新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

セントラルリーグの野球を分析してみよう

2023-05-21 08:00:28 | コラム
テレビの中継がセントラルリーグに傾くので:

昨20日もヤクルトが無残にDeNAに負けるところと、体勢を立て直せつつある読売が、弱敵中日を負かすのを一寸だけ見ていた。

阪神タイガース:
目下のところ阪神が首位にいるので、そこから分析してみよう。監督が替わったことが良かったのかどうはリーグ戦が終わるまでは判定できないが、ソフトバンクから大竹耕太郎を何とかドラフトで輸入したことが良い結果を生んでいる。私は大竹がソフトバンクの頃に何度か見たが、育成に落とすほどのガラではないと見ていた、投手の育成に優れたソフトバンクの手から水が漏れたのかな。

阪神はこの他に西勇輝は別として。生きが良い投手が揃っていた上に村上頌樹のような新手の有望株が出現したのだから、投手力は揃った。残すは上本、中野、大山、目覚めの気配がある佐藤輝明に加えて、外人が年俸通りに打ってくれればかなり有望であるが、クローザーをどうするかの課題は残るだろう。

DeNAベイスターズ:
極言すれば、最も先が見にくい質が安定していないというか目が粗い、雑な野球をやっているので困る。宮崎だの佐野だの牧などと優れた打者が揃っている。だが、大洋ホエールズ時代からの伝統で各打者が好き勝手に個人プレーで打っていくので、まとまらないのだ。例えば「そんなところに来た投球を打ってもヒットにならないのに」と見えても「打つと決めていれば振りに行ってしまって凡退」がある。データを活かして考える野球ができていない。

また、「その局面でその方向に引っ張るのか」とか「そのカウントで投手が苦しいときに何故打ちに行くのか」とか「走者の盗塁が明らかに成功しそうなのに何故ボール球に手を出すのか」とか「何でそんな粗雑な走塁をするのか」というような疑問を感じさせる「雑な野球をやって好機を逃すことが多い」のが特徴なのである。格好良く言えば「打線に有機的なつながりがない」のである。だから6連敗だったかになるのだ。

広島カープ:
鈴木誠也が抜ける前に、丸某が金に目がくらんだかジャイアンツに身売りし、田中広輔が凋落してしまった、この状態をMLB帰りの秋山だけでは補い切れていない。投手陣も大瀬良も九里も少し切れ味が鈍り、森下も冴えていないのでは、菊池涼介が如何に上手く守っても勝ちは巡ってこないと思う。「新井新監督、頑張れ」と応援しよう。

読売ジャイアンツ:
原監督が腹を決めて若手を育成し成長させる事に徹するシーズンにしたと割り切っていたのならば、夏を過ぎるまでに侮れないティー、ムに成長しているかも知れない。だが、中田翔の復帰、坂本と丸と梶谷の復調等に賭けているのだったら、多くは望めまい。投手陣でも戸郷にはWBC疲れの気配があるし、新外国人が頼りでは危険ではないか。菅野は何をしているのだろう。いなくても同じだという時代か。

ヤクルトスワローズ:
すでに、今季向けの補強が不十分だと指摘してあった。何時までも小川と石川が投手陣の主力では仕方がないと言ってあった。他の連中が昨季から進歩の跡が見えない。打つ方では昨年末に既に神通力が不足していた村上がWBCで一層自信を失ったのか、バッテイングが崩れてしまったまま。

私には「右肩が入りすぎた構え方と、昨季はバットがもう少し平らに振られていたのに、今は早くしゃくり上げているのでは」と見えて、タイミングが取れていない気がする。それに「インサイド責め」に遭って克服していない。彼と山田哲人が沈んだままでは、サンタナとオスナの甘い球打ちに依存するしか勝つ方法がないという気がしてならない。補強、特に投手陣の失態は誰の責任か。

中日ドラゴンズ:
余り論評する意欲を感じさせてくれない球団だ。諸悪じゃなかった「諸弱」の根源はあの監督さんだろう。その昔の甲子園の優勝投手・小笠原一人が成長しただけで、後は並かそれいかばかりの印象。大島も「寄る年波か」と疑いたくなってきたし、岡林一人の成長では阿部や京田の穴は埋め切れまい、それに大野が負傷で脱落では一層辛い。

結論:
ヤクルトスワローズの三連覇は非常に難しい気がするが、では阪神タイガースが優勝できるのかと聞かれれば「どうぞ、野球の神様にお尋ねを」と答えることしかできない。


5月20日 その2 時代の流れ

2023-05-20 14:58:11 | コラム
「老いては時代に従え」ってか:

