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観光物産館でのアルバイトを始めてからおよそひと月がたった。今日もいつもながらにほどよく忙しく――つまり、少し余裕残しの、それゆえの充実感を感じるような忙しさで――退勤した今、まだ明るい空を見上げながら、ふうと息をつく。
二十八歳にしてアルバイトの、ぼくがやっているのはどんな仕事か、ちょっと興味を持ってもらうことにして、その説明をすると、朝は午前八時までを目安に自宅の家から自転車にまたがって、終いには上り坂で息を荒げながら、トータル三十分くらいをかけて出勤する。息が整うのを待たずに店に入れば、まず「あぁ、今日も始まるなあ」と、わくわく感のある甘い緊張感の中でエプロンをまとい、それからタイムカードを機械に通して、すぐさま午前九時の開店前までに終えなければならない品出しを始める。それはたとえば北海道ならではの、かわいらしい小熊のキャラクターや勇ましいサラブレッドの彫り物をした金属片がついた昔ながらのキーホルダー、そして、とうもろこしやじゃがいもなんかを菓子製品化したものや缶詰や粉末のスープにした加工品、エゾシカやキツネなどの動物のぬいぐるみ、などなど代表的なものはこれらだが、商品の種類はもっと多様で、全国的な広い視野でみれば個性的に間違いはないのだけれど、道民として落ち着いて見回せばどこの北海道の物産館でも売っていそうなものばかりだったりする。ぼくも初めこそ、多彩な商品のカラフルさに気分が明るくなりながら仕事をしていたのだが、一週間もしないうちにはやくも見飽きてしまい、それと同時に棚や台などのそれぞれの商品の定位置を、なんとなくではあるが意識せずに覚えてしまった。
週に一度、月曜日にだけ短い朝礼がある。しかし、いくつになっても人前で話すことが得意ではないらしい社長の幾分紅潮した笑顔から発せられる挨拶や訓示の最後の文句である
「・・・今日も一日、スマイルを忘れずに。スマイルあるところに幸せとお客さまはやってきます。それではみなさんよろしくお願いします。以上です」
というのはどうやら毎度の決まり文句のようで、そこの箇所だけは慣れた感じで声の抑揚と発音のスピードが明らかに違って、こなれている。聞き慣れてくると、その最後の文句には、労働意欲を高めるスイッチを押してくれる何かしらの力が宿っているのかもしれない、と不思議に思えてくるほど、
「さて、やるかっ」
とこれから始まる一日に向けて、なぜだかボルテージがあがる効能があるのだった。
売っているものの中には初めてここに来てぱっと館内を見渡した人ならば、おもしろいなあ、と感じるであろうものが多いと思うので、そういった商品の魅力で商売の勝負をするものなのだろうと思いながら、それまで警備員しかしたことがなくて客商売は初めてだったぼくはしばらく仕事をこなしていた。そのせいなのか、ちょっと働く気持ちが商品任せになっていて、ぼんやりしていたところがあったのだが、それが違うということは、最近になってだんだんわかってきたところでもある。それは社長の言うように、商品力よりも、従業員たちがお客さんによい印象を与えながら接客することのほうが大事らしいということだった。そしてそれは今のところ正しいと思っている。
そうやって、物産館が開店しているときはあらかた館内にいて接客したりレジを打ったりしているのだけれども、ときおり、
「有田君、ちょっと」
と事務室のほうに呼ばれ、パソコンの表計算ソフトで、レジのコンピュータが自動生成した、商品名と数値の羅列の、荒い表を清書するのを頼まれてやる。自分の個人のパソコンではインターネットやメールをすること、そしてアイチューンズで音楽を管理することばかりやってきていたので、正直、その表作りの仕事をしてほしいと言われたときは、できる気がせず若干血圧が下がったような、力が抜ける気さえした。だってソフトの操作も画面に表示される多数のアイコンの意味も、異世界の地図のように全く解読できないのだから。でも、事務長は
「初心者でも大丈夫だから」
と、これを見ながら少しずつできるようになってほしい、と笑顔で、図解入りの入門書を貸してくれた。これはぼくにとって重要なアイテムだ。こうしてぼくは、いささか頼りなげな船に乗っているような船乗りのようではあっても、《表計算ソフトの大洋》という深く広大な大海原に漕ぎだすための重要なアイテムであるコンパスを入手し、新発見の陸地を見つけながら、そこで得た特産品や宝石などに相当する、きれいに罫線で仕切って整えた商品販売個数表を中心とする二、三種類の表を、誇らしげではあるのだけれど、そこは謙虚になんでもない感じでその都度、事務長に提出するのだった。
