新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

2023年1月の新宿区の人口

2023-02-25 07:36:15 | コラム
23年1月の新宿区の人口は346,222人となり、対前月比△0.01%だった:

今年1月の新宿区の人口は、昨年の12月に続いて僅かながら57名の減少となっていた。つい先日ある機関が調査した「都内の住みたいところ」では、我が新宿区は5番目に入っていたにも拘わらずである。毎月のように外国人の増減がどうなっているかを見れば、ここでは前月から一転して55人の増加となり、40,334人と4万人の大台を維持していた。これは区全体の人口の11.6%であり、昨年の12月と同じ比率だった。日本人は前月と同様で112人の減少で305,888人となっていた。「住みたい」と言うのは外国人なのかな。

当方はまだまだCOVIDの感染を恐れてあまり新宿区内といえども出歩いていないが、ここ百人町/大久保界隈にも「インバウンド」の好影響?がちらほら見えてきて、数名のアジア系の人たちのグループがガラガラとトローリーケースを引きずって移動しているのに出会う頻度が高くなっていた。何処からやってくるのか知らないイスラム教徒のためのハラルフードを売る店も「またここにも出てきたか」と感じさせるように新規に開店している。

今月は通院もあって大久保通りのKorea townを横目に何度か往復した。そこに見えた光景はと言えば、多数の婦女子たちが昼前から彼女たちの口に合うようになっていると風の便りに聞く韓国料理店の前で行列を作っている姿である。同様に韓国産の化粧品店も買い物客でごった返している。彼女たちの眼中には「元朝鮮半島から応募してきた工員問題」も「竹島問題」もないのが良く分かって、何とも言えない気分にさせられるのは私だけだろうか。

我が家と新大久保駅とを結ぶ路地(「文化通り」となっているが)に最後に出店してきたKebabのスタンドは最も繁盛しているケバブ屋のようで、Uber Eatsがの自転車が頻繁に訪れている。私がこのスタンドの特徴は「ケバブサンド」と言いたかったのだろう看板にアルファベットで”KEBAB SANDO”となっていることなのだ。敢えて解説を試みれば、英語のsandwichはカタカナ語で「サンド」となることが多いので、あのスタンドのトルコ人は無邪気に「SANDO」としたのだろう。尤も、こう言って楽しんでいるのはカタカナ語排斥論者の私だけかもしれないが。

兎に角、この新大久保駅前の文化通りは無意味に国際化が進んでしまっているのだから、ご用とお急ぎでない方は是非一度山手線を利用しておいで願いたいものだと思うのだ。「国際化」などというものの虚しさを味わっていただけると思うから。


環境問題に関する残念な誤解

2023-02-24 06:37:37 | コラム
井伊重之氏はお分かりではないようだ:

週刊新潮3月2日号での佐藤優氏の対談で、産経新聞論説副委員長の井伊重之氏は佐藤優氏の「エネルギーミックスで電力の安定供給を図れ」と題した対談で、「一時期、話題となったバイオマスはどうですか」との質問に下記のように答えておられた。

「日本が進めているウッドチップを海外から輸入して燃やす方式ですが、価格の高騰と円安でペイしなくなっています。そもそも海外のチップを輸入して発電するのが再エネかという問題があります。」のように。

これに対して佐藤優氏は「森林を伐採するわけですからね」と言い、井伊氏はさらに「制度上ではそれでもよいことになっていますが、地球温暖化の防止にはならないでしょう」と言うのだった。

20年近い間アメリカ最大の森林地600万エーカー(1エーカーは約1,200坪)を所有していたウエアーハウザーで対日輸出を担当していた私に言わせれば「今頃になって、何とも悲しく情けない誤認識」なのである。お断りしておくが、私は紙パルプ部門の所属で林産物担当ではなかったが、森林管理の原則くらいは心得ている。

それは、現在では「森林認証制」が実行されていて、環境保護のために、この制度で認証された樹木しか製紙用その他に伐採して原材料等に使うことができないようになっていることだし、盗伐や乱伐は防止されているのだ。

