新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「そういう事とは知らなかった」と嘆いている

2023-02-21 08:09:23 | コラム
知らなかった事:

ブレイキン:
昨日だったか、この日本選手権だったかが開催され、シゲキックスという男性が三連覇したと報じられていた。これはBreakin’とやら綴る競技なのだそうだ。超後期高齢者の私でも、このブレイキンが24年のオリンピックの競技種目に入ったことくらいは承知していた。だが、そうと知ったときには「信じ難いほど嘆かわしいことだ」との思いだった。

嘆かわしいと言うのには訳がある。それは、1990年に15年勤続を表彰された家内と共に本部に行った後のことだった。サンフランシスコの商社の支店を訪問して、ハイヤットリージェンシーホテルに泊まった。仕事から戻ってアメリカは初めてだった家内を案内してホテルの周りを散歩すると、直ぐ裏手の広場に人だかりがあった。何事かと思って近寄ると、アフリカ系の子供が何名かで見たこともなかった曲芸のような踊りを見せていた。

その子供たちを取り囲む輪の真ん中には帽子が上向きに置かれており、観衆がその中に某かの金を入れる方式だった。「あれは何か」と観衆に尋ねると、確か“break dance“と教えられたと記憶する。頭だけを支点にして回転してみせる技は驚異的だった。私の解釈は「なるほど、アフリカ系の子供たちはあのような曲芸を、収入源にしているのか」であり、彼らのような階層の者たち特有の芸だとばかり思い込んでいた。

だから、オリンピックの競技種目に採用と聞いた時には「何かの間違いではないのか」とすら感じさせられた。その曲芸は何時の間にか我が国にも導入され広まったようだとは承知していた。そして「三連覇」の強者がいると知って尚更感心させられた。シゲキックスなる若者はオリンピック代表になるのかな、などと思いながらテレビのニュースを見ていた。

所が、Wikipediaによれば、この踊りは1980年代にニューヨークで流行り始めていたとあった。自らの不明を恥じた。その名称もbreakin’ではなくbreakdancingだとあった。それが何故「ブレイキン」に変化したのかなと思わせられた。ここで何か批判めいたことを言うよりも、個人種目には強い我が国の選手(「アスリート」何て言いたくない)たちが、オリンピックで優勝してくれれば、それで十分だ。

松本零士氏逝く:
昨日からこの偉大(だったのだそうだ)アニメの巨匠が亡くなったと悼む声がずっと聞こえている。私は自慢ではないが、アニメーションなるものの世界に全く疎いので、松本氏が「宇宙戦艦ヤマト2202」や「銀河鉄道」の作者だったと、この度初めて確認出来た次第だ。

私の世代ではアニメーションというのか「映画化された漫画」が人気を得た頃には会社の為に懸命に働くことが至上命令の如くだったので、デイズニーも手塚治虫にも気が回っていなかった。言い訳めいたことを言えば、その頃はそれこそ命を賭けてアメリカ製品の対日輸出に日夜精を出していたので、映画などに時間を割ける精神的な余裕などは出てこなかった。

今回、松本氏が亡くなったと報じられて、その業績が回顧されると「なるほど、アニメーションが普及してあれほど広まると、それが世の中の価値の一つの基準になっているらしいな」と学べたのだった。亀戸だったかには漫画の主人公の胸像があると屡々報じられていたし、松本氏が描かれた主人公の像も何処かの街にあり、住民の誇りにもなっていたという現実にも、驚く前に「それが現代の流れだったのか」と知り得たのだった。

言うなれば、我ながら何時の間にか「価値の基準の変化」を知らぬ時代遅れになっていたのだった。これ即ち、「長生きも辛いぜ」と少し感じさせられた「巨匠逝く」だった。大体からして「matsumotoreiji」と入力したら「松本零士」に変換されていた。


私が気にする事柄

2023-02-20 07:38:35 | コラム
私がつい気になってしまうこと:

DPRKのICBM発射:
家内がこのニュースを見ていてポソッと一言「日本がH3ロケット打ち上げに何度も失敗していたのに、北朝鮮はICBMをあんな移動式の台から打ち上げていた。もしかして、こういう技術では北朝鮮の方が上なのかしら」と。私には否定しようもなかった。我が国では打ち上げ成功に期待して種子島にあれほどの人が見ようと押し寄せていた。

