また役に立たないことを言い出した役所が:
先日、私のブログの読者でもある同じジムの会員がストレッチをやっている私の所に来て「小学校3年から英語教育をなどと言い始めたが如何か」と水を向けてこられた。彼は私のブログの読者である以上、私の年来の主張を承知の上で言っておられたのだ。「お解りでしょうから訊かないで下さい」と答えたが、この文科省だったかの方針は一見(一聴)すると如何にも結構なことのようだが、現在の「科学としての英語」を教えている形を改めずに、それを小学校低学年から押しつけても何の改善にも強化にもならないのは明らかではないか。
私は我が国の外国語教育の至らなさを繰り返して採り上げてきた。そして「英語教育が読解力と要らざる単語の知識だけを高めることを目的としていれば、現在までのところである程度以上目的を達成していただろう」とは言って来た。だが、「我が国のように一般的な勉強(学問)の水準が高く、あらゆる分野に渡って国語で学ぶことが出来る態勢が整っている国で、万人の英語力を高める必要があるのか」とも主張してきた。
更に、英語を高い水準までものにする必要がある者たちが、それを本気で追求していけば良いのである。そういう人たちはとは海外に出ても自らの目指すところを追い求めようとする研究者や学者の方や、海外で仕事をしようと志す若者や、私(たち)のようにアメリカ乃至は外国の会社で彼らの一員として懸命に働こうとする者たちが十分に意思の疎通を図れる段階を目指すか、“native speaker”並な所を目標として学べば良いことで、現在の我が国で高い英語力を身につけても、それを何処で活かそうにもそういう場は何処にでもここにでも転がってはいないのだ。
私は何度か述べてきたが、1945年4月に旧制中学の1年生になるまでは、敵性語の英語などは見たことも聞いたこともなかった。そこから(13歳から)出発して十分に間に合った。上智大学で同級の惜しくも20歳代で亡くなった横須賀出身のK君の素晴らしい英語だけではない学力には圧倒されたが、彼のその時点で既に“native speaker”だった英語力も、中学入学後から学び始めたものだったと聞いて安心もしたし、打ちのめされた気分にもさせられた。
中学の頃に病を得て卒業できずに専検(現在の大学受験資格試験)で入ってきて自信たっぷりだったF君も「自信を失った」と嘆いたほどK君の優れた英語力だった。私の強調したい点は勉強法さえ適切であれば、13歳というか中学入学の年齢から始めて十分に間に合うという点だ。また、私は大学1~2年の時に偶然のご縁で中学1年の男児を英語だけとの条件で所謂家庭教師を務めたが、その子は高校を卒業するまで英語だけは「オール5」を取っていた。また某商社では2年目の若手の個人指導を依頼され2年足らずでその課で一番の英語の使い手になってくれた。
では、彼らに何をどのように教えたかと言えば、上記のK君も同じだった中学1年程度の教科書の繰り返しての音読、それも暗記できるまでの音読、次いでは意味が分かるようになるまでの音読、そして暗唱の繰り返しだった。単語帳などは一切作らず、意味が分からない言葉に出会えばその都度辞書を見て覚え、絶対に書き込みはしない、英文和訳はせずに英語のままで意味を覚え、商社の若手には「こういう場合はこう言えば良いのかと記憶するように」と「自分が言いたいことを日本語で思い浮かべてそれを訳すような真似をすることなく、覚えているこれはと思う表現でしゃべって見よ」だった。
何だ、それだけでは成功例が少ないではないかと言う反論の如きものには何度か出会った。こちらから言ったことは「それでは我が国の学校教育の英語での成功例はどのくらいあったのですか」だった。また、「私が唱える英語の勉強法で教えられる教師などいない。偏った理想論では」とも批判されたが、それも育て損なった方々のご意見として承っておくことにした。
また、我が国の英語教育で気になることがある。それは無闇矢鱈に“native speaker”を有り難がることだ。私の英語をフランス文学のTK博士がいみじくも「支配階層の英語」と喝破されたが、普通に我が国で暮らしていれば仮令アメリカ人でもそういう階層の人たちの言葉に直に接する機会はそう滅多にない。即ち、余程気を付けていないと「何処の馬の骨かも解らない英語圏の国の者を、それが下層の出身であっても、有り難く押し戴くような結果になりはしないか」ということ。そういう聞き分けが出来る人がどれほどいるのかという問題である。
私はトランプ大統領が選挙キャンペーン中に“I’m gonna ~.”であるとか、“I wanna ~.”のような表現を濫用されることを非難した「上品ではない」と。それが彼の支持層である所謂プーアホワイト以下を狙っての表現だったのならば仕方がないので、我々日本人が初歩の段階で真似て良い言葉遣いではない。だが、そうと知って「控えなさい」と教えられる人がどれほどいるのだろうか。尤も、トランプ大統領が最近正式な場で使われた表現では、かかる下層階級向けの言葉遣いは影を潜めていた。「流石は富豪で、Wharton Schoolの出身者だ」と認識出来た。
私は誰も彼もが支配階層の英語を目指して学ぶこともないだろうし、そういう教え方をするべきか否かの議論は一先ず措くが、TOEICだの何のと試験と資格ばかりにとらわれた教え方を考え直して、実際に役に立つような英語を教えられるような人材を野に求める必要もあるのではないかと思っている。私は実際に現場でかなり優れた英語力の持ち主に何人も出会っていた。だが、現行法では彼らには大学以外にで教壇に立つ資格がないとも聞いた。それでも小学校3年からを強行するのかと思うと、一寸気懸かりなのだ。
私のEnglishの表現集ではアクセスが減っていく状態にあるので、この英語教育論がどうなっていくのか大いに関心がある。解って頂けると良いと願っている。
