星はなかった。
それでも、北の森の中にいるよりはまだ明度の高い夜だった。
シュウのこころは、空っぽのワインの瓶のようだ。その色味と重みと冷たさの感じ。シュウのこころの在り様はまさにそうだった。道路はようやくアスファルト舗装になり足取りが軽くなる。それまで歩いてきたゴツゴツとした砂利道のでこぼこがコンバースのスニーカーのやわらかな底を通して与える足裏の痛みも消失していった。足を運ぶたびに生じた痛みは、ワインの瓶を爪で叩いて音を鳴らす行為に似て、シュウにとっては、自分の存在感をやっと確かめるための、自らの生と意識を結びつける最後の接点だった。火照った足裏は、その帯びた熱のエネルギーにより、生きた存在であることを叫んでいるかのようだ。
彼はミチルのことを想う。今朝を境に、いなくなってしまった彼女のことを、寂しく、恋しく想う。はにかみがちな性格で、人前で甘えてみせることなどしなかった彼女。ほんのり波がかった長い黒髪と、上を向いて弧を描く長い睫毛を従えた大きな黒い瞳。黒色の持つ落ち着きと安らぎと慰めの力を、彼女は生まれついて祖先から引き継いでいた。そしてその力は外見だけではなく、内面にまでも及んでいた。ミチルは言った。
「その年に初めてカッコウが啼いた朝に産まれた子どもは、親との縁が薄いんだよ」
ミチルは生後間もなく、養女に出された。彼女の養育権を得た人たちは、ミチルの親になるにしてはやや高齢で、外面は穏やかな夫婦ではあったのだが、実は教育熱心すぎる性質の人たちだった。学校の定期試験で、決められた順位以内に入れる点数をミチルが取れなかった場合には、テレビやラジオを視聴する時間を取り上げ、より勉強へ打ち込むような体制へと、彼女を強行した。夫婦なりの厳正な管理だった。ミチルは物覚えが良く、応用も利く。しかし、厳しい条件を最初のうちこそクリアしてきたのだが、難題がエスカレートして非常な高みになり、それをクリアするのに失敗したたった一度のその時から、ずるずると罰則の日々へと転落していった。高校を卒業するころには、夫婦はミチルに諦めと怒りの念を持って接するようになってしまった。そして、ついには「おまえは本当はうちの子ではない」とその出生の秘密を告げて、追い出されるように、彼女は家を出た。彼女はカッコウが大嫌いだった。啼き声を聞くたびに、自分への呪いを感じた。そして、自分が生まれた朝はその年はじめてカッコウが啼いていたのだと信じるようになった。
そんなミチルが持ち前の前向きさを評価されて面接で採用され懸命に働いている建築事務所の社長の息子がシュウだった。ミチルはそれでも彼女を育てた老夫婦に感謝していた。
「赤の他人から始まったのに、ここまで育ててくれたもの。期待が大きくて沿えなかったけれど。」
そう言うミチルの言葉に偽りがないことを、シュウは彼女の表情から読み取れたのだが、愛情の形なのか、自分たちのエゴの形なのか、老夫婦の方針に対しては、シュウには判断できなかった。
闇が吐き出す吐息のような生ぬるい夜風を浴びながら、シュウは歩き続けていた。不意に腕時計へ目をやると、午前1時を回っているのがわかる。一人、街のはずれを歩く気味の悪さをシュウは感じていない。そんな彼を突き動かすひとつの閃き。それは論理的な根拠があるのではなく、ただ運命的だと彼が勝手に感じた、とある示唆が元になっていた。北の森の中で彼が見たもの、それ以前に、彼が北の森へ向かったその理由、そして今こうして歩いていることに繋がる一本の線が彼の中にはあったのだ。汗ばんだ額や首筋、背中の冷たさと足裏の火照りとが、アンバランスなまま一緒くたに知覚される。
ミチルにはいつも、はっきりそれが何であるかとは断定できないのだが、脆さのようなものをシュウは感じていた。ミチルはこう言っていたことがある。