失敗したとプロジェクトマネージャが記者会見で涙を流しておられた。心中察するに余りある。来月10日までの再打ち上げ予定日の前までに原因を究明すると語っていた。三菱重工のジェット機撤退と言い何と言い、気分が滅入ってしまう出来事が続いている。何とか「技術の日本」を再現させて貰いたいものだ。

アルコール消毒:
今朝も4時に起床して直ちに手を洗った。手を洗いながら考えた。私は病院で診断されたアルコールにかぶれる体質(酒を飲むときつい反応が出るので飲まない)なので、アルコール以外で消毒してから注射をされる。だから、何処に行っても入場前の手をアルコールで消毒するのを避けている。それでも、未だCOVIDには感染していない。ある医師は「アルコールで細菌は殺せるが、ウイルスまでとは思っていない」と言われた。

因みに、東京山手メデイカルセンターでは入り口の係の女性にその旨訴えて出ると、アルコール性ではない消毒薬をスプレーして貰える。国立国際医療研究センター病院ではスプレーは自動式の器機になっているので、素通りすることにしている。

私が朝ジムに出掛ける時刻にバス停で見かける光景では、幼稚園バスに乗る園児たちの手に、バスから降りて誘導する係の女性(保育士?)が消毒のアルコールを吹きかけている。私のようにかぶれる園児はいないのかと気になるが、その前にウイルスは何も手だけに付いているのではないのではないかと考えている。園児の安全を期するのならば、衣服全体にかける必要があるのかなと疑問に思って眺めているのだが・・・。

パンダとの別れに涙する:
上野動物園のシャンシャンとやらが延期してきた中国送還を控えて、最後の展示に多くの熱心なパンダファンが押しかけたというニュースが連日流れている。中には別れを惜しんで涙を流している女性の画まで出てきた。それほどにパンダは我が国では多くの人に愛されて、中国の「パンダ外交」の成果が挙がっているのだと痛感させられた。

パンダは中国語では「熊猫」とされているので、英語にはこれをそのまま訳して“bear cat“となっている。だが、英辞郎によれば、これと我が国に来ているパンダとは別物で、giant pandaというとあった。何れでも良い事ではないかとは思う。因みに、私はまでパンダを見る機会に恵まれていない。動物園に行くのは好きなのだが、最後に行ったのは小田原城公園内のそれで、それも20年ほど前のことだった。

BGM:
これを流す効果があるのかと永年疑問に思ってきた。ただ今もビル・エバンスのピアノソロだけを集めた“Easy to love”というCDを流して、エバンスの初期の傑作“Peace piece“を楽しんでいる。何方だったか「こういう作業中に音楽を流すと、かえって神経が集中出来ないとの説があるが、それは誤りで周囲の音から遮断される効果があって集中の度合いが高まる」と書いておられたが、その通りではないかと思っている。

事実、「ピース・ピース」が流れてきても「来たな」と感じる程度に集中できていて、気が付けば次の曲になっていたほど集中していて指も頭も回転していたのだった。矢張り、BGMを流しておくことは集中度が高くなる効果があると思っている。明朝は矢張り大の好みであるショパンの「英雄ポロネーズ」にしようか。


最近一寸気になったこと

2023-02-19 07:31:07 | コラム
LGBTQ問題他:

LGBTQの他に重要案件があるのでは:
荒井前秘書官のオフレコ舌禍事件(?)以降、野党もマスコミも自民党内でも、この問題というべきなのか案件なのか判断出来ないが、非常に重要な事案になっているようだ。私はこの問題に疎いので、Qが追加されたことすら知らなかった時代遅れである。岸田総理も慎重に発言しておられた事が示すようにこれは適時に適正に処理しなければならないことだとは十分に解る。

だが、私には現今の内外に問題山積の我が国からすれば、他にも喫緊の課題があるように思えてならなかった。事実、有本香氏は「憲法改正を優先すべきだろう」と夕刊紙で論じておられたそうだ。私には生活に密着する重要な問題として、電気料金等の物価上昇を如何にして抑えていくかの方を優先して頂きたい気がしてならないのだが、岸田総理がそうとはお考えでなかったら困るのだが。

