘汝の敵を愛せ’と説いて人類愛や隣人愛を示すのですが、後者は、他の経典の民や多神教徒を敵視し、棄教であれ、抹殺であれ、その根絶さえ奨励しているのです。同教義に従えば、イスラム教を拡げるための軍隊組織も許されるのであり、かくして宗教戦士たちは片手に『コーラン』をもう片手に剣を以って周辺地域を制圧し、広大なるイスラム帝国を築いたのです。

 宗教組織における戦士達は、封建制度を基礎とする騎士や武士とは全く違った役割と性質を帯びることとなります。騎士や武士の基本的な役割は、自らの領地や領民を護ることにあり、これらが危機に晒される時には、自らの命を賭して外敵と戦う義務がありました。封建契約に基づく主君への忠誠心も、あくまでも領地や領民保護のための集団的な安全の保障にあり、領民もまた、自らの保護者として領主に特別の地位を認めていたのです。一方、イスラムの宗教戦士の役割とは、‘神’、否、教団の命に従って異教徒と戦い、支配地域を拡大することにあります。このため、一般の人々との関係は希薄であり、領民保護義務を負っているわけではありません。領地や領民を介した具体的な権利・義務関係がないのですから、誰もが‘イスラム戦士’となり得たのです(一夫多妻制は、若年男子の戦士化には好都合でもあった…)。

 以上に簡単にキリスト教とイスラム教を比較してきましたが、両者の相違を考えますと、キリスト教を発展的に継承する形でイスラム教が誕生したのではなく、両者は、全くの別系統として理解することができます。『コーラン』においてマホメットが‘一夜昇天’によってイエルサレム神殿の神の御前に赴いたと記すように、イスラム教とは、ユダヤ教との関係の方がより強く、両者間の共通点も多いのです。神からの命令という語り口も、『コーラン』の方が遥かに饒舌でありながらも、『旧約聖書』の「モーゼの十戒」を髣髴させますし、自らの信奉する神を絶対視し、それへの無条件の奉仕を求める点も共通するのです。もっとも、ユダヤ教の場合には、ユダヤ12部族としてのその設立当初はともかくとして、イスラム教に匹敵するような宗教戦士は存在しておらず、ユダヤ教が、支配のために詐術的な手法を採る傾向にあるのは、ユダヤ人の人口規模からして圧倒的な武力を持つことがなかったためかもしれません。

 かくして、ユダヤ教から派生し、かつ、軍事力とも結びついた極めて強力な宗教勢力としてのイスラム教の姿が浮かび上がってくるのですが、ここに、キリスト教がこうした宗教戦士の考え方と無縁であったのか、というもう別の問題も提起されてきます。キリスト教が絶対的な平和主義勢力ではなかったことは、11世紀に始まる十字軍の遠征を見れば明らかなのですが、同遠征には、ヴェネチアやジェノバといったイタリアの商業都市の利益が関連していたことはよく知られています。これらの諸都市とユダヤ商人やイスラム商人との関係については今後の研究が俟たれるところですが、歴史において、キリスト教徒が戦士化するもう一つの切っ掛けがあります。それは、16世紀の宗教改革・戦争を背景にしたイエズス会の誕生です。

 イエズス会の結成の経緯を見ますと、そこには、ユダヤ教やイスラム教からの強い影響を窺うことができます。創始者であるイグナチウス・ロヨラはユダヤ系バスク人とされ、レコンキスタ以前にあってイスラムの支配下にあったイベリア半島の出身です。この地では、後に激しいユダヤ教排斥運動が起こり、その多くは棄教したりオランダ等の西方に移住しつつも、イスラム教徒のみならずユダヤ教徒が多く居住していた地域でもありました。キリスト教国の支配下に入った後も、その影響は長く人々の生活習慣や宗教心のあり方に残されたと考えられ、軍隊組織に擬えられるイエズス会の戦闘的な性格も、イスラム教由来であるとすれば理解に難くはありません。そして、幾度となく各国から追放され、あるいは、法王から破門されながらもイエズス会がカトリックにおいてしぶとく生き残り、その勢力を伸ばし、終に中心的な組織になった時、カトリックは換骨奪胎され、‘別物’になってしまったのかもしれないのです。
 