先刻、セルフレジの普及の件を花田氏の言を引用して取り上げた。色々な商売をしている人たちがすることに文句を言うつもりもない。そこには「合理化」、「人員削減」、「人員不足の補強」、「(初期投資の費用はかかるが)経費削減」等々があるだろうし、「時代の流れ」というバスに乗り遅れまいとする努力もあるだろうから。

だが、受益者ではないお客にとっては不都合が事だって起きるのだ。それは、同じ会社か店でも店舗か営業所次第で導入されるレジスターというのか自動支払機が異なっている例があること。それどころか、場所によっては未だに係員が配置され古式豊かに現金を受け取ってくれて、釣り銭を手渡してくれる店もあるのはどうなっているのだろう。一説に「店長の方針次第」というのも聞いたことがあった。

時代の流れ、キャッシュレジスターのような機器の急速な進歩と言うのか合理化がある事くらいは解っている。だが、場所によって機器が異なり、入力の方法がまちまちなのは如何なものだろう。しかも、指導者然として振る舞うその場にいる係員の態度がでかい場合があるのも気になる。

我が国には300万以上もの中小企業があり、無数の小売店と食堂があるとは承知している。この種類の機器のメーカーが星の数ほどあるとも思えないが、JIS企画のようなことにはならないのか。しかも、「現金は扱わない」と「けんもほろろ」な場合もある。キャッシュレス時代だとは解るが、どれもが全店舗で通用しないこともある。高齢者が全人口の30%にも達していることに配慮しても良くはないか。

嘗て某国の大手メーカーの社長が激怒したという話を聞いたのを思い出した。それは、 何分にもM&Aが横行する国であるし、副社長兼事業部長が全権を掌握している経営体制であるから、事業部ごとに(買収された会社もあるが)給与計算の方式が異なっており、何と30を超えていて、全社で統一しようにも大いに時間と費用がかかったからだったそうだ。

そういえば、何処かの銀行が始終システムの不具合の問題を起こしていたっけ。時代は兎角面倒な方向に流れていくもののようだ。何時だったか触れておいたが、新大久保駅前の中国人が経営する本当の四川料理店ではタブレットで注文するのだが、チャンと「華為」製品だった。自慢だけど、チャンと注文はできたが、ほんま物の余りの辛さには完敗で、折角の麻婆豆腐は半分も食べられなかった。

生きにくい世の中

2023-05-20 08:10:24 | コラム
面倒な時代だな:

電気代値上げ:
昨日から華やかに岸田文雄首相の見せ場であるG7関連の報道が賑やかである。敢えて英語の感覚で言うと「上手く(と言うか「恙なく」)行くことを祈ります」なのだが、これを英語にするとsuccessを使いたくなるだろうが、私の感覚では「成功」とはこの程度のこと。

その最中に電気代値上げが承認されたとの報道。私は以前に「どの面下げて節電してくださいと言うのか」と政権を面罵した。ロシアのウクライナを受けてエネルギーコストが上昇して耐えきれないというのが主たる理由のようだ。

だが、それならば岸田さんは制裁に加わる前に「国民の皆様。この制裁を科することで『あれこれ然々』のご不自由をかけると思いますが、世界の正義と平和のためにご理解とご協力を賜りたく」と断っておくべきではなかったのか。私は節電などして彼を支える謂れなどないと思うが、如何か。

岸田総理は「原発も何とかして稼働させるように最善の努力もします」くらい言っても罰は当たらなかっただろう。私には岸田総理は内政に向かっての努力と配慮に欠けていると思う、如何に以前は外務大臣だったからと言って。

円安:
大谷翔平がホームランを打ったの、打たないのと朝から賑やかだし、猿之助が退院したのという報道ばかりだが、経済面(新聞のだ)を見ると、為替レートは静かに¥139だった。テレビのニュースでも騒がなかった気がするが、このレードは穏やかではない気がする。ただでさえ、輸入品の価格の上昇が止まっていないこのときに、¥140近い円安に戻れば、さらなる電気代の値上げが襲ってくるのではないか。

私は解りやすく言えば、この事態は政治の至らざるところが原因だと思っている。反省を求めたいところだが、G7の方が大事か。本筋から離れるが、G7のご一行様を厳島神社にご案内していた。キリスト教徒にとっては「偶像礼拝」になってしまうのではないのかという気がしたが、誤りか。

花田紀凱氏は言った:
「ファミレスのタッチパネル注文とか紙の時刻表配布中止とか、ますます生きにくい世の中になっていく」と産経に書いておられた。その通りだなと思う。昨日もこの近所では大型の「まいばすけっと」に暫くぶりに入ると、何としたことか「セルフレジ」ばかりが並んでいた。古いことを言えば「ブルータス。お前もか!」だった。