マスコミとWBCの野球:
目先をグッと見近に寄せていこう。この件ではマスコミは連日連夜の大盛り上がりで、明日にも我が侍ジャパンが優勝しそうに、一般大衆を煽り立てている。私が気懸かりに思う点がこの過剰に思えてならない煽り立てなのだ。何故ならば、私の持論は「マスコミが持ち上げて大騒ぎすると、好ましくない結果が出てくる危険性が高い」のであるからだ。

彼らスポーツマスコミにすれば、サッカーのW杯で我が国代表の意外な(失礼)な大健闘で彼らは大いに盛り上げる材料を得て興奮していた。暫く人々を興奮させる材料がなかったところに、満を持して栗山監督が登場され、MLBからDarvishや大谷翔平や鈴木誠也等を参加させて史上最強の布陣を作り上げたのだから、WBC制覇が絶好の材料になったのだ。敢えて言うが、私は「騒ぎ過ぎもほどほどにしたら」だと危惧している。

Spy balloon:
中国は本当に面白い国だと思わせられてしまった。彼らは仮令地球がなくなってしまうおうと「我が方が悪う御座いました。落ち度を認めてお詫びます」などとは言わない人たちの集まりだと、私は見ている。だから、バイデン大統領が風船の撃ち落としを命令すると怒り狂って見せた上で「過去にアメリカが中国に向けて風船を飛ばしていたではないか」とまで言い募ったのだった。

「そうですか、アメリカもやっていたのですか」と惑わせられた人もいたかも知れない。一寸考えれば解ることで、アジアからは(で良いだろう)偏西風が吹いていて、気球のような物を高く上げれば偏西風に乗って太平洋を渡ってアメリカ大陸の方に飛んで行くのだ。これは、戦時中に我が国からアメリカに風船爆弾を飛ばし事からも明らかなのだ。我が国からアメリカ西海岸のシアトルまでは8時間で飛べるが、帰路は10時間以上を要するのだ。

また英語の講釈かと言われることを覚悟で言えば、私はそのシアトル往復の機内で機長が「向かい風」を“head wind”「追い風」を“tail wind“と言っているのを聞いて勉強ができたのだった。

という事は、アメリカからは仮令西海岸からでも、中国の方向に風船を飛ばすことは不可能なのである。中国の要人たちがこれくらいの常識を備えていないことはないだろう。そうであっても、彼らは自国の非を認めようとはせずに、他国を堂々と非難してみせるのだ。我が国も穏やかなので、誰一人として「中国はあんな与太話を」と批判しなかった。紳士的に過ぎると思うのは私だけか。言うべき事は言わねばなるまい。


1955年(昭和30年)のことだった

2023-02-18 08:22:41 | コラム
財界四天王の一人水野成夫氏が経営する会社に就職した:

2023年の現在に「財界四天王」なといって、覚えておられる方がどれほどおられるかと危惧する。順序不同でいえば国策パル工業社長の水野成夫氏(東大卒で共産党員から転向)、日清紡績社長・桜田武氏、富士銀行頭取・岩佐凱実氏、富士製鉄社長・長野重雄氏だった。今でも当時の社名が残っているのは日清紡績だけだろう。

私はその水野氏が経営する国策パルプのグループ企業で商事部門の日比谷商事に採用されたのだった。国策は水野氏が同じく共産党からの転向者だった南喜一氏と起こした大日本再生製紙と宮島清治郎氏の国策パルプと合併させて誕生した会社だった。水野氏は国策パルプの販売部門の会社にと、旧三井物産が解体された後で紙業課の有志が起こした三洋産業を買収して「日比谷商事」としたのだった。

国策パルプのグループ企業には他には専売公社(当時)に煙草の巻紙(ライスペーパー)の納入する公社公認のメーカー三島製紙(現日本製紙パピリア)、セメント用のクラフト紙袋加工製造の千代田紙業があった。お気付きの方もおられると有り難いが、皆社名に地名を冠してあるのが特徴だ。

国策パルプはそもそも戦後にはレーヨンパルプを主として生産する会社だったので、今では死語かも知れないレーヨンパルプ生産の「パルプ6社」の一社だった。念の為、6社の他の5社は興国人絹パルプ、山陽パルプ(現日本製紙)、日本パルプ(現王子製紙)、東北パルプ(十條製紙→日本製紙)、北越製紙(現北越コーポレーション)となっていた。