繰り返しになるが、ぼくは今年の四月で二十八歳になった。名前は有田虹矢で、二人の仲間はぼくをニジと呼ぶ。子どもの頃は、レイン坊などと呼ばれたこともある。でも、このあだ名はかっこう悪いと思っていて好きじゃなかった。札幌の私立大学を卒業してからまもなく地元に戻ったが、あまりぱっとしなかった成績が暗喩するかのように、それからいままでたいした職歴も無い。この観光物産館のアルバイトに就くまでにも、仕事をしていない期間は二年半くらいもあった。
こんな身にはよくあることなのだけれど、いったい何になりたいのか、お金を稼ぐ気はないのか、そういうことを両親や親戚などから、折をみて叱責のように言われたことが何度かある。そういうときには、本当に済まないような気持ちになったし、意欲のない自分を責めたりもした。しかし、しょうがないとしか言えないのだ。もちろん、不利な条件として、あふれんばかりであってほしかった求人だっていくらでもあったわけじゃないし、目移りするようにさまざまに、極彩色のように輝いていてほしかった職種も限られていた。まあ、でも、これらはいいわけにすぎないとは思う。ただ、言うに事欠いて言うわけではないのだけれど、とにかく自分が働くというイメージがまったくつかめないのだから、そもそもの一歩すら運べない。いやいや、目をつむってでも一歩進めれば、イメージが湧いたのかもしれない、だが、その輝ける勇気を、ぼくは残念ながら眩しく光る砂金の一粒ほども持ち合わせていなかった。何になりたいのか、お金をどんどん稼ぎたくないのか、ぼくへの好意から言っているのだとするそういった問いを浴びせられても、まるで好みじゃない柄のハンカチをプレゼントされて、それを持ち歩かなければならないときのように、自分となじむ感じがしない。自分自身と現実とのズレを感じてしまう。
では、どうしていきなりアルバイトを始めたのか。それは、幼馴染のカズこと鈴井和夫のある一言に端を発するアイデアに拠るのだけれど、そのアイデアについてはまた後で語ることにしよう。その前に、カズ自身のこととぼくとの関係、そして忘れちゃいけないもう一人の大事な仲間、本堂茜について語りたい。
カズは巨漢の主である。それも横幅のほうに特化した、すれ違う人たちの目を強く引くようなタイプの、ぼくと同い歳の男だ。かわいそうなのはそのような巨漢でありながら気が弱いというところにあって、例えば道を歩いていてじろじろという他人の視線を感じ取ると、それだけでもう、もじもじとどんどん下を向きはじめてしまう。巨漢によくある汗っかきでもあるので、そのもじもじした状態が長い間続くと、さらにそれが女性の視線によるものだったりすると、じゅわあっと大量の汗をかいてしまい、その汗をかいている自分を、よせばいいのにさらに俯瞰的な意識上の視点で、《おかしな自分》として見つめてしまって余計に恥ずかしくなり、さらにさらに汗をふきださせてしまう。そのさまは、はた目で見ていると、気の毒以外のなにものでもない。だから、人の目が気になってしまうカズは必要以上に外に出ることはなかった。家に引きこもりがちなのだ。そして無職の状態が続いている。何も、生来の、重症的気弱さではなかった。それは高校時代のある事件がきっかけになっている。
その事件については、川原でカズと茜とぼくとでたき火を囲んでいる時に、ぼくはほとんどのことは知っていたのだが、茜のためにカズ本人の口から、ゆっくり、途切れ途切れに、迷いながら、ときに震えすらした言葉によって伝えられた。
高校一年生の時に、身体のごつい先輩たちにスカウトされるがまま柔道部に入部したカズは、夏休みを迎えるまでにある女の子に、厳密には彼女の吹くフルートの音に恋をした。片思いの恋と言えるかどうか、よくわからない。その女の子は、過疎化が進み生徒数が年々少なくなっていくこの街唯一の高校の廃部寸前になってしまっていた吹奏楽部に所属する女生徒で、B組のカズとはクラスが違ったのだが、同じ一年生だった。その女生徒の家は高校から徒歩で通える場所にあり、カズはバスで自宅から通学していた。というか、そのバス停と女生徒の家とは一〇〇メートルも離れていないような近距離の、いわば同じ町内で班分けするならば同じ班に入るくらいの近い範囲内に存在していた。