「物心がついた時から、わたしはなんだかあくせくと勉強ばかりしてきたし、そう追い立てられもしたから、振り返る時間っていうのかな、落ち着く時間、もっと言えば、ひとりで落ち込む時間だってなかったんだ。それでね、学生の時から少しずつ大きくなっていったんだけれど、自分の中に穴があいているような気がしてたんだ。どこにどういう穴があいているのかはわからない。だけれど、確実に私のどこか…それは大事な部分だと思えるところに、穴があいているの。底なしの穴だよ。その穴があるうちはたぶんわたしは偽りの日々しか送れないんだと思う。適応しているようで、適応できていない、そんな毎日を過ごし続けるんだと思う。」
どうしていいかわからない、そんな顔をしながら、救いを求めるでも祈るでもなく、淡々と自分のいびつさを語る彼女をシュウは見つめ、やさしく肩を抱いた。思ったよりも華奢で、強く扱うと壊れてしまいそうな肩だった。そのとき、シュウはミチルの首にかかっているペンダントを見たのだった。樹の葉の形をした金色のペンダントだった。それは派手な衣服や装飾品をあまり好まないミチルには不釣り合いに見えもする品物だったし、まるでゲームか物語から飛び出してきたアイテムのように彼の眼には映った。なにか、異質な力を持った物体のように、シュウには思えた。
ミチルの「今までありがとうございました。探さないでください。」という短い書置きを今朝、手にとって読んだ時、シュウは、頭の引出しにしまっていた、よもやの場合を慮っていた一つの危惧を取りだすことになった。それは、真正面から考えてしまうと、現実になってしまうんじゃないかと直視できなかった不吉なイメージで、だからこそ仕舞いこんでいたものだった。それがとうとう本当になってしまった。彼は眉根を寄せ、歯噛みした。ミチルから感じられる危うさをどう排除し、癒してあげるべきなのか、彼は長く考えながら、彼女に共感を示したりやわらかい言葉をかけたりときには抱きしめたりした。それでも、風をつかむように手ごたえが無かった。彼女のこころの穴を埋めようといくら土を流しこんでも決して積もることなく、本当に底なしの底へと消えていった。僕は無力だ、という灰色の気持ちが折に触れて強くなっていった。そしてその下降線のピークが今朝だった。ミチルがどこへ消えたのか、まったくその行き先がわからない。彼女と近しく付き合っていながら、彼女の友人を知らない。親戚などは彼女の生い立ちからいって訪ねることは考えられない。たぶん、どこかに身を寄せたわけではない、彼女の性格上からもそうなる。そうなると、もうお手上げなのだ。南下していくのか、北上していくのか、遠くの見知らぬ土地へ出立してしまった可能性が高いし、そこまで考えた時には、彼女にとってこの土地から離れること、すべてをリセットして人生をやり直すことのほうが彼女のためなのかもしれないとシュウには思えてきた。ミチルを好きだというシュウの想いは、彼女を好きであればこそ、その想いを捨て去ってしまって、書置きのとおり、彼女を探さずにそっと気持ちだけで見送る方が良いのではないかという方へ傾いた。そして、それしかないと決断しかけた時に、ふとミチルのペンダントのことが頭をよぎった。あの金色の樹の葉の形をした不思議な雰囲気のあるペンダント。それがどうも気にかかるのだ。この街の北には広い森があるのだが、その森について伝わる謂われがあった。「北の森の守護者は、木の葉を持ち出した者を神隠しにあわせる」というものだ。この街の子どもたちは、親や街の老人たちから「だから、森から何も持ってきてはならないのだよ」と注意をされ、それを信じて大人になり、大人になったら森には入らなくなっていく。ミチルのあのペンダントが北の森の物だとは思えないが、あの樹の葉の形が印象的なうえに、この言い伝えと照らすと、だんだんと気になってきたのだった。北の森の中には古い祠がある。その祠こそ、きっと謂われにある、森の守護者にあたる存在なのだと思った。行ってみようか。この件でできることはそれだけのようにシュウには思えたし、実際、バカバカしくもありながら、確かめてみることで、もしかすると森の謂われを葬り去れるような気もしていた。妙な迷信は、無ければ無いほうが現代的ですっきりするだろう。