「レーヨンパルプ」(DP)は木材のパルプをヴィスコース法で溶かして繊維状にして木綿の代用にする人造絹糸(ステープルファイバー、略して「スフ」)を生産する為のパルプだった。戦後は絹も木綿も不足していたので、レーヨンパルプから「スフ」を製造して代用にしていたのだった。だが、その需要が時代と共に減少したので、6社は競って製紙に進出して行った。国策パルプもその販売部門の強化に日比谷商事を設立したのだった。

業界に入って知り得たことは「紙パルプ産業界は戦前の王子製紙が解体させられて誕生した王子製紙工業、十條製紙、本州製紙の「王子三社」を中心にして回っており、流通分野でも三社の代理店(一次販売店)の中井商店、大同洋紙店、富士洋紙店、大倉洋紙店、博進社、服部紙店、万常紙店、岡本商店等々が洋紙代理店会の有力会員だった。国策パルプはその王子三社中心の世界に後発ながら挑んでいったという形だった。

1955年4月時点の日比谷商事は言わば発展途上にある総勢50人程度の規模だった。だが、旧三井物産の後を引き継いでいたので、管理職には営業部長、総務部長、大阪支店長は旧三井物産の社員で東京商大(現一橋大学)出身者、紙業課長も物産出身で東京外国語大学出身、パルプ課長は東大出身という具合で未だ未だ三井物産色が濃厚だった。

社長は国策パルプ常務取締役の南喜一氏が兼務されていたが、実際に代表取締役専務で指揮を執っておられたのが西村謙三氏(東大卒、旧横浜正金銀行パリ支店長代理)だった。西村氏と当時の国策パルプ専務取締役加藤英夫氏は東大の同期で同じラグビー部の出身者だった。当時の山陽パルプの社長だった商工省出身の難波経一氏も同じく東大のラグビー部だったと漏れ承っていた。また、加藤英夫氏は安田銀行取締役小舟町支店長からの転進者だった。

加藤英夫氏が安田銀行(後の富士銀行で現在のみずほ銀行)から転じてこられたことが示すように、国策パルプは富士銀行の芙蓉グループの一社だった。だからと言うか何と言うか、富士銀行の岩佐頭取のご子息・海蔵氏は国策パルプから後年水野成夫に付いて産経新聞に転進されたし、長野重雄氏の三男重正氏は国策パルプの営業部門におられた。

この国策パルプが後年の業界再編成の大波にのまれたのか、山陽パルプと合併して山陽国策になり、更に十條製紙との合併で日本製紙となっていったのだった。日比谷商事も私がMeadに転進した直後に山陽パルプの系列の販売店だった三洋商事(元は旧三菱商事)と合併して三洋日比谷になり、更に日本製紙グループの販売部門である日本紙通商へと進化していった。

余談になるかと思うが、西村謙三氏の長男・正雄氏は当方と湘南中学以来の同期生だった。西村正雄君は東大から日本興業銀行に就職し、同銀行最後の頭取に就任して、あの第一勧銀と富士銀行との三行合併を成し遂げた人物である。言いたかった事はと言えば、西村君は当方が就職したと同時に言わば社長の息子さんになってしまったのだった。西村君は興銀の頭取とは激職だったようだ、2006年に73歳で亡くなっていた。

以上主に記憶を辿ってきたので、誤りがあればご容赦願いたい。途中で、念の為にWikipediaで水野成夫氏と南喜一氏の写真を見たときには、懐かしさで涙溢れる思いがした。


我が90年の回顧

2023-02-17 08:44:49 | コラム
1951年からを回顧すれば:

上智大学に入学した年だった:
上智を志願するようになった背景は省略するが、お恥ずかしながら「カトリックのイエズス会の大学で、英語の教育が優れている」という程度の予備知識で入学した大学では、驚くようなことばかりに出会っていた。言うなれば「異文化との遭遇」だっただろう。

それは誰か同級生が「幼稚園でもここまでやらないのでは」と形容したほどの規律の厳しさだった。後になって考えれば、二進法の思考体系である一神教のキリスト教の考え方でヨーロッパ人の神父様たちが運営されるのであれば当然だっただけのことなのだが、それはそれは厳格だった。

規則の厳守:
先ずは朝登校するときに制服である学生服を着用し制帽を被っていないと、校門に待ち構えている神父様に学生証を取り上げられ、学務課で当時の50円を納付しないと返して貰えなかった。この学生証取り上げの適用範囲は、学舎の廊下と教室内では禁煙にも適用されていた。必須科目の授業では全員の座席が決められていて、学務課の係員が後部から出欠を記録していた。