それは夏休み目前のある日のことだったが、バスを待つ部活帰りのくりくりの坊主頭のカズは、何件か立ち並ぶ二階建ての家々の一つの二階の部屋の内の、その窓の網戸から濾すように出てきた、フルートの奏でる旋律を聴いた。それはところどころで音が止まる、まだその楽曲に馴染んでいない練習したてのものであることがうかがえるものだった。音色が流れているのを聴くとき、それはカズにとってとても心地よかったようだ。時折、音が途切れると、はっと現実に引き戻される気がして、そしてまた音が鳴り出すと、ふかふかの羽根布団に身体を預けているときのような柔らかな幸福感に見舞われたんだ、とカズはたき火の中に小さな木の枝を放りこみながら懐かしんだ。そういう日が何日か続き、一度、その女生徒の家の前までいって、そのときも流れていた音色に耳を傾けてしまったことが、物事の明暗を分けた。好きになった女生徒の吹くフルートの音色にうっとりしていると、何気なくその音が途絶えて女生徒が窓から顔をのぞかせた瞬間があった。そしてその眼下に、丸くたたんで帯を巻いた柔道着を肩から背中に下げ、微笑みを浮かべながら立っていたカズがいた。カズの微笑みは、実は彼の素の顔にうかぶ表情だったりもする。素で、幸せっぽい人、それが十代半ばまでのカズだった。今では、素で、困っているっぽい人、そんな顔つきの人になってしまったのだが。きっとその時には、いつも以上の微笑みのカズがいたことだろう。そんな日を境に、夏休みは始まった。
カズは部活のある平日の午前中は学校に通い続けた。そして、何も気付くことなどなかった。もう取り返しのつかない状況になってしまってから何かがおかしいことに気付いたのだが、それは、すでに二学期の始業式のことで、クラスメイトも他の組の生徒たちの多くも、どこかさげすむような、遠巻きにするような、せせら笑うような、そんな一学期とは違う距離感の中にカズを置いていて、それにカズは違和感を覚えたのだった。もともと、同学年の中でも発言力のあるポジションにいたわけではなかったためなのか、それは関係がないのか、判然とはしないが、生徒同士の力関係によるポジショニングのもっとも下のポジションへカズが転落させられたのは速かったようだ。カズは陰でストーカーと呼ばれていた。夏休みの間に、主だった生徒たちの間で、主にメールでそう噂を回されたらしい。夏休み直前に女生徒が窓から顔をのぞかせたとき、部屋の中に友だちの女生徒もいて、彼女が噂を始めたらしいのだが、そのことを知った時には、カズはもう完全に生徒社会の外においやられてしまっていた。
ぼくはカズと同じ高校に通っていて、そのときから、カズにしてみると唯一の友だちになったのだ。でも、それはぼくが大学へと進学するまでであり、それからぼくが卒業して帰郷するまでは、たまに電話やメールで言葉を交わしたり実家に戻った時には会ったりもしたのだけれど、カズはほぼひとりぼっちの日々を過ごしていた。噂にたいしては、ぼくにしてみても、そのような思い込みの強いまるで一方的な噂を元にする仲間はずれの行為を、ちょっとでも駆逐できなかったことが悔やみとして残っていながらも、大勢の人たちのそういう一方的な力の方向性を正そうとしても、一人や二人では、まるで象と相撲をとるくらい歯が立たないことを学び、それ以来、はからずも少数派としての所作を二人して身につけてしまった感があったりする。
ただ、その川原のたき火での告白の席で、茜が言ってくれた言葉が忘れられない。それがどれだけカズとぼくを慰める言葉だったか、心がぼうと熱くなったことを今でも覚えている。茜は我慢ならないかのように、でも、いつもの茜らしい東北言葉のイントネーションでこう始めた。
「それでストーカーだっていうの。ねえ、二人ともビートルズの『ノー・リプライ』って歌知らないかな」
カズはその歌を知っていたが、ぼくにはわからなかった。
「『ビートルズ・フォー・セール』の一曲目だね、覚えやすいメロディの歌。その歌がなんだっていうの」
そうカズが、なんだろう、という顔をして茜にたずねかえすと、彼女はさらに続ける。
「カズ、歌詞は読んだのかな。歌詞の内容が面白いんだけど」
「いや、英語の詞も、訳したものも読んでないなぁ。CDを聴いただけ」
それを聞き、茜は涼しげで美しい眼元の感じのまま、じっとカズを見据えて