シュウの建築事務所から北の森へは徒歩10分ほどの距離だったので、彼は歩いて、それも定時に終業して普段着に着替えてから行った。まだまだ陽が長い季節ではあるけれども、森の中は高い木によって光は遮られがちだし、クマやシカなどの危険な野生動物が住まっていたりもするし、大体、人間を拒絶するような空気を張り巡らせている。シュウは必要最小限のものをカバンにつめて、虫除けのスプレーを腕などに施し、クマ避けの鈴を腰につけて鬱蒼とした森の中へと入って行った。入るなり、神聖な感じのする空気がひんやりと肌を撫で、うっすらと鳥肌が立った。目指す祠は、戦時中に防空壕として使われた天然の洞穴の中にあることになっている。「熊出没注意」の看板に身震いし、遠くからのシカの「ピーッ」という鳴き声を耳で拾いながら、少しづつ、砂利の撒かれた細い道をたどっていく。しばらく歩くと、シュウの足裏は痛んだが、やるべきこと、解き明かすべきことの使命感がまさり、停滞することなく、先への道を進むことができた。7,8分くらい歩くと、目指す洞穴の前にたどり着いた。入口は、すのこのような板が塞いでいる。その周囲にはロープが張られ「立ち入り禁止」の古い看板も立っていた。さわさわと葉擦れの音がずっとしている。シュウはその音を聴きながら、誰かに見られているような視線を感じて、後ろや上や、いろいろな方向を振り向いてみたが、やっぱり誰もいなかった。彼は、手を合わせて合掌のポーズを短く取り、そして、ロープを越えて入口のすのこを取り外した。覗きこんだ洞穴の中は真の闇で、カビ臭さが鼻をついた。普段なら絶対に入ることができないくらいの気味悪さだった。入った途端になぜか入口が閉ざされて二度と出てこれないのではないか、という根拠のない不安が心を覆った。その恐怖に打ち勝つため、その場で5分ほど休憩を取り、意を決して懐中電灯を照らしながら内部へと侵入を開始した。森の守護者にしてみれば、彼は静寂と平静をぶち壊す侵入者に他ならないだろう。
中は案外広かった。天井も思っていたよりも高く、入口から数メートル分こそ膝を幾分曲げなければならなかったが、中に入っていくにつれてそうしなくてもよくなった。防空壕として使われていただけのことはあるとシュウは思った。懐中電灯で一部を照らしているとはいえ、暗闇の中を歩くので、歩幅は狭くなるし、どれだけ歩いたかの感覚が曖昧だった。気がつくと、行き止まりの壁に祠らしき設備が照らし出された。想像の通りに燭台があるので、ろうそくを片方づつ二本立てて火をつけてみた。周囲の明るさがケタ違いに増した。眺めてみると、奥に設えられた神棚のようなところに、木製のお札が貼られているのが見えた。もう随分古いものらしく、書かれている文字が読めないくらいに木の色と溶け合ってしまっている。シュウは、入口でしたのと同じように、目を閉じ手を合わせた。何をしにこんなところまで来たのだろう、やっぱり何もないし、ミチルとの何を期待していたというんだ、醒めた言葉がこころの中に生じ、こころの温度を平熱に戻していく。ため息とともに目を開けた。刹那、祠の前に、ゆらりともせずわらわらと漂う十数体の小さな青白い人型の煙状の存在を見た。ひっ、と小さく声が出て後ずさりすると、
「待て」
「待ちなさい」
「話があるよ」
という声が次々と聞こえた。