私の1人前では高齢の女性が着々とUPCを読み取らせて、膨大な数の品物を袋に移しておられた。「偉いものだ」と一寸感心。自分の番が回ってきた。パネルを見れば「係員呼び出し」のボタンもあった。20年以上もPCを使いこなしてきて培った時代慣れと、スマホで鍛えた技術を駆使して、無事に買い物を終えた。

近頃、バスや偶にしか乗らないJR等で観察すると、かなり沢山の高齢のご婦人方がスマートフォンを見て忙しそうに指を動かしておられるのを見かけるようになった。だが、高齢の男性がスマートフォンをいじっている光景にはそれほど出会わない。とは言っても、この現代の文明の利器は広い年齢層に浸透してきたことが解る。

だが、政府なのかスマートフォンの会社なのか知らないが、ここまでディジタル化を進めることが適切なのかと思うこともある。それは、最早我が国では65歳以上が30%に達しているのだし、私のように90歳になってタッチパネル攻撃に手向かっている者もいる。だが、中学・高校のクラス会の連中には両方とも知らない者が多いのも現実。高齢者に不便な立場に追い込むことを何とも思わないのか。

30%の高齢者の中でどれ程多くの方が、タッチパネル化を苦にしておられないか知る由もないが、この傾向は今後一層激しくなるだろう。我々罪なき消費者には阻止する術はない。将に花田氏が言われたように「ファミレスのタッチパネル注文とか紙の時刻表配布中止とか、ますます生きにくい世の中になっていく」事だろう。

これって「高齢者の繰り言」と片付けられるのか。「生きにくい」と嘆くのは誤りか。「時代の変化と進歩と流れについて行くよう努めるのは当然だ」との声が、何処からともなく聞こえてくる。


「英語の学び方」を考えて見よう

2023-05-19 08:13:31 | コラム
日本人に英語の能力が何処まで必要か:

誰が言い出して、誰が「国民皆英語会話能力必須」などと強調したのか不明だが、我が国では「国際化とグローバル化の時代に備えて、英語での日常会話くらいの能力を備えていなければならないのではないか。その大目的のためには小学校3年から指導しよう」ということになってきたようである。

私は以前に「我が国ほど自国語であらゆる文献が揃い、あらゆる種類の学問の勉強とその研究が可能である世界に希な国である、であるから万人が高次元の英語力を備え等得るような教育は不要ではないか。英語を主たる言語とする職業を選ぶか、海外に出かけられて英語力が肝要な研究を志す方や、Ivy League等の最高のビジネススクールで学位を取得しようとする学徒が懸命に学べば良いのではないか」と指摘した。

だが、こういう教育法は一向に実施されずに、昨日仏文学者のTK博士が指摘されたような「「日本の英語はどこまでいっても試験英語で、話すとか書くが問題ではなく、試験の点数を上げることが問題ですから。」の域に止まったままである。私もこのK博士の指摘には全く異論がない。

だが、ここで誤解されないように指摘しておくと「私はこのよう英語の教育法を全面的に否定はしていない」のである。それは「この方法が高校における生徒たちに5段階の差をつけて評価するための手段として採用されて学科の一つとされている以上、今さら変えようがない」のであるからだ。

既に取り上げた例にこういうのがあった、それは「高校3年に英語の教科書を読んだアメリカの一流の技術者が叫んだこと」である。彼が言ったことは「日本の学校教育では英文学者でも養成しようというのか。アメリカの高校ではこのような難しい(高次元の)文学作品を教科書に使って国語を教えることはしない。生徒たちは果たしてこれほど我々にも難解な本を理解できるのか」だった。これは教える方がここを目指しているからであり、生徒間の差をつけやすいのだろうと邪推した.

