廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

寄り道としてのシューベルト(1)

2021年02月10日 | Classical



この2ヵ月ほどはジャズはほとんど聴くことなく、代わりにシューベルトのピアノ曲ばかり聴いていた。
なぜかはよくわからない。とにかくそれ以外に興味が持てなかったのだ。毎日、朝から晩まで、部屋の中で流していた。
数えてみたら、その数は30枚を超えている。

クラシックを聴くようになったのは大学4年の頃からだが、以降、割りと長い間、シューベルトのピアノ曲が苦手だった。
こういう人は結構多くて、ピアノ曲しか聴かないというクラシックファンの中にも、実はシューベルトはほとんど聴かない、
という人がたくさんいる。シューベルトのピアノ曲というのは、そういう音楽なのだ。

シューベルトは31歳という若さで亡くなった。13歳の頃から作曲を始めた早熟だったが、それでも18年という作曲期間は短すぎた。
その中で協奏曲を除くすべての形式で音楽を書いたが、最後まで仕上げ切れず、未完成のままとなったものが多い。
学校の音楽室の壁に肖像画が掛けられるような作曲家の中ではこれは異例のことだ。「もともとが楽曲を完成される能力に欠けていたのだ」
なんて言う人もいるけれど、私はきっと書き上げるにはあまりに時間が足りなかっただけだろうと思っている。

ピアノ曲で言えば、「ピアノ・ソナタ」というタイトルではない曲がやたらと多い。つまり、ソナタ形式をとっていないものが
多いということで、ここでも「構成感の明確な曲を書くことが苦手だった」などと陰口を叩かれたりする。
聴いた印象がアドリブ的というか、取り留めのない印象から「即興曲」というタイトルを付けられたりする。

尊敬してやまなかったベートーヴェンの葬儀の際に、棺桶の一角を持って歩いたという世代で、ちょうど時代の節目に生きた人だった。
だから、必ずしも構成感ありきの音楽でなければならない、という感覚からは一歩抜け出していたんじゃないだろうか。

大昔は「歌曲王」と言われて美メロ作曲家の代表、みたいな扱いだったけど、最近は「死を予感させる美しさ」なんていう論調が
定説化しつつある。映画「アマデウス」の影響もあったのか、モーツァルトやシューベルトのような短命だった作曲家の場合、
その作品の美しさと死を結びつける感覚が大衆化・一般化した。でも、これはちょっと安直すぎるんじゃないか、という気がする。

そんな風に、シューベルトのピアノ曲の正体は何か、を考えるといつも迷宮を彷徨うことになるわけだが、しばらく遠ざかっていた
これらの音楽をまた急に聴きたくなったのは、これまたなぜだろうと考えてみても、こちらについてもよくわからない。
わからないのだけれど、それはあまりに突然やってきて、その波に訳も分からず飲み込まれてしまっている。

聴いていてもどこに辿り着くのかさっぱりわからないこれらのピアノ曲の前では、アドリブ一発のジャズという音楽ですら、
実はあらかじめ決められた予定調和の世界の物語だった、と思えてくる。

そんなわけで、ちょっとシューベルトのピアノ曲へ寄り道してみよう。


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