それでも、北の森の中にいるよりはまだ明度の高い夜だった。
シュウのこころは、空っぽのワインの瓶のようだ。その色味と重みと冷たさの感じ。シュウのこころの在り様はまさにそうだった。道路はようやくアスファルト舗装になり足取りが軽くなる。それまで歩いてきたゴツゴツとした砂利道のでこぼこがコンバースのスニーカーのやわらかな底を通して与える足裏の痛みも消失していった。足を運ぶたびに生じた痛みは、ワインの瓶を爪で叩いて音を鳴らす行為に似て、シュウにとっては、自分の存在感をやっと確かめるための、自らの生と意識を結びつける最後の接点だった。火照った足裏は、その帯びた熱のエネルギーにより、生きた存在であることを叫んでいるかのようだ。
彼はミチルのことを想う。今朝を境に、いなくなってしまった彼女のことを、寂しく、恋しく想う。はにかみがちな性格で、人前で甘えてみせることなどしなかった彼女。ほんのり波がかった長い黒髪と、上を向いて弧を描く長い睫毛を従えた大きな黒い瞳。黒色の持つ落ち着きと安らぎと慰めの力を、彼女は生まれついて祖先から引き継いでいた。そしてその力は外見だけではなく、内面にまでも及んでいた。ミチルは言った。
「その年に初めてカッコウが啼いた朝に産まれた子どもは、親との縁が薄いんだよ」
ミチルは生後間もなく、養女に出された。彼女の養育権を得た人たちは、ミチルの親になるにしてはやや高齢で、外面は穏やかな夫婦ではあったのだが、実は教育熱心すぎる性質の人たちだった。学校の定期試験で、決められた順位以内に入れる点数をミチルが取れなかった場合には、テレビやラジオを視聴する時間を取り上げ、より勉強へ打ち込むような体制へと、彼女を強行した。夫婦なりの厳正な管理だった。ミチルは物覚えが良く、応用も利く。しかし、厳しい条件を最初のうちこそクリアしてきたのだが、難題がエスカレートして非常な高みになり、それをクリアするのに失敗したたった一度のその時から、ずるずると罰則の日々へと転落していった。高校を卒業するころには、夫婦はミチルに諦めと怒りの念を持って接するようになってしまった。そして、ついには「おまえは本当はうちの子ではない」とその出生の秘密を告げて、追い出されるように、彼女は家を出た。彼女はカッコウが大嫌いだった。啼き声を聞くたびに、自分への呪いを感じた。そして、自分が生まれた朝はその年はじめてカッコウが啼いていたのだと信じるようになった。
そんなミチルが持ち前の前向きさを評価されて面接で採用され懸命に働いている建築事務所の社長の息子がシュウだった。ミチルはそれでも彼女を育てた老夫婦に感謝していた。
「赤の他人から始まったのに、ここまで育ててくれたもの。期待が大きくて沿えなかったけれど。」
そう言うミチルの言葉に偽りがないことを、シュウは彼女の表情から読み取れたのだが、愛情の形なのか、自分たちのエゴの形なのか、老夫婦の方針に対しては、シュウには判断できなかった。
闇が吐き出す吐息のような生ぬるい夜風を浴びながら、シュウは歩き続けていた。不意に腕時計へ目をやると、午前1時を回っているのがわかる。一人、街のはずれを歩く気味の悪さをシュウは感じていない。そんな彼を突き動かすひとつの閃き。それは論理的な根拠があるのではなく、ただ運命的だと彼が勝手に感じた、とある示唆が元になっていた。北の森の中で彼が見たもの、それ以前に、彼が北の森へ向かったその理由、そして今こうして歩いていることに繋がる一本の線が彼の中にはあったのだ。汗ばんだ額や首筋、背中の冷たさと足裏の火照りとが、アンバランスなまま一緒くたに知覚される。
ミチルにはいつも、はっきりそれが何であるかとは断定できないのだが、脆さのようなものをシュウは感じていた。ミチルはこう言っていたことがある。
