新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2月21日 その2 大坂なおみさんは本物だ:

2021-02-21 16:56:27 | コラム
Real McCoyになっていた:

昨20日の夕方には何気なくNHKにチャンネルを合わせたら、大坂なおみさんがオーストラリア・オープンの決勝戦でアメリカのジェニファー・ブレイデイーと試合をしているところに出会った。中継があるとは知らなかったので、第1セットの確か3:3の所から2セットを取って優勝するまでを、少しだけ手に汗を握って見てしまった。恐らく彼女の試合をあれほど長く見たのは初めてだったと思う。立派に成長していた。感心した。まさしく本物(一寸気取った言い方がReal McCoyなのだ)になっていたと実感させられた。

いきなり全く予断だが、Bradyという名字は、我が国の時間で去る8日に中継されたアメリカNFLのスーパーボウルを制覇したタンパベイバッカニアーズのQBトム・ブレイディーと同じだったのも偶然とは言え興味を惹かれた。因みに、トム・ブレイディは43歳にして、スーパーボウルの7度目の制覇を成し遂げた名手である。

実は何を隠そう、私は大坂なおみさんがUSオープンとオーストラリア・オープンを取った頃(記憶は不確かだが、一昨年の事か?)には、全くと言って良いほど評価しておらず、「あの勝ちは出会い頭の出来事であり、故野村克也氏が言う「不思議な勝ちあり」の部類だ」としか見ていなかった。理由は「如何に外国人の血を引いていて抜群の資質があるとは言え、技術的にも精神的にも未熟であり、単に力任せで打っているに過ぎないので、あの優勝は真の実力で勝ち取ったものではない」のようにしか見ていなかったのだった。

その後、彼女はコーチを取っ替え引き換えしていた為か、折角の日系人としては類い希なる素質を活かしきれずに、世界のランキングも寧ろ乱高下していた。そこに、アメリかでは昨年からCOVID-19に襲われて練習環境も整っていないとか聞かされていたので、もしかして伸び悩むか調整不十分かと危惧していた。私はテニスのような個人競技の事は全くと言っても良いほど解らないので、確かなコーチに恵まれないとどうなるかは予想が出来なかった。

オーストラリア・オープンでは、ニュースにあった限り一時ラケットを地べたに叩きつける場面が出たので、未だに精神的な面(何故にこの事を形容詞である「メンタル」などと言うのだろう。“mental”は「精神の」という意味の形容詞であって、名詞の前に使うべきなのだ)が未熟なのかと気になっていたが、この決勝戦ではそういう面を見せる事なく安定していた。その基礎の上に、あの180 cmもあるという恵まれた体格で、あれほどまでに体幹と筋力を鍛え上げて出てきたのでは、陳腐な言い方をすれば「鬼に金棒」かと思わずにはいられなかった。

大坂さんのテニスを見ていると、確かにサービスのスピードなどには目覚ましいものがあるとは思って見ていた。たが、アナウンサーが「ダウンザライン」と叫ぶショットなどを見ていると、相手の動きを見て、巧みに且つ見事に裏を取ってしまうショットなどは「上手い。素晴らしい技巧派である」と唸らせられた。私は高校の頃だったかに「テニスがあらゆるスポーツの中で最も難しく、脚でボールを扱うサッカーは難しさの点では2番手だ」と活かされて悔しい思いをしたが、彼女のテニスはその難しさを徐々に自分ものにして、凄いと言いたいほど駆け引きが優れていた。

大坂なおみさんのテニスはもう世界最高の域に入ったというか、少なくともそこの正門を通過して、本館の玄関へ道を歩いていると評価して良いと思うに至った、見事な勝ち方だった。だが、個人競技であり、コートがオーストラリアのようなハードコートとやらの他に、芝生と赤土があるそうだから、彼女もより一層精神面を鍛え上げて、安定した精神状態で「練習と同じ気持ちで大試合の臨めるようになれば、世界に敵無しというような年が近い将来出てくると、十分に期待できる。だが、私には個人競技の難しさと恐ろしさが、今後彼女にどのように迫ってくるかは予測できない。

