新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

良い時代になったものだ!?

2021-05-22 14:32:39 | コラム
現金でのお支払いは出来ません:

一昨日のことになってしまったが、通院の帰りに新大久保駅前でバスを降りて、週刊誌でも買って帰ろうかと後ろを振り向くと、1年ほど前に新装なった(奇妙なカタカナ語にすれば「リニュウアルオープンされた」とでもなるか)駅舎の中に、今度は売店が開設されたのが見えた。てっきり従前の売店かと思って近付けば、見出しのような掲示がされていたのだった。「ヤレヤレ」と思って中も見ずに引き返したのだった。確認はしなかったが店員さんはいないようだった。

恐らくスイカであるとかパスモの類いをスマートフォンに落とし込むか、所謂電子マネー式のものでお支払いをと言う方式で、人件費も節約になっているのだろう。当方はパスモは持っているが、憎き新型コロナウイルスの流行以来、殆どJRにも私鉄にも乗らないので、チャージはしていないのだ。スイカも持っているが、パスモばかり使っている間に無効になってしまったので「最寄りの駅である新宿か高田馬場のみどりの窓口で再度手続きをして有効にして下さい」と言われてしまった。という事は、新大久保駅には売店は出来たが、みどりの窓口はないという事らしい。

以前から「時代はスマートフォンによる包囲網が縦横無尽に張り巡らされ始めて、旧式の(誰が言い出したかも知らない「ガラパゴス携帯」などと言う下卑た名称は採らない)二つ折りの携帯電話の所有者にとっては、誠に意地が悪い時代になったものだ」と言ってきた。そのうちに、間違いなく「ワクチン接種証明書」か「パスポート」の類いは、スマートフォンに装備されるようになるだろう。と同時に「こうすることによって、貴重な天然資源を消耗する紙類も節約できる」と謳って。

言いたくはあるが、これも「ほぼ間違いなく見当違いの世迷い言だ」と敢えて言っておこう。世間では屡々「我が国は資源小国」などと卑下する傾向が見られるのも遺憾だ。我らが紙パルプの原料になる針葉樹や広葉樹は、確かに我が国には潤沢にあるとは言えない。故に、当方が在職中にはウッドチップも製紙用パルプも、特に針葉樹ものは、大いに輸入に依存していた。我がW社などはその我が国向けの輸出の巨頭だった。言いたい事は「我が国で消費されている紙・板紙類の原料は、アメリカを始めとする海外の森林資源に依存していたのだ」という事。

ここから先は解りやすくするために極端な表現を用いるが「我が国で環境問題論者が貴重だと指摘する紙・板紙類の節約は、何の事はない海外の余所の國の森林資源を節約しているのと同じではないのか」と言うこと。現在では多くの製紙会社は海外に自社林を開発して、そこからのウッドチップ類を持ち込んでおられるのだ。勿論、北海道その他の広葉樹林を自社で育成して原料にされることも続いている。

かく申す私は恥ずかしながら、W社の自社林や製材所やウッドチップを造る現場を見たことはあるが、我が国の森林地を訪れたことがないほど、一般人には縁がない業種だと思う。紙類の消費を節約すると言われる方々は、何処まで現場と我が国の製紙会社の現場を見ておられるのかと思ってしまう。一度でも良いから、ワシントン州とオレゴン州に行って、600万エーカー(1エーカーは約1,200坪)というW社の森林を見てくるが良い。何度も指摘したが、ヘリコプターで1時間ほども社有林に上を飛んでいたのだった。

新大久保駅の売店のことを語ろうと思って書き始めたのだったが、ついつい永年の鬱憤を晴らそうという気になってしまって、筆ではなかった、指が滑ってしまった。同じ日に馴染みの薬局でスコッテイの太巻きにした8本入りのトイレットペーパーの狙いは「これにより、包装に使うフィルムと巻メート数を増やす代わりに紙管を細くして紙が節約できるのだ」と解説された。