実は、これに対しても私はそれほど強く否定する気にはならないのだ。と言うのは「こういう教育の仕方をする効果は我が国の人たちの(敢えて私というが)読解力は私如きが及ばないほど高い場合が屡々あるからだ。現に、ある大学の英書購読の本を見せられたことがあったが、浅学非才の私にはとても読みこなす力はなかった。何かが違っているのだと知った。即ち、実用性は最初から考慮されていないのだ。

ここで一寸論点を変えてみよう。私は英語を「単語」、「英文解釈」、「英作文」、「文法」、「英会話」のようにバラバラの独立した分野にして教えることには反対なのだ。英語という言語は一つのものであるから、音読と暗記と暗唱を通じて英語全体を総合的に把握してから個別に後から教えれば良いことだと思っているし、自分がそれで充分海外で役に立つ英語力が身についたと思っているから。

そうであるかと理解して頂けた方に提案したいことがある。それは「多くの高校で進学や体育専門のようにコースを分けて教育しているようだから、英語の場合は『学科の一つとして試験中心に学び、その究極の目的のようなTOEICを目指す組』と『海外にでても通用するような高度であり尚且つ実用性も教える組』に分けてしまうこと」だ。

こうすれば、何も必要もない七面倒くさい英語で苦労することがない生徒を育てられるし、専門家乃至は学者候補の養成だって可能になりはしないか。私は「万人に強制する必要などないだろう」と言いたいのだ。但し、「会話」には相当以上の慣れと度胸が必要だから、チャンとした正調で教養のあるアメリカ語の人か、矢張り育ちが良いUKの人を招請して教えるべきだ。そうでないと、無闇に“you know”を挟む人や、トランプ前大統領のように平然とswearwordを乱発する危険性なきにしもあらずだから。

これは如何なる事かと言えば「英会話」の教師を選ぶ側、即ち日本人が「どれが本当に正調のアメリカ語かキングズイングリッシュであり、何処に出しても恥ずかしくない英語だ」と判定できる能力を備えていなければならないと事なのだ。実名は避けるが、某有名私立大学の学長先生の講演の内容は極めて格調が高かったが、悲しいことに“you know”を乱用されていたのだ。だから、教えてもらう人とその階級を選べということ。

“you know”を多用することは、少なくとも「知識階級」ではないとして、静かに差別される材料になるのだ。英語を教えようとする人は「こういうこと」や日常会話で多用される「慣用句」と「口語体」、謝意を表す軽い質問の多発、“Please say hello to Mary, for me.”のように「誰が宜しく」と言っているかを明らかにせねばならない理屈っぽさ」までに気を遣っておくべきなのだ。


英語の学び方を考えて見よう

2023-05-18 10:04:16 | コラム
何の目的で、どのように英語を教えるのか、勉強するのか:

私の英語の勉強論には、残念ながら未だに理解しようとなさってくれない方が多いようだ。当方が言いたいことは「何もペラペラと話せるようになろうとか、難しい英語の論文や文学書を原書で読みこなせるようになろう」というための勉強法を論じているのではない。

畏友フラン文学者のKT博士は「日本の英語はどこまでいっても試験英語で、話すとか書くが問題ではなく、試験の点数を上げることが問題ですから。」とズバリと指摘された。同感だ。私が論じているのは将にこの点なのだが、表現が拙いのか、未だに理解してもらえていないようだ。

即ち、中学・高校・大学での学校の英語の試験と、TOEIC、TOEFL、英検などの試験で良い成績を上げることを目標にして教えられ、それに従って勉強に励んできたのだ。これは何回も取り上げた女性の英語教師の発言「英語を話せるようにするために教えていない。生徒を5段階で評価できるように差が付くように教えているのだ」が、ピッタリと当てはまっているのではないのか。要するに「学校の成績の一科目」に過ぎないのである。

であるから、その教えられ方で最短でも中学から6年か、大学までで8年も懸命に勉強して試験で良い点が取れるまでに進歩しても「英会話」というか、「英語で自分の言いたいことが思うように言えないような力」しか身につかないのである。これは当然の結末である。例えば「英文法」などを厳しく教えてしまうと「自分が表現したいことを、何としても文法の枠に中に収めようとするから、混乱が生じてしまう」のではないのか。

「英語とは発想も文化も異なる外国の言葉であるし、非常に不規則な点が多いのであるから注意するように」と、何も中学(小学校?)から言い聞かせる必要はないと思うが、中学以降の何処かの時点で因果を含めておく必要があるのだ。より厳格に言えば「文化(=言語・風俗・週間・思考体系の違い)もキチンと知らしめておくべきだと思う。

私が知る限りでは某私立大学ではナンシー坂本さんの名著“Polite Fictions”をテキストに使っていた。私はこの本は万人に推薦したいとすら思っているほど、文化の違いから来る齟齬を書き表しておられるのだ。その一例を挙げておくと「Questions, Questions」(だったと思うが)章があった。

これは、「アメリカ人は小さく謝意を表するときに質問をしてその感謝を表現する」という話だった。例えば、京都観光に外国人を案内すると何千年も前に建築された美しい寺院の屋根が見事に左右対称系にできているのを見て「あれほどの昔の技師たちはどのような器具を使ってこの建築をしたのでしょう」などと発言することが多い。このような難問は方々で発せられるのだ。