 そして、このユダヤ・イスラム連合による詐術的な換骨奪胎の手法は、今日にあってもキリスト教のみならずあらゆる領域において試みられており、鎧を脱いだ‘宗教戦士’達があちらこちらでこの目的のために活動しているようにも思えます(今日では、宗教的な布教や支配地域の拡大のみならず、大航海時代以降の世界大での貿易拡大により、経済的利益の独占も目的なのかもしれない…)。日本国もまた例外ではなく、危機を免れるためには、教科書が教える世界史、並びに、イスラエル建国を機としたユダヤ対イスラムの対立構図からも一旦離れ、その水面下で繰り広げられてきた特定の組織による‘世界支配’の問題にも踏み込むような、斬新なる視点が必要なのではないかと思うのです。

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体罰禁止のパラドクス

2019年03月05日 13時20分34秒 | 日本政治
 フィリピンでは、子供に対する体罰禁止法案は議会上下両院で可決されたものの、同法案に対してデゥテルテ大統領が拒否権を発動したと報じられています。日本国でも、昨日、衆議院の予算員会にて安倍首相が、体罰禁止の児童虐待防止法の改正案としての法案化を明言しており、体罰禁止は‘グローバルな潮流’なようです。デゥテルテ大統領は、こうした流れを‘西側諸国の風潮’と語っていますが、同時期における日比政界の動きは偶然の一致とは思えず、おそらく、背後には国連等の国際組織の意向が働いているのでしょう。

 体罰禁止法案に対する署名拒否の理由として、ドゥテルテ大統領は、‘親による責任あるしつけと虐待’との混同を挙げております。日本国内でも、千葉県で起きた痛ましい児童虐待事件が発端となりましたので(虐待の証拠となる映像を何故母親は撮影したのか、謎が残る…)、フィリピンでも、同じようなDV事件を機に法制化へのプロセスを辿ったのかもしれません。何れにしましても、児童虐待と体罰との間には相当の飛躍がありますので、同大統領の説明にも理を認めることができます。そして、体罰禁止には、DVとの混同の他にも、様々な問題が潜んでいるように思えるのです。

 第1の問題点とは、言語能力や理解力が未発達な状態にある子供に対しては、してはいけない行為の理由を理屈で説明することができない点です。子供達は大人のようには危険を予知・予測できませんので、命が危うくなるような行動でも平気でとります。言葉そのものを理解できないのですから、時には‘痛み’という伝達手段で危険性を教える必要が生じる場合もないわけではありません。体罰を全面的に禁じますと、子供の命が危うくなるケースもないわけではなく、むしろ、子供の安全を守るためにこそ体罰が必要、という考え方もあるはずです。少なくとも手の平やおしりといった体の一部であれば、傷跡や後遺症が残る程度でなければ、虐待には当たらないのではないでしょうか。

 第2の問題点は、自己抑制能力が低いレベルにあるため、子供そのものが時として‘乱暴者’である点です(もっとも、おとなしい子もおります)。体罰禁止の考え方の基本は、子供の権利保護の観点から親による子に対する暴力を禁じるところにあります。しかしながら、現実には、逆の関係もあり得ます。子供による親に対する暴力も当然存在するのであり、街中を歩いていましても、子供が親を激しく叩いたり、蹴ったりする光景を目にすることも少なくありません。こうした場合、親による体罰のみが禁じられますと、親は子供の暴力に忍の文字で耐える一方で、子供の暴力はエスカレートする一方となりましょう。つまり、親の権利保護の観点からすれば、不公平なことにもなりかねないのです。親による体罰とは、原則として家庭内には国家権力は入り込めませんので、いわば、‘私的な警察・司法制度’の意味合いもあるのです。