「あの歌って、居留守を使った女の子を責める歌なの。それも、家にいることを外から目撃して、居留守だって断定してるんだよね、それも二度も。そんなの、歌詞の主人公の男が、女の子を疑って家の周りからずっと監視していたっていうことじゃない。裏を返せば、そういうことがわかるわけ。それこそ今でいえばストーカーなんて言われるかもしれないことだよね。でもね、そういう内容の歌が、六〇年代のイギリス、いやビートルズだから欧米や日本とかの先進国もなのか。そういった大勢の人がふつうに聴いてたわけ。歌詞の主人公の男がやってた行動はとりあえず受け入れられてたの。それが今じゃ、まあ、どうしようもないストーカーが実際にいるせいか、ひどいっていう方向に、ストーカー未満の行動さえくっつけられちゃったりしてさあ、ヒステリックっていうか、過剰っていうか、カズの場合はきっと面白がられてるんだよね、そんなのずっと気にすることじゃないよ。ビートルズのメンバーでもやってたかもしれないような、子どもの感覚が抜けきってない十代では自然って言えるような行動だよね。そういうわけだから、カズは苦しみすぎたよ、その苦しみにサヨナラしなさい」
と、その理由をぼくらに投げかけて、同時にやさしい言葉で包み込んでくれた。
まだ明るい時間帯のたき火ではあったけれど、炎はめらめらと眩しく燃えさかりながら揺らめいて、その揺らめきはつねに新しい形を作りだしてはまた形を変え、なんとなしに眺めているぼくらの心を退屈させないどころか落ち着かせもする。空は青く高く、薄く引いたような雲が流れていて、たき火の煙もそんな空にゆっくりと吸い込まれていった。
さて、茜のことを話したくてうずうずしている。なんといっても、ぼくらは本当に茜を好いているからだ。とくにぼくは――それはカズはどうなのかは知らないという意味において――セクシュアルな意味でも惹かれている。あの切れ長の澄んでいて鋭い眼、少し幅の狭い口のなまめかしさのある魅惑の唇、すうっと整った眉に、品のある小さな鼻、ショーットカットの黒い髪の毛、インディペンデントな印象を与える肩の水平なライン、全体的にすらりとしていても、存在感のある胸、ちゃんとくびれている腰、弾けてしまいそうな溌剌とした尻、長く真っすぐな脚。それだけはっきり彼女の外見的な素晴らしさを挙げることができながらも、実は、じろじろ、だとか、爪先から舐めるように、だとか、彼女の全身をくまなく見たことは恥ずかしさゆえにないのだけれど、それでも、「もうたまらない感じ」という言葉を使うのならば、彼女に対してだし、それはうんうんと納得するくらいぴったりくるとぼくは思っている。だから、たまにカズが茜と例の川原で、そこらに転がっている大きな石に腰をかけあいながら、気持ちよさそうに一緒に歌を唄っているのを目にすると、カズにはうっすらと嫉妬を覚えるのだが、同時に感じる《ほのぼの感》のほうがそれにまさってしまうので、「なんだよ、いいなぁ」と微笑んでしまうのだった。二人は『翼をください』がお気に入りの歌のようである。
茜は今二十一歳で、東日本大震災による原発事故の被害を避けるために五年前に福島県福島市からこの街に避難してきた。震災当時十六歳の高校一年生だった茜は、放射性物質の飛散に心臓を凍らせるほどの恐怖を感じた両親の意向で家族三人この街に避難してきたのだが、彼女本人は、地元に残った祖父母とともにそこに残りたかったらしい。けれども、両親はなかば強引に、そして、まだ原発事故の規模がどこまで拡大するのかわからない時期だったこともあり、その恐怖感から茜ともども故郷を去ることにしたのだ。ただ、その後、知ってのとおり事故は最悪の事態を免れ、福島市など避難区域外の空間放射線量は落ち着き、戻ろうと考えればまた故郷に戻れたのだが、その頃もまだ両親、特に母親は放射能を忌み嫌い、怖れ、さらにそれだけではすまず、精神面でも急にいらいらしたり泣きだしたりして不安定さを見せるようになってしまった。茜は擦り減った母親の神経をなだめるためにこの街に居続けている。荒涼とした母の心の大地に、また川が流れますように、草木が育ちますように、そう祈りながら、日々を送っている。
そして、何もないという意味において、純然とした田舎たるこの街では「あの」福島から来た人間だからという理由で、特に同世代から彼女は好奇の目でみられるようになり、それでは済まずにだんだん差別的な目でみられるようになってしまった。「あの」事故のさなかに、街を歩いていたんだって、それって放射能を浴びたってことだよね、と。それは放射能への忌避だけではなしに、そこに茜の美貌への同年代の女の子たちの強い妬みが介在したがゆえの差別でもあったのではないだろうかとぼくなんかは思っているのだが。そして、その年代の女の子たちの持つ特有の権力にかしずかされるように、男の子たちも、本当ならば茜と屈託なくしゃべったり仲良くしたりしたかったに違いないのに、誰が茜のキスを奪うかの競争だって始めたかっただろうに、冷たくつっけんどんに、あるいは無視を決めこんだ接し方をしたようだ。そんな状況にいたので、茜もまたカズのように、なんとか高校に通い続けて卒業証書を手にした後には、就職もせず、なんとなく引きこもりがちの生活を送るようになってしまっていた。