すると、多くの案内の方かガイドの方は「正解」の用意がない場合が多いので大慌てで「良く資料を調べて後ほど正確にお答えしますから暫時お待ちを」等と汗を拭き拭き答えることになる。そして、懸命に調べてお答えする。ところが質問した方は「案内に対する軽い謝辞の表現だった」のだから、質問したことすら覚えていないのが普通。だから感謝に意を表さない、「何だ。折角調べてきてやったのに、無礼な」と不快になるのだ。

私もこの経験をしていることは既に取り上げた。アメリカの工場から来た技術者の団体を某大印刷工場の製品展示場に案内して頂けたことがあった。素晴らしいアイデイアを駆使した新開発されたばかりの容器があった。技術者の1人が勿論感謝の意を表すべく「この容器の素材は何でしょう」と、案内役の購買部長さんに問いかけた。

部長さんは一瞬顔色を変えて「存じませんので担当部署に尋ねてきます」と席を外されてしまった。アメリカ人たちはさして気にもしなかった。そこに部長さんが戻られて私に「担当が外出中で帰社次第聞いてお答えします、ところで、今晩お泊まりのホテルは」と尋ねられた。ここで、迂闊にも私は気が付かずにホテルをお知らせした。

すると、夜の9時過ぎに部長さんから電話があった「大変返事が遅くて申し訳ありませんでした。素材はあれとこれでした」と言って。うっかり者の私もこれで漸く思い出した。質問が出た現場で「お気になさらなくて結構です。お忘れくださって問題ありません」と申しあげておくべきだったのだ。大いに反省した。

私は今日までに繰り返して「我が国とアメリカの企業社会における文化比較論」を取り上げ、思考体系の違いも解説してきた。だが、それ等以外にも英語という言葉には「このような表現の仕方に違いがあるもの」なのである。万人がここまで英語を決める必要はないとは思うが、会話という現場ではこのような「想像もしていなかった食い違い」が生じるものなのだ。ここまで来れば「英語を流暢に話せるかどうか」という問題ではないのだ。

論じ始めればキリがないが、今回は以下の件を取り上げて終わりにしておこう。それは「native speakerを連れてきて英語を教えてもらうのが最上の手段」とは考えるなという点だ、私は英語で意思の表現もできるし、相手が言うことも理解できるはずだと思って1972年8月に生まれて初めてアメリカに行った。飛行機の中で隣り合わせとなったアメリカ人と普通に会話が成り立った。

ところが、サンフランシスコ空港で乗り継ぎ便を待つので構内をウロウロしているときにまた彼と再会した。彼が“Are you still hanging around. I’ll buy you a drink.”と話しかけてきた。正直に言って「???」だった。それは「未だウロウロしているにか、それならば一杯おごるよ」と言ったのだったと、後になって解った。彼から見れば「機内で普通に会話ができていた者が、このような日常会話の表現が解らない」とは考えていなかったのだろう。

言いたいことは「アメリカ人たちは日本人たちが意思の疎通を図ろうとするときに、如何なる表現で苦しむか、日常会話に使われる口語的な言い回しや慣用句を知らずに苦しむ」とは知らないのである。もっと解りやすく言えば「日本人(外国人)はどういう点で苦しみ悩むか」などが解るはずがないのだ。そのような理解度が低い者たちに英語を教えさせることが得策かどうか考えて見よ。

翻って、自分たちが外国人に日本語教えられだけの学識経験があるか、方法を承知しているか、国語の文法を覚えているかを反省してみれば良い。私は「自国を離れて日本に来て英会話を教えようと企むような連中に、ハーバードやスランフォードのMBAやPh.D.がいるか」と指摘した。亡き母が言った「日本にやってきて一旗揚げようなどというのは食い詰め者ではないか」と。

結論を急ごう。私の長年の主張は「日本人で英語圏の文化の違いを弁えて、英語という言語の特徴を充分に承知して、現実にアメリカなりUKの世界で彼等の中で仕事ができていたか、彼らの中で研究生活ができていたか、彼らの文化と思考体系を知って、その中で普通に彼らと交流して生活ができていたような方が教える」のが最善だと思っている。

そういう実力を備えて、彼らの文化を承知されている方には、私は何人もお目にかかってきた、だが、遺憾ながらそういう方々は功成り名遂げて引退されてしまった例が多く、今さら教壇に立とうとはお考えにはならないと思う。だが、勿体ないことで、こういう方々の活用法をも考えてはどうだろうか。

この件は未だ続けて論じていこうかと考えている。