 ‘罰’と表現されていることが示すように、体罰は、道徳や倫理に反した行為、即ち、‘罪’を犯した時に身体に対して‘罰’が与えられることを意味します。大人の世界でさえ、犯罪者は刑務所に収監され、自由を制限されるという一種の‘体罰’を受けているのが現実です。しかしながら、罪と罰との関係を考えれば、体罰禁止は、子供の内であれば‘罪’を犯しても‘罰’を受けなくてもよい、あるいは、‘罰’を受けずに過ごした幼児体験が成人後にも影響し、‘罪’と‘罰’との関係に関する意識を希薄化させる可能性もあります。

幼少の時から‘罪’と‘罰’との応報関係を理解しておくべきですし、仮に罰を受けずに育った人々が社会の多数を占めるに至りますと、横暴で身勝手な人々が増え、暴力や犯罪も増加するかもしれません。こうした犯罪意識の希薄化が第3の問題点です。

 第4の問題点として監視社会化のリスクの観点から指摘し得るのは、体罰禁止がやがて政府による家庭内監視の根拠とされてしまう懸念です。IT技術等の発展により、今日では監視カメラを家庭内に設置し、外部から監視することは技術的には可能です。DV防止から体罰禁止への流れが造られている点に注目しますと、立法措置の真の目的は、一つの事件を社会問題化することにより、監視対象を全家庭一般へと浸透させることにあるのかもしれません。中国をはじめ、情報・通信技術を以って監視社会化へと向かう徴候が顕著となった今日、政治の動きの背景を疑わざるを得ない状況にあることは、まことに残念なことです。

 無抵抗な幼い子供達が家庭内にあって親から虐待を受けることはあってはならず、児童虐待の防止強化それ自体の方向性に反対する人は殆どいないことでしょう。多くの国民が親による冷酷な虐待によって命を奪われている子供達が存在することに心を痛めています。しかしながら、犯罪としての児童虐待と体罰禁止とを直線的に結びつけるのは短絡的であり、上述した諸問題に照らせば危険でさえあります。体罰の禁止を以って虐待死を防ぐことができるはずもなく、子供達の身体や健康状態のチェックや子供の‘駆け込み寺’のような保護機関の設置など、より効果的な別の方法を考案すべきなのではないでしょうか。

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第2回米朝首脳会談‘決裂の効用’

2019年03月04日 12時39分04秒 | 国際政治
米朝首脳会談は「成功」 米大統領補佐官が擁護
ベトナムの首都ハノイで開催された第2回米朝首脳会談は、事実上の‘決裂’によって幕切れとなったため、同会談を失敗とみる辛口の評価も見受けられます。その一方で、交渉の席に同席したジョン・ボルトン大統領補佐官は逆の見方を示し、会談は成功であったと評価しております。物事の是非の評価はその最終的な結果を見なければ下すことはできないのですが、首脳会談の決裂は、幾つかの意味において国際社会に効用をもたらすように思えます。

 第1の効用は、コペルニクス的な転換とまではいかないまでも、‘合意=成功’というステレオタイプの評価に関する固定概念が崩れたことです。これまで、国際社会では、問題解決の平和的な手段として‘話し合い’を絶対視する風潮が強く、信仰にも似た対話重視の姿勢が見られました。このため、現実的な目的の実現よりも‘合意’という表面的な形式が優先され、しばしば、国益を損ねたり、法や正義を曲げるような‘悪しき妥協’や‘不条理な犠牲’も散見されたのです。現実の歴史を振り返れば、必ずしも‘合意=成功’とは限らないのは、ミュンヘンの宥和の事例を見ても明らかです。常識に立ち返る、並びに、解決手段の選択肢を広げると言う意味において、今般の決裂には効用が認められるのです。

 第1に関連して第2の効用として挙げられるのは、‘合意圧力’が低下する点です。‘合意圧力’とは、上述した‘合意=成功’の構図を背景に、一方の側が相手側に対して不合意を示唆することで譲歩を引き出すための交渉戦術です。‘合意=成功’の固定概念が崩壊すれば、自らの要求を呑まなければ‘席を蹴るぞ(合意できなくなるぞ)’という脅迫も同時に利かなくなります。心理的な‘合意圧力’が‘悪しき妥協’や‘不条理な犠牲’をもたらしてきたとしますと、これが消滅すれば、‘花をとって実を捨てる’、即ち、外交を舞台とした華々しい合意形成のために真の達成すべき目的が後回しにされるという本末転倒もなくなるのです。