「物心がついた時から、わたしはなんだかあくせくと勉強ばかりしてきたし、そう追い立てられもしたから、振り返る時間っていうのかな、落ち着く時間、もっと言えば、ひとりで落ち込む時間だってなかったんだ。それでね、学生の時から少しずつ大きくなっていったんだけれど、自分の中に穴があいているような気がしてたんだ。どこにどういう穴があいているのかはわからない。だけれど、確実に私のどこか…それは大事な部分だと思えるところに、穴があいているの。底なしの穴だよ。その穴があるうちはたぶんわたしは偽りの日々しか送れないんだと思う。適応しているようで、適応できていない、そんな毎日を過ごし続けるんだと思う。」
どうしていいかわからない、そんな顔をしながら、救いを求めるでも祈るでもなく、淡々と自分のいびつさを語る彼女をシュウは見つめ、やさしく肩を抱いた。思ったよりも華奢で、強く扱うと壊れてしまいそうな肩だった。そのとき、シュウはミチルの首にかかっているペンダントを見たのだった。樹の葉の形をした金色のペンダントだった。それは派手な衣服や装飾品をあまり好まないミチルには不釣り合いに見えもする品物だったし、まるでゲームか物語から飛び出してきたアイテムのように彼の眼には映った。なにか、異質な力を持った物体のように、シュウには思えた。
ミチルの「今までありがとうございました。探さないでください。」という短い書置きを今朝、手にとって読んだ時、シュウは、頭の引出しにしまっていた、よもやの場合を慮っていた一つの危惧を取りだすことになった。それは、真正面から考えてしまうと、現実になってしまうんじゃないかと直視できなかった不吉なイメージで、だからこそ仕舞いこんでいたものだった。それがとうとう本当になってしまった。彼は眉根を寄せ、歯噛みした。ミチルから感じられる危うさをどう排除し、癒してあげるべきなのか、彼は長く考えながら、彼女に共感を示したりやわらかい言葉をかけたりときには抱きしめたりした。それでも、風をつかむように手ごたえが無かった。彼女のこころの穴を埋めようといくら土を流しこんでも決して積もることなく、本当に底なしの底へと消えていった。僕は無力だ、という灰色の気持ちが折に触れて強くなっていった。そしてその下降線のピークが今朝だった。ミチルがどこへ消えたのか、まったくその行き先がわからない。彼女と近しく付き合っていながら、彼女の友人を知らない。親戚などは彼女の生い立ちからいって訪ねることは考えられない。たぶん、どこかに身を寄せたわけではない、彼女の性格上からもそうなる。そうなると、もうお手上げなのだ。南下していくのか、北上していくのか、遠くの見知らぬ土地へ出立してしまった可能性が高いし、そこまで考えた時には、彼女にとってこの土地から離れること、すべてをリセットして人生をやり直すことのほうが彼女のためなのかもしれないとシュウには思えてきた。ミチルを好きだというシュウの想いは、彼女を好きであればこそ、その想いを捨て去ってしまって、書置きのとおり、彼女を探さずにそっと気持ちだけで見送る方が良いのではないかという方へ傾いた。そして、それしかないと決断しかけた時に、ふとミチルのペンダントのことが頭をよぎった。あの金色の樹の葉の形をした不思議な雰囲気のあるペンダント。それがどうも気にかかるのだ。この街の北には広い森があるのだが、その森について伝わる謂われがあった。「北の森の守護者は、木の葉を持ち出した者を神隠しにあわせる」というものだ。この街の子どもたちは、親や街の老人たちから「だから、森から何も持ってきてはならないのだよ」と注意をされ、それを信じて大人になり、大人になったら森には入らなくなっていく。ミチルのあのペンダントが北の森の物だとは思えないが、あの樹の葉の形が印象的なうえに、この言い伝えと照らすと、だんだんと気になってきたのだった。北の森の中には古い祠がある。その祠こそ、きっと謂われにある、森の守護者にあたる存在なのだと思った。行ってみようか。この件でできることはそれだけのようにシュウには思えたし、実際、バカバカしくもありながら、確かめてみることで、もしかすると森の謂われを葬り去れるような気もしていた。妙な迷信は、無ければ無いほうが現代的ですっきりするだろう。