ぼくとカズの良かったところは、原発事故発生当時から、いろいろと情報をネットで取り続けたことにあり、錯綜する放射能関係の情報のどれを信頼するかについて、客観的な事実のデータを元にして情報を発信している人たちの情報をまず優先順位の一位とし、さらに除染の取り組みや農作物や水産物などの放射線検査の結果を、あまり多くではなかったけれどもネットで閲覧するようにして、そうしているうちに見えてきた、信頼できる専門家や有識者や被災地の人たちの、各々のツイッターやブログなどで発信する言葉を摂取することで、放射能を怖がり過ぎずに意識することができた点にある。ぼくとカズはそれぞれで得た情報を逐一、主にメールで伝えあい、それぞれに自身のパソコンでチェックしなおすというようなことをしてきた。そして、これだと思うような本も何冊か読んだのだが、そういう種類の本はとてもありがたかった。だから、放射能はとても嫌な存在なのだけれど、伝染病のように人から人へうつるなんていう一部で持ちあがった噂を即時否定することができたし、スーパーで福島産の桃が売られ始めたときに、応援する気持ちで買って食べ、そのおいしさにあらためて驚くこともできたし、出荷にこぎつけた農家の人たちが流した汗と涙を感じることもできた。それについては、おめでたい、という人もいるだろう。放射線検査についても懐疑的な見方をする人たちだ。だけど、ぼくらは、それを信じることにしている。はてしない疑心暗鬼に陥ってしまうことこそを、ぼくらは心配した。ぼくもカズも無職で、家に居てなにもすることがないから情報収集をしていたという理由もあるのだが、それにしたって、あの当時のあの震災のインパクトに突き動かされざるを得なかった感覚は忘れることができない。なにかできることはないのか、被災者の力になりたい、でも、なれないし、やれることも何も思い浮かばない。状況把握に努めるだけで精一杯で、そのわりに把握しきることはできなかったのだが、そうやって、東北、ひいては福島に感情移入をして情勢をみてきたことが、茜との出会いを生んだのかもしれない。
自治体主催の就職支援セミナーにカズと二人で参加したときに、休憩時間にこの街の情報専用の掲示板があるという話になって、そこで、福島から避難してきた人を悪く言う書き込みがあったことを、目を吊りあがらせながら非難していたら、たまたまぼくらと三人一組になって、小売サービス業の接客の仕方のシミュレーションをこなしていたのが茜で、彼女はそのとき、
「わたしのことなんだ、それ」
と短くすばやい口調で話に入ってきた。
ちょっと自分たちを卑下するかのような言い方になるけれど、ぼくらにはたぶん一生縁がなさそうにすら思える、とびきり美しい女の子と、その瞬間からお互いを大切に思い合う仲間になったのだった。そして、ついでに言うと、ぼくら三人はみんなひとりっ子だった。ひとりっ子同士で通じ合うものって、うまく言えないけれどなにかしらあって、それは自分たちの性格に通底するものだったりする。茜とぼくら二人がこんなにも仲良くなれたのには、そんなひとりっ子気質の部分にも関係しているものがあるのかもしれない、と思っている。
観光物産館でのアルバイトを始めてからおよそひと月がたった。今日もいつもながらにほどよく忙しく――つまり、少し余裕残しの、それゆえの充実感を感じるような忙しさで――退勤した今、まだ明るい空を見上げながら、ふうと息をつく。