結構なことだと思うが、それによって節約されるプラスティックと紙の量はどれほどかと思わずにはいられなかった。でも、環境を保護して地球温暖化を防止する大義名分の前には、当方は世迷い言を言っているに過ぎないと反省しきりだった。つい先日も、世界の新聞用紙の需要の衰退振りを採り上げたが、世間様は何処まで紙類を虐げられる、失礼「節約される」でした、ご意向なのかとやるせない気分になった。


朝乃山の不行跡に思う事

2021-05-22 09:29:51 | コラム
相撲と言う興行の世界も変化すべき時代なのか:

私は50年以上もの間「相撲という世界はスポーツに分類されるべきではない。何となれば、相撲は江戸時代から我が国の歴史と伝統に輝く興行であるからだ。更に言えば、我々一般人が暮らす世界とは異なる文化(ある集団乃至は団体の言語・風速・習慣等を言う)の下にあるのだから、我々が彼らの規範や行動に介入しても無意味だ」と主張してきた。だが、この趣致うについては、遺憾ながら21世紀の今日に至るも賛同者は極めて極めて希であると思う。

即ち、NHKなどは未だにニュースの時間でスポーツを採り上げる際に先ず相撲から入っていく。私は「相撲ニュース」という枠を設けるべしと唱えてきた。彼らの部屋や茶屋の制度と全国を本場所を含めて地方を幟を立てて巡業している様子であるとか、稽古と称する練習やその基本技を見ていれば、ウエイトトレーニングや食事との科学的な練習方法と訓練とでも訳したいトレーニングによって運動選手(近頃はこの言葉は死語と化したようでアスリートに取って代わられた)を養成する本来の「スポーツ」の在り方とは余りに違い過ぎる。

それでも、相撲協会は世間の荒波に揉まれ始め、以前は協会にベッタリだったマスコミも批判的な記事を書き始めた時代の変化に合わせて、色々と改革めいた行動を取るようにはなってきた。要するに、何処までも歴史と伝統を守っての興行の道を進み続けるのではなく、多少世論にも迎合するように変化したのだ。だが、私が常に批判してきた各種の競技に見られるように、組織を経験したことがない元の名選手ばかりで構成された協会が統治能力不足を曝したと同様に、元関取ばかりの相撲協会にもその能力の欠如は明らかだった。

言い方を変えれば「現在の相撲協会には過去の歴史と伝統を守り抜いて、世間様が何を仰ろうと我が道を行く」という頑なな姿勢が少しずつ薄れ始めたのだった。だが、かと言って横綱になればどれほど負けようと休場を続けようと罰則がないという規定を変えきれずに、白鵬を放置した儘という不合理な制度を頑固に維持している。

そこに何とか言う力士の夜遊びがあって、番付の遙か下位に落として見せたばかりの時に「将来の横綱」と期待されているような朝乃山のキャバクラ通いを、週刊文春にすっぱ抜かれてしまった。私に言わせれば「文藝春秋社は相撲界が一般社会の常識に従って運営されているのではない異文化の世界だと承知していても、話題性と週刊誌の売れ行きが伸びることを目指したのだ」のではないかと推測している。別な言い方をすれば、異文化の世界の出来事だから看過すべき案件だったにも拘わらず、余計なちょっかいを出したのである。

相撲協会にも最早「我々の世界の内部の出来事だ。余計な内政干渉は止めろ」と言うだけの気力もなく、朝乃山を休場させてしまった。私には断定できないが、姑息的な対応だったと思えてならない。もしかすると、直ちに彼を出席させる記者会見でも開いて「悪う御座いました。この馬鹿者は即刻大関から(例えば)十両に落としますし、本人も十分に反省しておりますから、ここまででご勘弁を」と世間様にお詫びすれば、事は穏便に終わったかも知れないのだ。

そこで朝乃山である。私は滅多に相撲の中継放映は見ていないが、夕方6時前の一般のニュースが余りこれという話題を取り上げていない時間帯だけ見ている。彼は近頃非常に増えてきた大卒の力士だ。言ってみれば、それなりの社会人としての常識は備わっているべきではないかと思う。だが、彼は平幕(と言うのか)で優勝して地位が上がってくるのに伴って、顔付きがドンドン傲慢になってきた。