 以上に主要な二つの効用について述べてきましたが、今般、米朝首脳会談がご破算となったことで、アメリカは、軍事制裁オプションを含め、対北朝鮮政策において取り得る手段を増やすと共に、国際社会は、国際の平和に対する重大な脅威となってきた北朝鮮が、‘合意=成功’の構図の下で、一部であれ全面的であれ経済制裁が解除され、‘甘い汁を吸う’モラル・ハザードを避けることができました。悪しき合意は不合意よりも劣るのであり、この側面は、米朝間のみならず全ての交渉ごとにおいて言える普遍的な真理とも言えましょう。

メディア等では、米朝会談が物分けれとなった今こそ、早速日本国政府が日朝首脳会談に踏み出し、米朝間の仲介役をも務めるべき、とする主張もないわけではありません。しかしながら、日本国政府が、両国の間に入って安易な妥協を働きかけるのでは、上述した‘決裂の効用’を台無しにしかねないリスクがあります。ロシアとの平和条約交渉も控え、日本国政府は、むしろ、不合意によってもたらされるメリットにこそ関心を向けるべきではないかと思うのです。

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北朝鮮の貧困と共産主義の問題

2019年03月03日 13時21分07秒 | 国際政治
核兵器ある限り「未来ない」=米朝首脳会談は「生産的」―トランプ大統領
2月28日にベトナムのハノイで開かれた第2回米朝首脳会談は、北朝鮮側が一部核施設の破棄と引き換えに経済制裁の全面的な解除を要求したため、事実上の決裂となりました。経済制裁の解除こそが北朝鮮が会談の大舞台に臨んだ最大の目的であるとしますと、同国の経済状況はもはや破綻寸前であるのかもしれません。安保理決議に基づく対北経済制裁の目的は北朝鮮の完全なる非核化ですので、この目的が未達成、即ち、寧辺の核施設限定の‘非核化’によって同制裁が完全に解除されるはずもないのですが、対北経済制裁については、しばし、考えさせられる点があります。

 北朝鮮の主張に従えば、今日の同国の経済的苦境は経済制裁を受けたためであり、あたかも全責任は、アメリカ、及び、国際社会にあるかのように振る舞っています。その一方で、シンガポールで開催された第1回米朝首脳会談に際しては、アメリカ側も北朝鮮の‘明るい未来’を描いたプロモーションビデオを作成しており、非核化に応じさえすれば、海外からの投資も集まり、同国が一気に先進国並みの豊かな国に変貌するかのような夢を振りまいていました。乃ち、そこには、北朝鮮の非核化⇒経済制裁の完全解除⇒改革開放路線への転換⇒急速な経済発展というシナリオが読み取れるのです。しかしながら、この筋書き、よくよく考えてもみますと、疑問点も少なくないのです。

 そもそも、北朝鮮は、経済制裁を受ける以前から最貧国の一つに数えられてきました。国民の反乱を怖れた‘金王朝’によって意図的に作出された飢餓とする見方もある程であり、国民の生活水準の向上には一切、関心を払わなかったのです。海外からの食糧支援も国際市場に横流しにされ、一部の特権階級の懐を温めたに過ぎませんでした。何れにしても、北朝鮮の経済的困窮の最大の原因は、国民の生活を顧みない同国の体制自身にあります。仮に、今般の経済制裁によって堪えられぬほどの打撃を受けている人々が同国にいるとすれば、それは、核・ミサイル開発や奢侈な生活に国費を投じてきた金一族とその取り巻き以外には考えられません。北朝鮮は、国民を出汁に使いながら経済制裁の緩和を訴えているのであり、仮に改革開放路線へと舵を切り替えたとしても、中国と同様に、独裁者、並びに、朝鮮労働党のみに利権が集中することでしょう。つまり、対北経済制裁は、非核化には有効な手段となりますが、国際法に反して秘密裏に核・ミサイル開発を行った張本人に対しては、何ら罰することもなくその独裁的な地位を温存し、より巨大な利権を手にするチャンスを与えることとなるのです(国民は国際市場における安価な労働力化…)。非核化は実現するとはいえ、こうしたモラル・ハザードは許されるのでしょうか。