シュウの建築事務所から北の森へは徒歩10分ほどの距離だったので、彼は歩いて、それも定時に終業して普段着に着替えてから行った。まだまだ陽が長い季節ではあるけれども、森の中は高い木によって光は遮られがちだし、クマやシカなどの危険な野生動物が住まっていたりもするし、大体、人間を拒絶するような空気を張り巡らせている。シュウは必要最小限のものをカバンにつめて、虫除けのスプレーを腕などに施し、クマ避けの鈴を腰につけて鬱蒼とした森の中へと入って行った。入るなり、神聖な感じのする空気がひんやりと肌を撫で、うっすらと鳥肌が立った。目指す祠は、戦時中に防空壕として使われた天然の洞穴の中にあることになっている。「熊出没注意」の看板に身震いし、遠くからのシカの「ピーッ」という鳴き声を耳で拾いながら、少しづつ、砂利の撒かれた細い道をたどっていく。しばらく歩くと、シュウの足裏は痛んだが、やるべきこと、解き明かすべきことの使命感がまさり、停滞することなく、先への道を進むことができた。7,8分くらい歩くと、目指す洞穴の前にたどり着いた。入口は、すのこのような板が塞いでいる。その周囲にはロープが張られ「立ち入り禁止」の古い看板も立っていた。さわさわと葉擦れの音がずっとしている。シュウはその音を聴きながら、誰かに見られているような視線を感じて、後ろや上や、いろいろな方向を振り向いてみたが、やっぱり誰もいなかった。彼は、手を合わせて合掌のポーズを短く取り、そして、ロープを越えて入口のすのこを取り外した。覗きこんだ洞穴の中は真の闇で、カビ臭さが鼻をついた。普段なら絶対に入ることができないくらいの気味悪さだった。入った途端になぜか入口が閉ざされて二度と出てこれないのではないか、という根拠のない不安が心を覆った。その恐怖に打ち勝つため、その場で5分ほど休憩を取り、意を決して懐中電灯を照らしながら内部へと侵入を開始した。森の守護者にしてみれば、彼は静寂と平静をぶち壊す侵入者に他ならないだろう。
中は案外広かった。天井も思っていたよりも高く、入口から数メートル分こそ膝を幾分曲げなければならなかったが、中に入っていくにつれてそうしなくてもよくなった。防空壕として使われていただけのことはあるとシュウは思った。懐中電灯で一部を照らしているとはいえ、暗闇の中を歩くので、歩幅は狭くなるし、どれだけ歩いたかの感覚が曖昧だった。気がつくと、行き止まりの壁に祠らしき設備が照らし出された。想像の通りに燭台があるので、ろうそくを片方づつ二本立てて火をつけてみた。周囲の明るさがケタ違いに増した。眺めてみると、奥に設えられた神棚のようなところに、木製のお札が貼られているのが見えた。もう随分古いものらしく、書かれている文字が読めないくらいに木の色と溶け合ってしまっている。シュウは、入口でしたのと同じように、目を閉じ手を合わせた。何をしにこんなところまで来たのだろう、やっぱり何もないし、ミチルとの何を期待していたというんだ、醒めた言葉がこころの中に生じ、こころの温度を平熱に戻していく。ため息とともに目を開けた。刹那、祠の前に、ゆらりともせずわらわらと漂う十数体の小さな青白い人型の煙状の存在を見た。ひっ、と小さく声が出て後ずさりすると、
「待て」
「待ちなさい」
「話があるよ」
という声が次々と聞こえた。