二十八歳にしてアルバイトの、ぼくがやっているのはどんな仕事か、ちょっと興味を持ってもらうことにして、その説明をすると、朝は午前八時までを目安に自宅の家から自転車にまたがって、終いには上り坂で息を荒げながら、トータル三十分くらいをかけて出勤する。息が整うのを待たずに店に入れば、まず「あぁ、今日も始まるなあ」と、わくわく感のある甘い緊張感の中でエプロンをまとい、それからタイムカードを機械に通して、すぐさま午前九時の開店前までに終えなければならない品出しを始める。それはたとえば北海道ならではの、かわいらしい小熊のキャラクターや勇ましいサラブレッドの彫り物をした金属片がついた昔ながらのキーホルダー、そして、とうもろこしやじゃがいもなんかを菓子製品化したものや缶詰や粉末のスープにした加工品、エゾシカやキツネなどの動物のぬいぐるみ、などなど代表的なものはこれらだが、商品の種類はもっと多様で、全国的な広い視野でみれば個性的に間違いはないのだけれど、道民として落ち着いて見回せばどこの北海道の物産館でも売っていそうなものばかりだったりする。ぼくも初めこそ、多彩な商品のカラフルさに気分が明るくなりながら仕事をしていたのだが、一週間もしないうちにはやくも見飽きてしまい、それと同時に棚や台などのそれぞれの商品の定位置を、なんとなくではあるが意識せずに覚えてしまった。
週に一度、月曜日にだけ短い朝礼がある。しかし、いくつになっても人前で話すことが得意ではないらしい社長の幾分紅潮した笑顔から発せられる挨拶や訓示の最後の文句である
「・・・今日も一日、スマイルを忘れずに。スマイルあるところに幸せとお客さまはやってきます。それではみなさんよろしくお願いします。以上です」
というのはどうやら毎度の決まり文句のようで、そこの箇所だけは慣れた感じで声の抑揚と発音のスピードが明らかに違って、こなれている。聞き慣れてくると、その最後の文句には、労働意欲を高めるスイッチを押してくれる何かしらの力が宿っているのかもしれない、と不思議に思えてくるほど、
「さて、やるかっ」
とこれから始まる一日に向けて、なぜだかボルテージがあがる効能があるのだった。
売っているものの中には初めてここに来てぱっと館内を見渡した人ならば、おもしろいなあ、と感じるであろうものが多いと思うので、そういった商品の魅力で商売の勝負をするものなのだろうと思いながら、それまで警備員しかしたことがなくて客商売は初めてだったぼくはしばらく仕事をこなしていた。そのせいなのか、ちょっと働く気持ちが商品任せになっていて、ぼんやりしていたところがあったのだが、それが違うということは、最近になってだんだんわかってきたところでもある。それは社長の言うように、商品力よりも、従業員たちがお客さんによい印象を与えながら接客することのほうが大事らしいということだった。そしてそれは今のところ正しいと思っている。
そうやって、物産館が開店しているときはあらかた館内にいて接客したりレジを打ったりしているのだけれども、ときおり、
「有田君、ちょっと」
と事務室のほうに呼ばれ、パソコンの表計算ソフトで、レジのコンピュータが自動生成した、商品名と数値の羅列の、荒い表を清書するのを頼まれてやる。自分の個人のパソコンではインターネットやメールをすること、そしてアイチューンズで音楽を管理することばかりやってきていたので、正直、その表作りの仕事をしてほしいと言われたときは、できる気がせず若干血圧が下がったような、力が抜ける気さえした。だってソフトの操作も画面に表示される多数のアイコンの意味も、異世界の地図のように全く解読できないのだから。でも、事務長は
「初心者でも大丈夫だから」
と、これを見ながら少しずつできるようになってほしい、と笑顔で、図解入りの入門書を貸してくれた。これはぼくにとって重要なアイテムだ。こうしてぼくは、いささか頼りなげな船に乗っているような船乗りのようではあっても、《表計算ソフトの大洋》という深く広大な大海原に漕ぎだすための重要なアイテムであるコンパスを入手し、新発見の陸地を見つけながら、そこで得た特産品や宝石などに相当する、きれいに罫線で仕切って整えた商品販売個数表を中心とする二、三種類の表を、誇らしげではあるのだけれど、そこは謙虚になんでもない感じでその都度、事務長に提出するのだった。
繰り返しになるが、ぼくは今年の四月で二十八歳になった。名前は有田虹矢で、二人の仲間はぼくをニジと呼ぶ。子どもの頃は、レイン坊などと呼ばれたこともある。でも、このあだ名はかっこう悪いと思っていて好きじゃなかった。札幌の私立大学を卒業してからまもなく地元に戻ったが、あまりぱっとしなかった成績が暗喩するかのように、それからいままでたいした職歴も無い。この観光物産館のアルバイトに就くまでにも、仕事をしていない期間は二年半くらいもあった。