最後にカタカナ語排斥論者としては試合開催の都市の“Melbourne”を「メルボルン」とするカタカナ表記にはウンザリだった。何で業者どもは“r”に出会うと「ル」と表記したがるのだろう。あれは「メルバーン」でしかあり得ないのに。こんな事を言っても無駄だと知っていても、言っておかないと気が済まないのだ。因果なものだ。


私が内側から見てきたアメリカ

2021-02-21 11:38:29 | コラム
MBAとは:

言う前もなく「経営学修士」と訳されているのですが、我が国では余り知られていない「経営管理修士」という教育機関であるとか病院等の管理運営を担当する分野を研究された課程もあるのだそうです。

正直に告白して、私は1975年にウエアーハウザーに転進して、初めて「MBAとは」と「ビジネススクール(大学院)という存在」を知ったほどこの面には疎かったのです。同時に、そもそもMBAとは如何なるものかを学んだ次第です。その当時のウエアーハウザーの東京オフィスにはPh.D.とMBAの日本人と日系人がいて、彼らから大いに仕事も英語も教えられて「なるほど」と思った程度に、このアメリカの教育制度を勉強させられたのでした。それと共に、アメリカの大手企業にあっては、如何にMBAという学歴、それも有名私立大学のそれが有利かも知り得たのでした。

当時に私が所属した事業部の本部には州立大学出身のMBAでかなり有能な若手のウオルトがいて、私も直ぐに親しくなりました。ある時彼が私を食事に誘って不満をぶちまけました。それは、ある日突然彼の上司に、かの有名なるスタンフォード大学で彼と同年齢のMBAのトムが入って来たのだそうです。彼の怒りは「俺は親に資力がなくて州立大学のビジネススクールにしか行けなかった。だが、トムは親が裕福だったので大して能力もないのにスタンフォードに行けたので、俺の上司に君臨した。遺憾千万だ」というものでした。

この私立大学と州立大学との間の格差は今でも厳然として存在し、寧ろ開く一方でもあるようです。即ち、Ivy League等の私立大学の授業料以外も含めた年間の学費は1,000万円を遙かに超えて1,500万円にも迫っているのです。世間一般での州立大学の扱いについては既に述べましたが、この学費の負担は余程資産家であるか裕福な家庭でないと負担しきれないと聞いております。尤も、我が国でも人気が高い州立のカリフォルニア大学は州の財政が破綻したので、今や私立大学並みに授業料になっているとかですが。

経済的な面はこれくらいにして、学問の点では如何なるものかにも触れておきます。私が1970年代後半に知り得たビジネススクールでは、専ら「ケーススタディ」で教育されているようでした。ではその“case study”とは何かと言えば、検索してみると

「ケーススタディ(case study)とはどんな意味なのでしょうか。小学館の『精選版 日本国語大辞典』辞典では「現実に起こった具体的事例を分析、検討し、その積み重ねによって帰納的に一般的な原理、法則を引き出す研究法。事例研究。個別調査」と定義されていました。

これだけでは不十分でしょうが、私は1980年代だったと記憶しますが、ウエアーハウザーの日本担当の駐在の副社長が社員教育に熱心で、ハーバード大学のビジネススクールと提携していると聞いた慶応大学の大学院からアメリカ人の教授を招聘して、社員を2日間だったかホテルに缶詰にして「ケーススタディ」を学ばせられた事がありました。その内容は確かに小学館の辞典にあった通りでした。だが、我々百戦錬磨の即戦力として雇われた者どにとっては退屈でした。

理由は簡単でした。確かに実際にあった「ケース」を採り上げて「此れ此れ然々の場合には如何にして局面を打開すべきか」との討論(discussion)をしよう」という形式でした。だが、我々40歳を超えた者たちに取っては討論するも何も、結論というか先が見えてしまって、ほとんど全員がいきなり答えを出してしまったのです。アメリカ人の教授は困惑して「先を読まないで下さい。討論しましょう」とまで言い出す始末でした。ここでは「ケーススタディ」が無意味だと言うのではなく、受講者の経験と年齢次第では有効ではないかも知れないという事です。