 第2に指摘し得るのは、改革開放路線を歩むことによって北朝鮮が韓国をも凌ぐ先進国へと急成長を遂げる可能性があるとしますと、これまでの北朝鮮の経済政策とは、一体、何であったのか、という疑問です。世界三大投資家の一人であるジム・ロジャース氏は、北朝鮮の潜在能力を高く評価しており、ウラン鉱を含む豊富な天然資源に加えて、勤勉で優秀な国民性に期待を寄せているようです(共産・社会主義国の国民は怠惰となる傾向にあり、今日の北朝鮮国民が勤勉であるという評価には疑問符が付くのですが…)。このことは、裏を返せば、共産主義に基づく統制経済があらゆる資源を有効活用させることなく眠らせてしまう‘冬眠システム’であるか、あるいは、歴代の北朝鮮指導者の統治能力が極めて低レベルであったことの証左ともなります。

 そして第3の疑問とは、最も閉鎖的な経済体制を敷いてきた北朝鮮が、国際的な経済制裁網によって追い詰められている点です。共産主義における通商体制とは管理貿易体制であり、自由貿易主義とは異なり全ての貿易は国家によって管理されます。かつてのソ連邦も、OECDに対抗してCOMECONなる組織を結成して共産主義陣営内の国家間貿易促進に努めましたが、結局は有名無実化してしまいました。冷戦時代の経済関係を引き継ぎ、今日なおも北朝鮮の主要な貿易相手国は中国やロシアなのですが、両国並びに韓国は、制裁決議成立後も秘かに石油製品などを北朝鮮に提供しているとされていますので、今般、北朝鮮が経済制裁で悲鳴を上げているとしますと、どこかその訴えには腑に落ちないところがあるのです(もしかしますと北朝鮮は、本心では、対米交渉を機に輸入面ではなく輸出先の拡大や外資導入を目指しているのかもしれない…)。

 北朝鮮側は積極的な姿勢を示しつつも、第3回米朝首脳会談の日程は未定のままであり、その間、北朝鮮に対する経済制裁は継続されることとなります。中国の動きを含め、北朝鮮を取り巻く状況には不安定要因や不透明な部分が多いのですから、ここは焦らず、北朝鮮という国の実像を徹底的に調査・分析するとともに、上述の非核化シナリオについても再検討を試みても遅くはないと思うのです。

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世界を徘徊する危険な思想-共産主義と資本主義の‘止降’?

2019年03月02日 14時21分20秒 | 国際政治
金正恩氏が帰国の途、再び中国へ 習主席と会談するかが焦点
第2回米朝首脳会談がベトナムの首都ハノイで開催された理由は、政治分野では共産党一党独裁体制を堅持しながらも中国同様に経済分野にあって改革開放路線を選択したベトナムを、模範とすべき発展モデルとして北朝鮮に提示するためであったと説明されています。開催地選定には、体制移行、即ち、金王朝の退陣を求めないとするアメリカ側のメッセージが込められていたのでしょうが、近年の国際社会における動きを見ていますと、共産主義と資本主義の‘止揚’ならぬ、‘止降’という現象が起きているように思えます。

 ‘止揚’とは、近代哲学の巨人であったヘーゲルが唱えた弁証論において用いられている概念であり、初期段階において二つのものが相矛盾し対立し合う状態にあっても、相互に反発し合う力がやがて両者を上方に押し上げ、高次においてより優れたものとして一体化するとしています。短辺となる一面を接して水平状態に並べた二枚の板を左右両方の端から同程度の力を加えれば、二枚の板は両者が接する面を頂点として山型を為しますが、‘止揚’とは、こうした力学的な説明を以ってイメージされるのです。このため、カール・マルクスを含め、批判的継受であれ、ヘーゲル哲学に基礎を置く思想家の多くは自然科学における絶対普遍の理論の如くに‘止揚’を絶対真理として信奉する嫌いがありました。