ちなみに、ウエアーハウザーではどのように森林を管理して製材し、紙パルプの原材料にしてきたかを振り返っておこう。それは「自社の種苗園で育てた苗木を自社林に植樹して、伐採してもよい大きさに成長するまで(ベイマツは50年)は厳重に管理して育てていた」のだ。しかも、50年後に伐採してもよい区域に分けて管理してある。

その50年後に伐採した立木を伐採して山から下ろし、製材所で皮をむき製材品にする。四角形に製材する過程で外側の三日月型になった部分はチップにしてパル製紙の原料に活用し、切り落とした枝や樹皮は間引きした立木や風倒木等とまとめて工場内の発電所での燃料にしていた。

この方式をウエアーハウザーでは”maneged forest”すなわち、「森林管理」と呼んでいた。ウッドバイオマスもこれと同じことで、無計画に立木を伐採するのではない。また確認しておくと、すべての樹木が製紙に適した繊維でできているわけではないのだ。

ウエアーハウザーの主力の樹種であるベイマツは針葉樹であり、我が国に多い落葉樹は広葉樹であり、その繊維は針葉樹と比べれば強度が不足しており、製紙に最適ではないのだ。

我が国では紙の強度を上げるためには針葉樹の森林が豊富である、北アメリカのカナダとアメリカ合衆国からのウッドチップとパルプの輸入に依存するようになっているのだ。製紙用に東南アジアの熱帯雨林の樹木を伐採して持ち込むようなことはしていないのだ。そもそも熱帯雨林の繊維は製紙には不向きなのだ。

東南アジアではその熱帯雨林を焼き畑農法で燃やしていたのであり、パルプや紙にするためではないのだが、往々にしてその焼き払った跡地を見た有識者が「製紙会社の悪行の跡」のように慨嘆して見せられたので、紙パルプ産業があたかも環境を破壊しているかのように誤解されて指弾されていたのだ。

このよう誤った認識というか理解を正そうと、日本製紙連合会は懸命に広報活動を続けているし、私も及ばすながら繰り返して「紙パルプ産業がどのように誤解されているか」を訴えてきた。

それにも拘わらず、21世紀の今日にあって、著名なジャーナリストと有識者が上記のような議論を有力な週刊誌である週刊新潮で展開しておられた。これでは、森林産業と紙パルプ産業界のあり方をご存知ではない方々は「それではウッドバイオマスは宜しくないのか」と信じてしまわれるのではないかと危惧するのだ。

ウエアーハウザーは2000年に法人化した企業で、それ以来自社林を管理して環境保護論者が騒ぎ立てる前から「環境を保護」して来ていた。また、上記のように自社林で育成してから伐採して樹木は無駄なく使い切っていたのだ。

ウッドバイオマス燃料に使われているチップも関連する団体が経済産業省と連携してきちんと管理して、東南アジアの諸国から輸入する仕組みができあがっている。敢えて言えば、井伊重之氏も佐藤優氏も認識不足だったのではないか。

週刊新潮の読者の方々や多くの一般の方々が誤解されないようにと願って、ここに 述べておく次第だ。

私のカタカナ語論

2023-02-23 08:48:02 | コラム
カタカナ語排斥論者のカタカナ語論:

先ず敢えて申し上げて置きたいことがある。それは「カタカナ語論に興味か関心をお持ちの方は是非ご一読を」ということなのである。

つい先日、ある方に「近日中にカタカナ語論を纏めます」と申し上げてしまった。だが、いざ纏めるとなればかなりな超長編になってしまいそうで、どのように処理すべきかに悩んでいた。そこで昨夜床についてから漸く考えが纏まって、長くなるのを覚悟で連作にすることでご理解願おうと決めたのだった。

カタカナ語が日本語を変えてしまうのではないか:
1990年の春頃から業界の専門誌にエッセー風の連載を開始した頃には「カタカナ語を話の中に混ぜて英語の単語をそのまま使う人を見かけるが、その人物は如何に知性と教養があるかをひけらかしているだけのキザな存在ではないか」のように表現していた。

その頃の記憶を辿っても、当時頻繁に出てきた英語の単語が「ドラスティック」(=drastic)しか出てこないのだ。「徹底的に」か「思い切って」と言いたいときに使われていたと思う。だが、不思議なことにアメリカ人の中にいて、そう言いたくてdrasticを使われたのを聞いたことがなかったが、dramaticは聞いた記憶がある。思うに「言いたいことを強調する為に、英語の単語をカタカナ式発音にして使ったのだろう」と解釈していた。