では、現在のアメリカの企業社会においてはMBAは如何なる地位にあるか、あるいは存在であるかを考えて見ます。私は1994年1月にリタイアした後で、改めてアメリカの大学について学ぶようになりました。そこで解ってきた事は「アメリカのある程度以上の規模の会社において生存競争を勝ち抜く為の資格というか能力の基準には『MBA』である事」となってきたという厳然たる事実でした。それも後述する私立・州立の有名大学で取得したMBAでなければとなったようです。

尤も、私が1975年にウエアーハウザーに転進した頃でも、経営上の主要な地位にある者は先ずMBAかPh.D.でした。中央研究所の技術者等はPh.D.が掃いて捨てたくなるほどいました。現在ではその学位所有者は経営を担う者たちばかりではなく、実務担当者の中にも圧倒的に多くなったという意味です。

ここまでを振り返ってお気付きかと思いますが、有名大学で2年かけてMBAを取得するまでに投資する学費は、俗な言い方をすれば「半端ではない」のです。という事は、これまでに繰り返して指摘した事で「アメリカ(のビジネスの)世界を支配している者たちは、それこそ一握りの裕福である資産家か、大手企業の副社長程度以上の地位にある者の子弟であり、尚且つ頭脳極めて明晰である者たちに限定されてしまうのではないか」なのです。勿論、奨学金や学生ローンなどはありますが、そう簡単にその恩恵に浴する事が出来るようでもないようです。

余り長くなるので、これ以上は次回に致しますが、ここでアメリカでのビジネススクールの評価で上位に入っている大学を紹介しておきます。これには色々な調査があるようですが、皆著名な私立大学ばかりですが、一校だけ州立のカリフォルニア大学バークレー校が入っています。以下の評価では、同率1位でスタンフォード大学とペンシルベイニア大学、3位にはノースウエスタン大学、4位にシカゴ大学、5位にMIT、6位が意外にもハーバード大学、7位がUCバークレー校となっていました。


2月20日 その2 近頃一寸気になった事

2021-02-20 17:39:51 | コラム
兎角この世はやり難い:

菅首相の表情:

何処かのニュースショーだったかで菅義偉氏が官房長官だった頃の絵が出た。その表情の明るさと現在の「内閣総理大臣」としての重さと暗さと沈み込んだ状態との落差に、あらためて驚かされた。私はこれまでにも何度か「その人物が高い地位に就くと何時の間にかそれに相応しい顔付きになってくるものだ」と指摘してきた。そして、後難を恐れて言えば「菅首相は中々総理大臣としての顔に変わってきていない」と見ていた。

私は菅義偉氏が総理大臣に就任されると知った時から「現在の我が国が置かれている難しい状況は、誰が就任しても簡単に良い方向に一気に持って行けるとは思えない。敢えて火中の栗を拾いに出られたからには、それ相当の覚悟があっての事だろう」と思っていた。ところが、事態は一向に改善されず、対コロナウイルス制圧策にしても苦難の道を歩んでおられるようだし、ワクチンにしても河野太郎氏を敢えて担当に任命せざるを得ないほど、西村康稔大臣も田村憲久厚労大臣の動きにはご不満だったようだ。そこにあろうことか森氏の舌禍事件への対応も批判される始末だった。

私もそろそろ菅首相の批判的な事を言い出そうかと考えるようになってきていた。だが、あの官房長官時代の現在とは比較にならないほど明るい表情を見て「菅首相が如何に苦心惨憺しておられるのか」と感じ取ったのだった。敢えてこの時期に名乗りを上げて飛び込んでこられたのだろうから、官房長官時代の表情に戻す為には、国会議員の大臣たちを頼りにされるのではなく「自助」で道を切り開かれる事を旨とされたら如何だろうか。