しかしながら、一方の押す力が圧倒的に優っている、あるいは、板の‘素材’の強度に違いがあれば、他方は押し出されるか、壊れてしまいます。また、押す力や材質が同程度であったとしても、逆方向から相互に押し合う力は必ずしも高次において‘止揚’するとは限らず、低次においてバランスしてしまう‘止降’もあり得るはずです。すなわち、山型ではなく、谷型となるのです。そもそも人文や社会科学の分野に物理学的な現象説明を持ち込むことにも疑問もあるのですが、現実には、古今東西を問わず、人類社会における対立にあっては、一方の他方に対する攻撃や抹殺といった悲劇をもたらしたケースの方が遥かに多いのです。

ヘーゲル哲学の問題点が分かれば、二項対立の構図に内在するリスクも見えてくるのですが(三つ巴でも基本的構図は変わらない…)、近代以降の人類社会が、凡そ資本主義対共産主義の対立構図で覆われてきたのは、単なる偶然なのでしょうか。ヘーゲル信奉者であれば、人類がより高次の存在に‘止揚’するためには、両者が対立して押し合う二項対立こそ望ましい状況なはずです。共産主義なる思想がカール・マルクスという一人の俗人の頭の中の産物であるにもかかわらず、世界を二分する一大イデオロギーへと伸し上がった背景には、後進国であったソ連邦や中国の急速なる超大国化と同様に、ヘーゲル哲学を取り入れた何らかの国際勢力によるバックアップがあったとしか考えられないのです。

そして、全世界を操る組織がヘーゲル哲学に従って二項対立から単一への道を計画しているとしますと、相対立する共産主義と資本主義との間の‘止揚’を、両者が融合された新たな未来像として提起してくる時期にそろそろ差し掛かっているように思えます。しかしながら、それは、先述したように必ずしも高次元ではなく、低次元である可能性の方が高いのです。つまり、両者の最悪の部分を併せ持つ形での‘止降’かもしれないのです。

共産主義と資本主義との対立が‘止降’によって解消される場合、資本主義国の良い側面であった自由、民主主義、基本権の尊重、法の支配といった諸価値が削ぎ落される一方で、経済的自由のみは、巨大独占企業がグローバル市場を掌握するために残されることでしょう。共産主義国でも、その良い面であった平等が消え去る一方で(もちろん、平等に貧しくですが…)、‘プロレタリアート独裁’の名の下での政治的共産党一党独裁体制のみは生き残ることでしょう。結局は、官民何れであれ、独裁、あるいは、寡頭体制が成立し、少数が権力や富を独占すると共に、その他の多数の人々の‘家畜化’となるのではないでしょうか。‘家畜化’された人々は、動物の家畜と同様に‘客体’として最低限の生活は保障されてはいても、政経の両面においてもはや自らの運命を自らで決めることができる‘主体’とはなり得ないのです。国際勢力の目指す未来像が、一部の少数者による全世界の政治権力と富の独占による人類支配であるならば、その手法が如何に高度で手が込んではいても、ある意味において、子供じみた単純なヴィジョンであるのかもしれません。

こうした視点から見ると、今日、共産主義国は経済面での資本主義化により、そして、資本主義国は政治面での共産主義化により、双方とも、一つの未来社会に向かって進んでいるように見えます。官民を問わず、情報の独占を許すITやAI等の技術は、こうした社会の実現を支える支配のためのテクノロジーともなりましょう。そして、たとえ完全なる非核化と引き換えに北朝鮮に多額の外資が流れ込み、中国やベトナムと同様の経済発展を遂げたとしても、そこには独裁体制の下で全国民をテクノロジーで徹底的に統制する‘ミニ中国’が出現するに過ぎません。国民の生活レベルがある程度は向上したとしても、それは、‘当局’が許す限りに過ぎず、国民は、誰からも干渉されない私的空間を持つことも、自由を享受することも叶わないのです。北朝鮮問題は、同国の未来のみならず、人類社会の未来についても警鐘を鳴らしているように思えるのは、果たして杞憂なのでしょうか。

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