出欠席:
出席は全科目で厳しかった。欠席が年間に30%を超えると試験を受ける資格を失うと決められていた。特に1年次では哲学と宗教学が必須だったので、受験資格を失うことは即落第となるのだった。必須ではない科目では出席票を学務課員が回収して回るのだが、この方が強烈で全員の顔と氏名を記憶していたので、インチキなどすると即刻「君のカードが出ていたが、顔は見えなかったね」と欠席に記録されるのだった。

宿題とリポートの期限内の提出:
近年「アメリカの有名私立大学等で膨大な量の宿題や、リポートの提出が求められるので新入生は苦労する」という話が広まっているようだ。一例を挙げれば「何千頁にも及びそうな学術書を渡されて来週までに概要を纏めよか、感想文をリポートとして提出が求められ多いに苦労した」というようなことだ。実は、こんな事は1950年代の上智大学では教授である神父様たちからはごく普通に課されていたことだったのだ。

私も同期生たちも「そんな事が1週間できる訳がない。無茶苦茶だ」と嘆いたものだった。問題はここからで「できる訳がない」と放り出した場合には参加しなかったのだから「零点」の評価となる。だが、不完全であろうと何だろうと、何らかの形で提出すれば最悪でもギリギリの合格点は与えられるのだった。

これなどはヨーロッパ/アメリカ人たちの「二進法の思考体系」の権化のようなことで「参加の意思の有無」が評価の対象になるのだった。この試練を経ていたことは、後年アメリカ人の中に入って非常に役に立った。言い換えれば、会議などに出席して発現しない者は「居ないのも同然の無用な奴」という最低の評価をされるということ。この辺りは明らかな「文化と思考体系の相異」と言えるだろう。

君は欠席が多かった:
当時の上智大学ではアメリカ人で未だ神父に成れていない講師が「英会話」を担当していた。会話の授業なのだから、全員が英語で講師と語り合うのだった。私は大学に入った頃にはごく普通に英語で考えて英語で話す事が出来ていたので、同級生全体の誰よりも良く活発に語ったと自負していたし、成績も良いはずだと信じていた。

所が、学年末に通知表を見れば70点で、自分よりもうんと少なくしか発言していなかった者たちが100点を取っていた。「納得出来ない」とばかりに、その講師の部屋に押しかけて、それこそ“Why?“と猛抗議してみた。彼は平然として採点表を一瞥して「君は欠席が多かったので」の一言。黙って引き下がった。それは、私は家庭の事情もあって受験資格停止に成らない程授業に出ないでアルバイトに精を出していたのだったからだ。

尤も、往年の上智大学では事情を学務課に報告してアルバイト届けの用紙を貰い、勤務先で証明の印鑑を貰って提出すれば30%以上の欠席があっても受験資格を与えるという制度があったのだ。私は三越銀座支店に証明して貰えていたのだった。だが、出席点、平常点、試験、リポート等の広告を合計して割り算をして、当時の合格点である51点を超えれば単位は貰えたのだ。私は単純に出席点が悪くて全体の評価の足を引っ張ったのだった。

君は「規則を遵守します」との宣誓書に記名捺印して入学したではなかったか:
これは強烈だった。ドイツ人の神父様の教授の授業だった。本来そこに座っているべきではない隣の者と密着していた学生に、教授が「離れなさい」と注意された。彼は「教科書を忘れたので見せて貰っています」と弁解した。

教授は「教科書を忘れたとは何事か。私の授業に出る資格はない。直ちに退出しなさい」と厳命。彼は止せば良かったのに「それは厳しすぎませんか」と抗議した。教授は言葉を継いで「教科書を持参して来るのがあるべき姿勢だ。それを守れないのでは退出は当然。君は入学したときに大学の規則を遵守しますと記名捺印したでしょう。それを守れていないのでは退出させられるのは当然だ」と言われた。以上、全部が日本語で、だった。

その同級生は「そう言われるのであれば、たった今ここで大学を辞めます」と言って教室を出て行き、実際に退学してしまった。

この頃の上智大学と、現在の在り方が同じかどうかなどは知らないが、今にして思えば将に「異文化との遭遇」だったよう。

無事に上智大学を卒業出来て就職に至った1955年から先の回顧談は後日に譲ろう。