言うなれば思い上がってきたと見えたのだった。そこにあの世間の常識から見れば「怪しからん」とされる現在の時短の時期の夜遊びだ。相撲の力量もテレビタレント的でもある舞の海に「是正すべき欠陥ばかりで基本が・・・」と酷評されていた。

長々と述べてきたが、結論を言えば「相撲界は未だに彼ら独自の文化に固執し、世間の常識に迎合しているかのように振る舞ってみせるときもあるが、この度の朝乃山が見せてしまったように、実態というか中身は未だ未だ変わってはいないのだ」なのである。

彼らはそう遠くない時期に「頑なに我が道を行く方針」を貫くか、「近頃流行りの社外役員を入れる会社が増えたように、協会の役員にも一般社会の人を多数派にして、稽古場にもウエイトトレーニング室を設け、トレーナーを採用し、管理栄養士を入れて食事を改革し、体重100 kg以下の筋肉質の力士しか認めないといったような二択を考えるべき」かも知れない時が来たのかも知れない。だが、近代化された相撲を誰が拍手喝采するのだろうか。でも、マスコミはそう言っているのに等しい論調ではないのかな。


新宿区内にはワクチンの供給が潤沢になってきたようで

2021-05-21 11:50:12 | コラム
「漸くか」という感は免れないが:

本日は午前と午後に、それぞれ異なる病院で予約があるという過密スケジュールだ。09:15という朝一番の予約は、国立国際医療研究センター(NCGM)の泌尿器科だった。NCGMには「当病院では一般のワクチン接種は行っていません」との掲示があった。また、先頃は循環器科の主治医の先生に伺ったところでは「NCGMはウイルス感染者の中等乃至は重症の患者のみを受け入れておられても満床である」そうだった。

10時過ぎに我が家の直ぐ近所の調剤薬局で店長の薬剤師さんに聞くと「新宿区内でも漸くワクチンの供給が潤沢になってきたようで、矢張り直ぐそこの東京山手メデイカルセンターでも予約を受けて頂けるようになった」そうだった。事実、昨日の夕方には休診日であったはずの掛かりつけのクリニックのS医師から「新宿区の予約が取れているか」との問い合わせの電話を頂いた。趣旨は「未だだったら、こちらで受ける」との有り難いお言葉だった。どうやら事態が少し変わってきたようだと、初めて認識できた。菅首相には申し訳ない言い方になるが、“Better late than never.”である。

午後は東京山手メデイカルセンター(TYMC)で14時30分からの予約があるので、現在は束の間の休憩中である。その間に何とかして自らに課している「ブログの課毎日更新」を果たしているところだ。TYMCの後には再度調剤薬局に出向かねばならないという課題も残っている。これほど動き回るのは年老いたる体には過剰な負担かも知れないが、2日間で4回もバスを利用できたので、シルバーパスへの投資を幾らかでも消化できたという点が喜ばしいのだ。

くどいようですが

2021-05-20 14:13:13 | コラム
カタカナ語のローマ字読みの問題点:

しつこいと言われそうだが、問題点を見逃すことは出来ないのだ。それがローマ字読みだ。

今回は、アメリカの下院議長でバイデン大統領の民主党の重鎮であるMs. Nancy P. D. Pelosiの名字の表記について。Pelosiと言ってもピンとこないかも知れないが、昨日辺り報道された「北京で開催される冬のオリンピックを外交的にボイコットを」と提案された方である。その提案が通るか通らないかは別として、私が気に入らないのがPelosiを「ペロシ」とペロッとして報道する我が国のマスメディアの無神経振りだ。他人様の、しかもアメリカの下院議長の名字の表記を間違えて良いのかと言うこと。あの方は「ペローシさん」なのだ。