ドナルド・トランプ氏のように公衆の面前で踊ってみせるような明るさを菅氏に求めようとは思わないが、せめて表情だけでも明るくして頂きたいものだと思った次第。

橋本聖子新組織委員会長:
以下はは飽くまでも運動選手というか、元はと言えば一流の選手たちに見られる傾向を論じているのだとお断りしておく。私は「元運動選手の端くれ」として言うのだが「世間は元の大選手や名手が、その競技種目以外の分野においても有能だろうとは限らない。故に元有名選手だった方々を協会の主要な役員に起用して成功しなかった例が多い」と指摘して、世間乃至はマスコミに誤解があると指摘して来た。その分野で長い年月訓練を続け研鑽を積んできた間に、実社会の風に当たる機会が少なかったのではないかと危惧していると意味。実務の世界に触れる事がなかったのではと危惧しているのだ。

橋本聖子さんは既に野党から「国会議員を辞職せずに会長の職を遂行して、果たして議員としての職務を果たせるのか。IOCが唱える中立性を守れるのか」と批判されて自民党は離党した。ところが、追及の手は会長の手当200万円/月を得れば、歳費との二重取りだとも言われ出した。野党は言いたい事を言って責めてくるのは当たり前だが、橋本さんの動きは後手後手である恨みが残る。「政界の父」と仰ぐ森喜朗氏の後継者であるのだから、会長として如何にあるべきかの指導をお願いしてあったのかと言いたくなってしまう。「だから、選手上がりは」と言われないように振る舞って欲しい。

景気診断:
がらりと話題を変えよう。私は高齢者らしく朝の目覚めは早く、通常は4時過ぎには着替えてニュースを見ている。そして、勤め人だった頃に時計替わりに聞いていた習慣でテレ朝の「グッドモーニング」を流している。そこには、近頃気になっているテレビコマーシャルが幾つかあるのだ。そのスポンサー様たちは「この程度も商品をこうまで頻繁にCMを流せるほど利益が上がるものなのだろうか。この会社はそこまでの余裕があるのだろうか」と奇異に感じている。それらの会社は和服の買い取り業者だったり、シャワーで水を霧状に出せるヘッドのメーカーだったりするのだ。

それらの会社以外にも多くの法律事務所が「無料で過払い金を取り戻す相談に無料で乗ります」と、かなり派手なCMを打っているのも「そう言う時代か」と思って眺めてきた。だが、偶々居合わせた息子に「どういう事か」と語りかけてみれば「そんな事が解らないのか。簡単な事だ。景気はウイルスの感染が止まらない事もあって悪化したので、スポンサー様を中々確保できないのだ。その結果として、早朝の広告代が比較的安い時間帯にあのようなスポンサーを発掘したのだろう。要するに景気の問題だ」と解説してくれた。


森喜朗氏の発言についてのアメリカの知人からの反応

2021-02-20 09:01:33 | コラム
先ず男性からの反応を:

実は、森氏の発言の切り取られた部分だけを訳していて気が付いた事があった。それは、英語にする為には原文を慎重に理解しようとするので、読み進めて訳している間に「これは駄目だ。アメリカ人には批判されるだろう」と感じ始めていた。ここから先は言い訳である。先週と今週は大病院での定期検査と診察の予約が輻輳した上に、家内の安全保障上一寸重要な案件があって、ウイルス感染の危険を冒してでも外出が多く、今や何となく面倒だな感じるようになった英文和訳にまで手と気が回らなかった次第なのだ。「今頃訳したのか」と叱られたらお詫びします。

>引用開始
穏やかだった反応から;
私の地元(ワシントン州)ではこの森氏の失言の件は報道されてない。私は女性蔑視については、未だにアメリカでも日本でも十分に理解が行き届いていないと言えると思う。