先日、私のブログの読者でもある同じジムの会員がストレッチをやっている私の所に来て「小学校3年から英語教育をなどと言い始めたが如何か」と水を向けてこられた。彼は私のブログの読者である以上、私の年来の主張を承知の上で言っておられたのだ。「お解りでしょうから訊かないで下さい」と答えたが、この文科省だったかの方針は一見(一聴)すると如何にも結構なことのようだが、現在の「科学としての英語」を教えている形を改めずに、それを小学校低学年から押しつけても何の改善にも強化にもならないのは明らかではないか。
私は我が国の外国語教育の至らなさを繰り返して採り上げてきた。そして「英語教育が読解力と要らざる単語の知識だけを高めることを目的としていれば、現在までのところである程度以上目的を達成していただろう」とは言って来た。だが、「我が国のように一般的な勉強(学問)の水準が高く、あらゆる分野に渡って国語で学ぶことが出来る態勢が整っている国で、万人の英語力を高める必要があるのか」とも主張してきた。
更に、英語を高い水準までものにする必要がある者たちが、それを本気で追求していけば良いのである。そういう人たちはとは海外に出ても自らの目指すところを追い求めようとする研究者や学者の方や、海外で仕事をしようと志す若者や、私(たち)のようにアメリカ乃至は外国の会社で彼らの一員として懸命に働こうとする者たちが十分に意思の疎通を図れる段階を目指すか、“native speaker”並な所を目標として学べば良いことで、現在の我が国で高い英語力を身につけても、それを何処で活かそうにもそういう場は何処にでもここにでも転がってはいないのだ。
私は何度か述べてきたが、1945年4月に旧制中学の1年生になるまでは、敵性語の英語などは見たことも聞いたこともなかった。そこから(13歳から)出発して十分に間に合った。上智大学で同級の惜しくも20歳代で亡くなった横須賀出身のK君の素晴らしい英語だけではない学力には圧倒されたが、彼のその時点で既に“native speaker”だった英語力も、中学入学後から学び始めたものだったと聞いて安心もしたし、打ちのめされた気分にもさせられた。
中学の頃に病を得て卒業できずに専検(現在の大学受験資格試験)で入ってきて自信たっぷりだったF君も「自信を失った」と嘆いたほどK君の優れた英語力だった。私の強調したい点は勉強法さえ適切であれば、13歳というか中学入学の年齢から始めて十分に間に合うという点だ。また、私は大学1~2年の時に偶然のご縁で中学1年の男児を英語だけとの条件で所謂家庭教師を務めたが、その子は高校を卒業するまで英語だけは「オール5」を取っていた。また某商社では2年目の若手の個人指導を依頼され2年足らずでその課で一番の英語の使い手になってくれた。
では、彼らに何をどのように教えたかと言えば、上記のK君も同じだった中学1年程度の教科書の繰り返しての音読、それも暗記できるまでの音読、次いでは意味が分かるようになるまでの音読、そして暗唱の繰り返しだった。単語帳などは一切作らず、意味が分からない言葉に出会えばその都度辞書を見て覚え、絶対に書き込みはしない、英文和訳はせずに英語のままで意味を覚え、商社の若手には「こういう場合はこう言えば良いのかと記憶するように」と「自分が言いたいことを日本語で思い浮かべてそれを訳すような真似をすることなく、覚えているこれはと思う表現でしゃべって見よ」だった。
何だ、それだけでは成功例が少ないではないかと言う反論の如きものには何度か出会った。こちらから言ったことは「それでは我が国の学校教育の英語での成功例はどのくらいあったのですか」だった。また、「私が唱える英語の勉強法で教えられる教師などいない。偏った理想論では」とも批判されたが、それも育て損なった方々のご意見として承っておくことにした。
また、我が国の英語教育で気になることがある。それは無闇矢鱈に“native speaker”を有り難がることだ。私の英語をフランス文学のTK博士がいみじくも「支配階層の英語」と喝破されたが、普通に我が国で暮らしていれば仮令アメリカ人でもそういう階層の人たちの言葉に直に接する機会はそう滅多にない。即ち、余程気を付けていないと「何処の馬の骨かも解らない英語圏の国の者を、それが下層の出身であっても、有り難く押し戴くような結果になりはしないか」ということ。そういう聞き分けが出来る人がどれほどいるのかという問題である。
私はトランプ大統領が選挙キャンペーン中に“I’m gonna ~.”であるとか、“I wanna ~.”のような表現を濫用されることを非難した「上品ではない」と。それが彼の支持層である所謂プーアホワイト以下を狙っての表現だったのならば仕方がないので、我々日本人が初歩の段階で真似て良い言葉遣いではない。だが、そうと知って「控えなさい」と教えられる人がどれほどいるのだろうか。尤も、トランプ大統領が最近正式な場で使われた表現では、かかる下層階級向けの言葉遣いは影を潜めていた。「流石は富豪で、Wharton Schoolの出身者だ」と認識出来た。
私は誰も彼もが支配階層の英語を目指して学ぶこともないだろうし、そういう教え方をするべきか否かの議論は一先ず措くが、TOEICだの何のと試験と資格ばかりにとらわれた教え方を考え直して、実際に役に立つような英語を教えられるような人材を野に求める必要もあるのではないかと思っている。私は実際に現場でかなり優れた英語力の持ち主に何人も出会っていた。だが、現行法では彼らには大学以外にで教壇に立つ資格がないとも聞いた。それでも小学校3年からを強行するのかと思うと、一寸気懸かりなのだ。
私のEnglishの表現集ではアクセスが減っていく状態にあるので、この英語教育論がどうなっていくのか大いに関心がある。解って頂けると良いと願っている。