まさか、そうとは知らない罪なき我が国の同胞がアメリカに行かれて、ワシントンDCを訪れて、国会議事堂でPelosi議長に拝謁して「ハロー、ペロシさん」と呼びかけるとは思わないが、この「ペロシ」という表記には、怒る前に情けなくなった。報道機関はワシントンDCに駐在を置いているだろうが、これくらいのことが解らないのかと言いたい。

こういうローマ字読みのおかしな表記に、スイスの時計のRolexを「ロレックス」としている例がある。これなどはブランド名であるから未だ罪がないが、あれは断固「ローレックス」である。ロレックスは明らかなローマ字読みだ。余計なことだが、住宅会社でPOLUSとの社名があるが、これは「ポーラス」と読むべきで「ポラス」はあり得ないのだ。

ここまでで気が付いた方がおられれば結構なことなのだが、英語にはイタリア語にも似たアクセントの置き方の規則のようなものがある。断るまでもないことだが、英語という言語にはある程度「規則」があるが、現実には「不規則の方が規則よりも圧倒的に多い動詞」のような例があると、予め予防線を張っておこう。ここでは「アクセントの置き方の規則」である。それは「一つの単語に複数の母音(音節でも良いか)がある場合に、アクセントが来るのは終わりから二つ目の母音である」という事。

これに照らしてみれば、「ペロシ」も「ロレックス」も「ポラス」もあり得ないとなるのだ。しかし、予め伏線を張って置いたように、例外が数多くあるのが英語だから、何でも複音節の単語に出会われたらならば、直ちに辞書を引いて頂きたい。私は永年英語の世界にいたので、アクセントを何処に置くかなどと迷ってはいられなかったので、経験で鍛えて「勘」に頼るようにしていたが、それが上手く当たるようになって行ったのだった。部内では、私が只一人だけnative speakerではなかったので、誤りがあれば誰かが直してくれるという利点もあった。

ローマ字読みの件だった。あらためて強調しておきたいことは「それが貴方様にとってどれだけ役に立つことかどうか知らないが、違和感を覚えるカタカナ表記に出会ったか、どうしても英単語をカタカナ表記にしたい場合には、一呼吸置いてから英和辞典を引いて発音記号を確認されること」だ。これなどはそれほど「インポッシブル」な作業ではないと思う次第だ。アメリカにも英連邦王国にも「ハラデイー」はあっても「ホリデー」はないと解るはずだから。


ローマ字読みされたカタカナ語

2021-05-19 10:02:18 | コラム
我が国の英語におけるローマ字の功罪:

ほんの昨日“job”を「ジョブ」と表記することに嫌悪感を示したばかりだ。このような本当の英語、と言うかどちらかと言えば、未だにアメリカン・イングリッシュよりも崇め奉られている感が濃厚なQueen’s Englishでも、この単語はカタカナ表記すれば「ジャブ」以外はあり得ないのだ。私は何の意義があってこれを「ジョブ」とするのかと憤っているのだ。

私はこのような発音とカタカナ表記になってしまう最大の原因はローマ字にあると、固く信じている。いきなり功罪の「罪」の方を取り上げてしまったが、私はヘボン式(Hepburnがどうして「ヘボン」になったのだろう。オードリー・ヘボンと何故表記しなかったのだろう」)か文部省式か知らないが、この表記の仕方を導入してあったことが、我が国の児童や生徒たちに早い時点でアルファベットに馴染ませておいた功績は十分に評価して良いと思っている。言うまでもないが「功」の部分である。

だが、このローマ字式読み方が余りにも広く深く浸透してしまったために、元の英語の発音とかけ離れたと言うか、不正確な表記も遍く行き渡ってしまった、私が経験してきた限りでは、その我が国独得のローマ字式発音でも諸外国でも十分に通用していたのだったが、私は以下に採り上げるような不正確な発音と表記は、決して是認する気にはなれないのだ。特にテレビ局は何処の何方に命じられたのか知らないが、このローマ字式の発音と表記に執着しているのは如何なものかと思っている。尤も、そうなっている原因は、学校教育の英語の至らなさにもあると思えるのだが。

そこで、ここに思いつくままに、英連邦王国のOxford辞典とも異なるカタカナ表記になっている例を挙げて行こうと思う。という事は、基準はOxfordの発音記号である。