こんな身にはよくあることなのだけれど、いったい何になりたいのか、お金を稼ぐ気はないのか、そういうことを両親や親戚などから、折をみて叱責のように言われたことが何度かある。そういうときには、本当に済まないような気持ちになったし、意欲のない自分を責めたりもした。しかし、しょうがないとしか言えないのだ。もちろん、不利な条件として、あふれんばかりであってほしかった求人だっていくらでもあったわけじゃないし、目移りするようにさまざまに、極彩色のように輝いていてほしかった職種も限られていた。まあ、でも、これらはいいわけにすぎないとは思う。ただ、言うに事欠いて言うわけではないのだけれど、とにかく自分が働くというイメージがまったくつかめないのだから、そもそもの一歩すら運べない。いやいや、目をつむってでも一歩進めれば、イメージが湧いたのかもしれない、だが、その輝ける勇気を、ぼくは残念ながら眩しく光る砂金の一粒ほども持ち合わせていなかった。何になりたいのか、お金をどんどん稼ぎたくないのか、ぼくへの好意から言っているのだとするそういった問いを浴びせられても、まるで好みじゃない柄のハンカチをプレゼントされて、それを持ち歩かなければならないときのように、自分となじむ感じがしない。自分自身と現実とのズレを感じてしまう。
では、どうしていきなりアルバイトを始めたのか。それは、幼馴染のカズこと鈴井和夫のある一言に端を発するアイデアに拠るのだけれど、そのアイデアについてはまた後で語ることにしよう。その前に、カズ自身のこととぼくとの関係、そして忘れちゃいけないもう一人の大事な仲間、本堂茜について語りたい。
カズは巨漢の主である。それも横幅のほうに特化した、すれ違う人たちの目を強く引くようなタイプの、ぼくと同い歳の男だ。かわいそうなのはそのような巨漢でありながら気が弱いというところにあって、例えば道を歩いていてじろじろという他人の視線を感じ取ると、それだけでもう、もじもじとどんどん下を向きはじめてしまう。巨漢によくある汗っかきでもあるので、そのもじもじした状態が長い間続くと、さらにそれが女性の視線によるものだったりすると、じゅわあっと大量の汗をかいてしまい、その汗をかいている自分を、よせばいいのにさらに俯瞰的な意識上の視点で、《おかしな自分》として見つめてしまって余計に恥ずかしくなり、さらにさらに汗をふきださせてしまう。そのさまは、はた目で見ていると、気の毒以外のなにものでもない。だから、人の目が気になってしまうカズは必要以上に外に出ることはなかった。家に引きこもりがちなのだ。そして無職の状態が続いている。何も、生来の、重症的気弱さではなかった。それは高校時代のある事件がきっかけになっている。
その事件については、川原でカズと茜とぼくとでたき火を囲んでいる時に、ぼくはほとんどのことは知っていたのだが、茜のためにカズ本人の口から、ゆっくり、途切れ途切れに、迷いながら、ときに震えすらした言葉によって伝えられた。
高校一年生の時に、身体のごつい先輩たちにスカウトされるがまま柔道部に入部したカズは、夏休みを迎えるまでにある女の子に、厳密には彼女の吹くフルートの音に恋をした。片思いの恋と言えるかどうか、よくわからない。その女の子は、過疎化が進み生徒数が年々少なくなっていくこの街唯一の高校の廃部寸前になってしまっていた吹奏楽部に所属する女生徒で、B組のカズとはクラスが違ったのだが、同じ一年生だった。その女生徒の家は高校から徒歩で通える場所にあり、カズはバスで自宅から通学していた。というか、そのバス停と女生徒の家とは一〇〇メートルも離れていないような近距離の、いわば同じ町内で班分けするならば同じ班に入るくらいの近い範囲内に存在していた。
それは夏休み目前のある日のことだったが、バスを待つ部活帰りのくりくりの坊主頭のカズは、何件か立ち並ぶ二階建ての家々の一つの二階の部屋の内の、その窓の網戸から濾すように出てきた、フルートの奏でる旋律を聴いた。それはところどころで音が止まる、まだその楽曲に馴染んでいない練習したてのものであることがうかがえるものだった。音色が流れているのを聴くとき、それはカズにとってとても心地よかったようだ。時折、音が途切れると、はっと現実に引き戻される気がして、そしてまた音が鳴り出すと、ふかふかの羽根布団に身体を預けているときのような柔らかな幸福感に見舞われたんだ、とカズはたき火の中に小さな木の枝を放りこみながら懐かしんだ。そういう日が何日か続き、一度、その女生徒の家の前までいって、そのときも流れていた音色に耳を傾けてしまったことが、物事の明暗を分けた。好きになった女生徒の吹くフルートの音色にうっとりしていると、何気なくその音が途絶えて女生徒が窓から顔をのぞかせた瞬間があった。そしてその眼下に、丸くたたんで帯を巻いた柔道着を肩から背中に下げ、微笑みを浮かべながら立っていたカズがいた。カズの微笑みは、実は彼の素の顔にうかぶ表情だったりもする。素で、幸せっぽい人、それが十代半ばまでのカズだった。今では、素で、困っているっぽい人、そんな顔つきの人になってしまったのだが。きっとその時には、いつも以上の微笑みのカズがいたことだろう。そんな日を境に、夏休みは始まった。