女性が創立した会社等では少数の女性が経営に直接携わる地位に就いている例は確かにある。だが、それも未だに例外的だと思う。その場合でも女性の年俸は、同様な地位にある男性よりも低いようである。私は未だ我が国でもこの問題点を声高に批判している者たちがいるとは承知していない。

結論的に言えば、アメリカでもそういう状態なので、日本での森氏の発言に対して怒りが渦巻いていると言うのは、余り良く理解できないのだ。

次は冷静で分析的な見方を:
私は当地で(オレゴン州)この発言について聞き及んでいる。マスコミの報道は「森氏が女性の発言は多過ぎるし長過ぎると言われた」となっていた。貴方の訳文にもそれと同様な事を意味する箇所があったようだ。

私は(日本の状況については語れないが)アメリカの現状は「如何なる発言でも他の如何なる集団との相違点に触れていると認識された場合には『政治的公正性乃至は妥当性を欠く』(politically incorrect)と看做される。

それ故に「女性が男性とは何らかの異なる行動乃至は言動をした」などと発言すれば、一切容赦されないのだ。私は男性の一人として女性の経験は容易に理解できていないので、森氏の発言が如何に丁寧に翻訳されていても、女性がこれを読んでどのように反応するかは解りかねる。

しかし、森氏が女性を蔑視する意図ではなく発言されたとしても、地雷を踏んでしまったのだと言えるだろう。現在はこの点では非常に微妙な時期になっているので、私は一般大衆を牽引するような地位に就いていなくて良かったと思っている。権力者の全ての発言は細部まで検討されてしまうのだから。

このような傾向は何もアメリカだけに限られている訳でもあるまいと思う。だから、日本の報道機関は森氏の発言も「待ってました」とばかりに採り上げて(過剰に)報道したのではないか。
<引用終わる


2月19日 その2 森喜朗氏の後継者が橋本聖子さんに決定

2021-02-19 13:51:05 | コラム
東京オリンピックパラリンピック組織委員会の新会長が決定した:

この際、私としての偽らざる感想を述べていこうと思う。予めお断りしておくが「否定論」ではない。飽くまでも感想である。

何も期待しない:
何故こういうことを言うのかと言えば「前任者とは余りにも異なる生い立ちの新会長に過大なる期待を抱いてしまえば、もしも何か上手く行かなかった時の失望感が必要以上に大きくなる危険性が高い」のである。そこで、何かを希望的観測で期待するよりも「何も期待せず」というのか「組織委員会なる存在が何を仕上げていくのかを良く把握できていない以上、期待しようがない」のが、正直なところなのである。私はそもそもオリンピックが7月に延期されていても、無事に開催できるのかと本気で疑っていると言うか、開催されている絵が「閃いてきていない」状態にあるのだ。

私には元はと言えばスピードスケートと自転車の選手だった選手の方が、7回もオリンピックに出ておられた事と5,000人という大きな組織の上に立って国家的な行事を推進する指導能力が同じ次元にあるとは思えない。ズバリと言えば「個人種目の優れた選手としての能力と、大組織を管理し運営して行く能力が同じ次元にあるのだろうか」という率直な考え方である。それをオリンピアンだったとかアスリートだったからと混同して良いのかなという、単純な疑問である。要するに「橋本聖子さんに管理職と指揮官としての能力に期待するのは、現時点では時期尚早では」という意味。

女性を評価すれば:
今回は橋本聖子さんを会長に選んだ為に、オリンピックパラリンピック担当大臣が丸川珠代議員になり、主催都市の知事がかの演技派の小池百合子さんとなって、見事な女性が中心に立ってオリンピックパラリンピックの開催を牽引していく態勢が整った。菅首相が望まれた「女性を」が実現したのだった。私は素直に言って「女性の能力の見せ場であり、男女同一かそれ以上の能力を世界にも見せつける場面が出来た」と見ている。その意味では「期待したい」のである。成功させて欲しいのである。