“aluminum”:
この表記は「アルミニューム」だが、これは「アルミナム」なのだ。序でに採り上げておけば、symposiumは「シンポジューム」ではなくて「シンポウジアム」なのだ。何故か“u”を「ユー」としてしまったのはローマ字読みではないが、敢えて採り上げてみた。

“body”:
これは断じて「ボディ」とは発音しない。「バデイ」である。故に「ボデイブロー」は「バデイブロー」であり、そういう英語の表現はない「ボデイチェック」は「バデイチェック」となるべきだった。正しくは“body search”か“security check”なのだが、ここには「セキュリティー」は嘘で、正しくは「セキュアラテイー」という問題まで派生するのだ。

“casual”:
これは「キャジュアル」なのだが、何故か「カジュアル」になってしまっている。1996年の秋に初めてラジオに出るようになった頃に、放送開始の事前の打ち合わせで「キャジュアル」と言ったところ、キャスターさんに「カジュアルではありませんか」と指摘された。それでcasualが「カジュアル」だったと知り得たのだった。

“Gary”:
これもローマ字読みから外れるかも知れないが、「ゲーリー」ではなくて「ゲアリー」とすべきだと思う。“a”という字も曲者で、先ず素直にローマ字式に「ア」とは発音されないことをお忘れなく。

“holiday”:
これは「ホリデー」が既に戸籍を得て全国区だが、「ハラデイー」が最も英語の発音に近くなると思う。アメリカに行けばそら中にあるホテルは「ハラデイー・イン」であって、「ホリデー・イン」ではない。だが、そう言っても通じるからご安心を。

“impossible”:
トム・クルーズだったかが主演の「ミッション・インポッシブル」という映画がある。余りの事に泣きたくなった。“impossible”は「インパサブル」が最も英語に近い表記だ。どう発音しようと勝手だが、英語を母国語とする者たちに「日本では何を教えているのか」と思われはしないだろうが、せめて「インポシブル」くらいに止めておいて欲しかった。

“NATO”:
「ナトー」が遍く普及しているが、我が国以外では「ネイトー」が一般的だ。同様にNaomi Osakaは「ネイオミ・オサーカ」になっている。

“oasis”:
英語圏の國には「オアシス」は存在せず、「オエイシス」があるのだ。ここで採り上げておくと、ゴルフの青木功氏(Isao Aoki)は「エイオキ」なのだ。

“patriot”:
ここまで来れば、言うまでもなく誤ったカタカナ表記だと解って頂けるかも知れない。「パトリオット」ではなくて「ペイトリアット」が最も原語に近いのだ。「愛国者」になるのも面倒なものだと思っている。

“ultra”:
これは少し面倒かと思う。“u”の字を素直に「ウ」と読んだのだろうと思うが、この字も「ウ」とはならない例が多いのだ。“summer”を「スマー」と読む人はいないだろうし、“consultant”は「コンスルタント」ではないのだ。1966年頃のことだったそうだが「ウルトラマン」という子供向きの漫画(テレビドラマ?)が大当たりしていた。私は何の気にもとめていなかった。

だが、1978年だったかにシカゴのオヘア空港で思いがけない勉強をした。それは、その中の通路をウルトラマンの仮装をした子供が歩いていた。それを見た別の子供がウルトラマンを指さして「アルトラマン!」と叫んだのだった。それを聞いて、私は初めてあれが“ultra man”だったと知り得たのだった。

“vinyl”:
「塩化ビニル」なのだが、この言葉は「ビニール」となって、完全にほぼ全部のプラスティックス製品の代名詞となってしまった。PEもPVCもPVDCもPETも全て「ビニール」で括られてしまった。その結果、本家本元の「ヴァイニル」はすっかり忘れ去れてしまった。例えば「ビニール傘」などは典型的かも知れない。当初は本当に塩化ビニルが使われていたそうだが、今ではEVA(ethylene‐vinyl acetate copolymer)に取って代わられてしまっている。