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雑文・駄文なお気楽日記です。よろしゅーに。

【Meet to the DOGUU】三内丸山遺跡・2

2018-04-22 16:13:07 | 土偶・縄文・考古学


三内丸山遺跡です。

前記しました博物館「さんまるミュージアム」も入ってる建物、縄文の丘 三内まほろばパーク「縄文時遊館」の建物が入り口のゲートも兼ねている感じで、この建物を通り抜けて遺跡本体(?)に出られます。
今のところは入場料無料でしたがね~。
もともとは、昔・江戸時代から土器とか土偶は出ていたそうで、遺跡があるっていう認識はあったそうです。
で、現在近くなったのちも細々と(?)大学とか地元の埋蔵文化財保護的な調査は行われていたんだそうです。
で、平成になりまして、この地に野球場を作る計画が出てきまして、じゃぁ今のうちにもっと本格的に調査しといて、その後から野球場を・・・っていう話だったんだが、実際本格的にやってみたら出るわ出るわ、で今までの「縄文時代」の概念を覆すような事実が出てきたんで野球場計画は中止、遺跡をそのまま保存する方向になったというわけだそうな。

で、こういう感じで見た目は広ーい平地っていうか微妙に高低はあるが巨大なピクニック広場みたいな感じの場所です。
で、この道なんですが・・・
本格的にこういう道だったわけじゃないんだろうけど、ここ、実際に縄文時代の道だったそうで。
しかも、幅15mくらいの。
そして、この両脇が墓になっているそうです。
っていうのは、この道を通って遠い地に交易に行ったり、そこまでいかなくても狩りにいったり、また新たな外部からの人を迎えたり、っていう道、その両脇にご先祖たちを眠らせ、彼らに見張りとあと集落を守護してもらおうという意図があったんじゃないかな~?って事だそうで。
遺体は、例外なく足を道側に向けて埋められているそうな。
言ってみれば、縄文の道祖神的な感じでしょうか?


道の両脇には大人の墓で、子供の墓は別の場所にまとめてあるそうで。
子供は、甕のような土器に入れられて埋められていたそうです。
当時は、無事に生まれる子供も多くはなかったわけで、新生児死亡率は高かったんでしょうな。
甕に入れる、その甕は子宮を模している、っていう説もあってなんとなく納得できたりして。


一般の住居の予想復元家屋
普通、この手のは茅葺のが多いが、
ここのは茅葺と木の皮のと土を被せた三種のタイプを作ってある
なにせ、柱の跡しか残ってないので壁とか屋根の材料は想像にすぎないから、
って事で三種用意してみました!って事らしいよ~


一般住居以外にも、なにか共同で使用していたと思われる巨大な家屋もあって、雰囲気としては町内会館って感じ。
何故か写真撮り忘れました^_^;;


全体の模型図


周囲に当時は栗の木がたくさんあったそうなんですが、その栗のDNAがすべて一致している、
って事は、意図的に栗を植えて殖やしていたっていう事らしいですよ~。
縄文っていうと、狩猟採取っていうイメージだけど稲作はまだでも植物の栽培っていう事実は既にあったそうで。


立派なフキノトウがあちこちに生えてました!
いやぁ、六花亭の包み紙くらいでしか見たことないから^_^;;

で、ここのシンボルでもあるこれ、ですが・・・

六本の巨大な栗の木から作られているそうで、それがちゃんと寸法そろえてあるそうでして。
この巨木は、穴の圧痕や残った木の遺物からその大きさを予測して再現したそうです。
しかし、現代日本にはそんな巨大な栗の木は無いので、なんとロシアのソチの山林から軍用ヘリでウラジオストクまで運び、そこから船でこの地にやってきたそうな~!!
この建物の目的は、各説ありますが、ピラミッドみたいな「時期を知る」ための天文学的な意図で作られたのでは?っていう事だそうで。
まぁ、他にも灯台では?とか、見張り台では?祭事用では?境界を示していたのでは?などの説があるそうです。


柱があったのは確実なんですが、この台みたいな部分は「推測」なんだそうです。
以前は、ここに柱がかかっていて上まで登れたそうです。
かなり高そうだなぁ・・・



でかい・・・





こちらは、本物の当時の穴と残された柱。
一部は腐らずに当時のものが残ってます。



遺跡のところどころに、このようななんか天体望遠鏡入れ(笑)みたいな白いドームがあります。
この中は、本物の当時の遺物がそのまま置かれています。
天候条件や照明とか保護の関係で、ドームで覆っているそうでございます。

中は、本物のままの土器破片とか・・・




日に数回、ボランティアさんによるガイドツアーもあります。
出来たら、これに参加してみると面白いよ~
一応、ガイドのためのシナリオぽいものはお役所から渡されてはいるようですが、
ガイドさんそれぞれが独自の視点で語るのが売りだそうです。
縄文だけでなく、考古学も日々進化して新たな学説や仮設、また事実が判明してくるため、
日々勉強だそうです。
私が説明聞いたのは80歳超えてるガイドさんだったけど、矍鑠としていてしゃべりもはっきりしてるし、
反応も素早くて、若い~っ!!!って感じでした。

で、この方から教えていただいたのですが、一時期「古代語」っていう考え方が出てきた時期があったそうで、津軽弁とかアイヌ語、それにロシア語などをミックスして当時の言葉を創造してみました、っていう言語らしいです。
その言葉を使って一曲歌ってくださいましたが・・・
印象的にはアイヌ語が一番入ってるかなぁ?って感じでした。
しゃこちゃんの縄文館カルコで、古代語で話してた人形がいましたが、たぶんそれもこの考えに基づいてしゃべっていたのでしょうなぁ。
でもなにせ、当時まだ文字がないので言葉としての記録は全く残されていないので推測の域を出ていないんで学門としては認められてはいないようですが。
でも、なんかトールキンみたいでいいよねぇ~(注:トールキンは「指輪物語」原作者。架空の世界「中つ国」の言語体系をも作ったのだ。エルフ語そして独自の文字も)




縄文おにぎり食べてきました

そういえば、この集落のトイレと思われる付近では、回虫の卵の痕跡が残ってるそうでございます。
と、食べ物の写真の後に書くネタじゃないですな~^_^;;
コメント
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