私はこれまでに何度も「アメリカにおける女性の地位と実力」を経験から語って来た。ここにあらためて詳細を述べるのは避けるが、間違いない事として言うのは「(男性とても同じだが)女性には組織と人の上に立って指導し、指揮し、統率し、管理していく仕事に向いている型と、補助役として(ぼんくらな)男性のボスの至らなさを見抜いて、その欠点か補って、2人で一体となって実績を挙げられるように仕向けていく秘書型に大別できると思っている。別な言い方をすれば「財布を握って家計を賄っていく主婦型の能力が男性にあるのか」とでもなるだろうか。

上に立つ者(男性でも女性でも)が配下にある女性の適性を素早く間違いなく見抜いて、どの型の仕事に就けるかを決められないと、お互いに不幸な結果を招いてしまうのである。一例を挙げておこう。我が事業部のカストマーサービスという受注・生産・出荷・輸送・在庫管理等の重要な業務を担当していた女性は、当初は4大新卒の派遣社員で副社長秘書として入ってきた。ところが1年も経たないうちに「自分は秘書には不向きだ」と自発的に言い出して、カストマーサービス担当の女性と仕事を交換して、2人とも目覚ましく成長したのだった。

この点では、素質を見抜いて交換を許した副社長も慧眼だったという事になる。この教訓は上司が部下の素質を見抜く事も肝腎だが、各自が「自分が如何なる仕事に向いているかなどを勝手に決めて良いのか」という事でもあるのだ。どの仕事がその人に適しているかなどは、やらせてみなければ解らないのだ。だが、非常に難しい点は「その部員に不向きかとも見える仕事でも、現実にやらせてみれば、期待以上にこなしてしまう事だって間々ある事」なのだ。私が言いたい事は「菅首相の選択が正解であって欲しい」という点なのだ。結果は後6ヶ月で出るだろう。

別な視点に行こう。女性の方が男どもよりも勤勉でありよく勉強する優秀な人が多いという例を挙げてみよう。かの青山学院大学では女子学生が難関の入試を突破して全体の60%に達しているそうだ。また、我が母校の上智大学では文学部英文学科では、入試の成績だけで入学させると、全部が女子になってしまうのだと聞いた記憶がある。真面目に勤勉に勉強する女子学生の方が優秀なのだと証明されていると聞いた。

何だ、個人競技種目の元選手ばかりだ:
率直に言えば、団体競技出身の私には余り素直に納得できない人員構成だった。と言うのは、組織委員会の理事の方々の経歴と後任会長選考委員会の方々の偏りである。後者では荒木田さんだけがヴァレーボールの元選手だった。理事の方々には、確かオリンピックで3位入賞以上の実績があったサッカー、野球、男子ヴァレーボールの元選手は不在で、水泳、陸上、スピードスケート等々の個人種目の人ばかり。我々団体競技では、我が国では殊更に「チームワーク」が強調されているが、正直なところ、個人種目の方はどうなっているのかなと、考え込まされた。

不肖私も大学の頃には関東大学リーグ4部(当時の組織だが)の超弱小テイームのキャプテンを命じられて、試合の際に11人集まらない事すらあるテイームを纏めて引っ張っていくのに苦心したものだった。そんな経験でも、会社組織の一員となってからは物の考え方が解っていたので、少しは参考になった。橋本さんはスピードスケートにしても自転車にしても団体競技ではなかった。その経験と協会の役員とは違うのだろうし、国会議員だって団体種目ではないように思える。「アスリートだ」と持ち上げるのには疑問を感じている。「だから川淵さんは」などとは言っていないよ。

私はこれまでに繰り返して「マスコミが囃し立てすぎると碌な結果が出てこない」と、彼らの付和雷同的な報道振りを批判し来た。それが、今回の「オリンピック出場7回の名選手でアスリートのご出身」と太鼓を叩きまくっている。一つも組織の長としての問題点があるかも知れないとは指摘せず、選手団長として高橋大輔にキスを強要したと、週刊文春の記事の引用だけだ。私は彼らのこの程度の低さの方が、大きな問題だと思って心配している。