だが、現在のカタカナ語は強調する為だけに使われているのではなく、日本語を構成する重要な要素である漢字の熟語か成句の代わりに使って、如何なる事態か等を雄弁に語らせているようになっているのだ。これだけでは意味不明だろうから、具体的な例を挙げてみよう。

「クリヤー」:
これはほんの一例だが、先ほどテレビのニュースで「~することで、課題をクリヤーした」と説明していた。この「クリヤー」は大変便利というか重宝に使われていて「飛び越す」や「~を達成する」や「取り除く」と言いたいときに使われているようだ。“clear“を動詞で使えば、その通りの意味があるので誤りだとまでは言えない。

だが、「クリヤー」の代わりに「課題を達成出来た」か「問題となる点を排除した」とすると、漢字ばかりで固いというか難しい感じを与えるので、一言「クリヤー」で済ませるようにしたのではないだろうか。もしかすると、カタカナ語製造業者は「現代人にはこのような小難しい表現は理解されないかも知れないと無駄な配慮をして、カタカナ語で代用したのではないかと、私は本気で疑っている。しかも、カタカナ語にする方が格好も良いのだ、彼らの考えでは。

英語のclearをジーニアス英和とOxfordの辞書で見れば、両方とも形容詞としてのクリヤーが先に延々と出てきて、動詞の方が後だ。Oxfordでは「求められていないか必要がないものをその場から取り除く」と出ている。「~に触れずに跳び越える」は16番目に出ているが、「達成する」は見当たらなかった。要するに、日本語になっていて、英語の単語の転用ではないようなのだ。

「イメージ」:
これも漢字の熟語か成句を使って置き換えると冗長なフレーズになってしまいそうな使われ方がされていると思う。私は何度か「イメージ」ではなく普通の日本語に置き換えようと試みたが(「チャレンジした」とでも言えば良いか)、かなり長たらしい文章にしないと説明にならないので諦めたのだった。

例えば「~と言えば、こういう風にイメージできる」のような表現で通用するだろうが「カタカナ語はダメよ」とばかりに漢字の熟語などを使って説明しよう思えば「~はこのような事態か現象だろうと思い浮かべてみれば」のようになってしまうのではないか。また「どうなるかイメージできなかった」は「どのようになるか想像出来なかったか、想定は不可能だった」となってしまうので、理屈っぽい感が出てくるのではないか。

Oxfordには「ある人物か組織か製品等が公(オオヤケ)に与える印象」と真っ先に出てくるが、ジーニアスでは「印象」と「表現」が出ているので、こちらから取ってカタカナ語にしたのだろうが、Oxfordの詳細な表現を「イメージ」だけで表せるようにしたのだから、上手いものだと感心させられる。最早日本語の一部となったカタカナ語であり、英語の単語であるimageとは別物だと認識しておく方が無難ではないか。

「チャレンジ」、「サポート」、「コンパクト」:
この他にも数多く同類があると思うが、何れも英語の単語本来の意味を表している場合もあるが、多くは「そういう意味でも使われている」表現をカタカナ語化しているのだ。例えば「チャレンジ」をジーニアス英和で見れば「人が陳述、資格などを問題にする、疑う、異議を唱える」が出てくるので、近頃野球でもフットボールでも使われ出した「チャレンジ」即ち「判定に異議を唱える」事であり、「挑戦」はカタカナ語のような一義的な意味ではないようなのだ。

今回の結び:
という次第で、長い説明文か文節になりそうな日本語での表現を避けて、何となく座りも英語を良く知っていそうな感を与えそうで格好も良さそうなカタカナ語を使う傾向が顕著になってきたのだと、私は考えている。そこには、上記のように英語の単語の意味を都合が良いように切り取って使う流れも見えている。

後難を恐れずに言えば「単語偏重の英語教育の欠陥である、単語の意味だけを知っても、文章の流れの中での使い方が解っていない」が悲しくも現れているのだ。即ち、学校教育における英語の教え方を根本から変えない限り、今後ともカタカナ語は乱造され、日本語(漢字)の熟語や成句を置き換えていく流れは止まるまいと思う。

だが、何度でも同じ事を言うが「最早日本語の一部として定着してしまったのだから、それらカタカナ語をどのように使おうともご随意に」なのである。さらに「でも困った現象だ」という気持ちは変わらない。


2月22日 その2 温故知新とはなり得なかったようで

2023-02-22 08:02:22 | コラム
財界四天王って何の事:

先週末に取り上げたこの去りし昭和の「財界四天王」の件は怖れていた通りの結果でブログでは見事に滑ったようで、アクセスは伸びなかった。それはそうだと思う、何分にも半世紀以上もの昔の話なのだから。

そこでという訳でもなく、70歳代と60歳代の元は会社勤めの方に「財界四天王」のことを伺って見た。矢張り「知らなかった」と言われてしまった。どうやら残念ながら「温故知新」への貢献すらできていなかったようだった。

私としては別に誇りに思っている訳でもないが、入社2年目頃の若手の末尾の社員の頃に、水野成夫社長には2度もエレベーターを乗り合わせたし、社内の理髪室で運悪く鉢合わせになって「何だ。青白い若いのがいるな」と声をかけられたこともあった。緊張で声も出なかった記憶がある。

ここで訂正しておきたいことがある。それは、先日の四天王からは岩佐凱実氏ではなくて、日本開発銀行総裁だった小林中氏(コバヤシアタルと読む)にすることだ。Wikipediaではこうなっているが、私の記憶では「水野、岩佐、長野、桜田」の4社長か、「水野氏、小林氏、長野氏、桜田氏」とする説があったとなっているのだが前者を採っていた。

私の記憶の根拠は、3社長・1頭取で、「紙パルプ」、「金融」、「製鉄」、「紡績」が当時の日本経済を牽引していたと感じ取っていたことにある。尤も、水野さんは国策から産経新聞の経営に転じていかれ、言論界でも活躍されたのだった。

と、このように語っても、矢張り高齢者の回顧談になってしまうのか。今日の財界から四天王に擬せられる実力者を挙げるとしたら何方と言うか、どの業種からになるだろう。


マスクの着用を継続するかかどうかの判断

2023-02-22 07:20:04 | コラム
3月からは個人の判断に任せるのか:

政府(厚生労働省)が屋外ではマスクを着用せずとも良いと発表されたと認識している。また、国内の航空会社は「飛行中の機内では乗客個人の判断に任せると」と決めたと報じられていた。在職中はマスクとは寧ろ冬の防寒具としては優れていると思っていた私は、屋外だろうと何処だろうと、この鬱陶しいマスクをせずに済ませるのだったら大歓迎だと思っている。

そこで、昨日は国立国際医療研究センター病院(NCGM)循環器内科での60日置の定期診断の際に、主治医である医長先生に「私のような場合にはマスクはどうすれば良いでしょうか」と伺って見た。私はNCGMが新型コロナウイルス対策の総本山のような病院だと認識しているので、担当は違うがこの分野にも明るい先生にお尋ねした次第だ。

先生の指示は「貴方の場合には矢張りマスクをしておられた方が良いのです。肝腎なことは未だ日頃の行動範囲を逸脱しないように安全第一にすることです」だった。即ち、私は何とか無事に切り抜けては来ているが、昨日の検査でもBNPの数値は200という慢性心不全の状態にあるのだから、常に感染しないように万全の注意を怠らないことなのである。

新型コロナウイルスの感染が始まった3年前には、半年もすれば終息するかと期待していたが、事はそう簡単には終わらなかった。確か、3年前の後半には「もしかしてこの儘死ぬまでマスク着用から解放されないのではないか」と危惧して見せた記憶がある。

本家本元のはずの中国では、習近平主席の「ゼロ新型コロナウイルス政策」は奏功しなかった。だからと言うか何と言うか、マスクが有効な防御策かどうかは不確定だと思うが、目に見えない敵であるウイルスからの自己防衛策としてもマスク着用からは当分の間解放されないようだと思って、NCGMから退去した。要するに「個人としては自主的に判断せず、医師の指示に従うこと」と決めたのだ。