カズは部活のある平日の午前中は学校に通い続けた。そして、何も気付くことなどなかった。もう取り返しのつかない状況になってしまってから何かがおかしいことに気付いたのだが、それは、すでに二学期の始業式のことで、クラスメイトも他の組の生徒たちの多くも、どこかさげすむような、遠巻きにするような、せせら笑うような、そんな一学期とは違う距離感の中にカズを置いていて、それにカズは違和感を覚えたのだった。もともと、同学年の中でも発言力のあるポジションにいたわけではなかったためなのか、それは関係がないのか、判然とはしないが、生徒同士の力関係によるポジショニングのもっとも下のポジションへカズが転落させられたのは速かったようだ。カズは陰でストーカーと呼ばれていた。夏休みの間に、主だった生徒たちの間で、主にメールでそう噂を回されたらしい。夏休み直前に女生徒が窓から顔をのぞかせたとき、部屋の中に友だちの女生徒もいて、彼女が噂を始めたらしいのだが、そのことを知った時には、カズはもう完全に生徒社会の外においやられてしまっていた。
ぼくはカズと同じ高校に通っていて、そのときから、カズにしてみると唯一の友だちになったのだ。でも、それはぼくが大学へと進学するまでであり、それからぼくが卒業して帰郷するまでは、たまに電話やメールで言葉を交わしたり実家に戻った時には会ったりもしたのだけれど、カズはほぼひとりぼっちの日々を過ごしていた。噂にたいしては、ぼくにしてみても、そのような思い込みの強いまるで一方的な噂を元にする仲間はずれの行為を、ちょっとでも駆逐できなかったことが悔やみとして残っていながらも、大勢の人たちのそういう一方的な力の方向性を正そうとしても、一人や二人では、まるで象と相撲をとるくらい歯が立たないことを学び、それ以来、はからずも少数派としての所作を二人して身につけてしまった感があったりする。
ただ、その川原のたき火での告白の席で、茜が言ってくれた言葉が忘れられない。それがどれだけカズとぼくを慰める言葉だったか、心がぼうと熱くなったことを今でも覚えている。茜は我慢ならないかのように、でも、いつもの茜らしい東北言葉のイントネーションでこう始めた。
「それでストーカーだっていうの。ねえ、二人ともビートルズの『ノー・リプライ』って歌知らないかな」
カズはその歌を知っていたが、ぼくにはわからなかった。
「『ビートルズ・フォー・セール』の一曲目だね、覚えやすいメロディの歌。その歌がなんだっていうの」
そうカズが、なんだろう、という顔をして茜にたずねかえすと、彼女はさらに続ける。
「カズ、歌詞は読んだのかな。歌詞の内容が面白いんだけど」
「いや、英語の詞も、訳したものも読んでないなぁ。CDを聴いただけ」
それを聞き、茜は涼しげで美しい眼元の感じのまま、じっとカズを見据えて
「あの歌って、居留守を使った女の子を責める歌なの。それも、家にいることを外から目撃して、居留守だって断定してるんだよね、それも二度も。そんなの、歌詞の主人公の男が、女の子を疑って家の周りからずっと監視していたっていうことじゃない。裏を返せば、そういうことがわかるわけ。それこそ今でいえばストーカーなんて言われるかもしれないことだよね。でもね、そういう内容の歌が、六〇年代のイギリス、いやビートルズだから欧米や日本とかの先進国もなのか。そういった大勢の人がふつうに聴いてたわけ。歌詞の主人公の男がやってた行動はとりあえず受け入れられてたの。それが今じゃ、まあ、どうしようもないストーカーが実際にいるせいか、ひどいっていう方向に、ストーカー未満の行動さえくっつけられちゃったりしてさあ、ヒステリックっていうか、過剰っていうか、カズの場合はきっと面白がられてるんだよね、そんなのずっと気にすることじゃないよ。ビートルズのメンバーでもやってたかもしれないような、子どもの感覚が抜けきってない十代では自然って言えるような行動だよね。そういうわけだから、カズは苦しみすぎたよ、その苦しみにサヨナラしなさい」
と、その理由をぼくらに投げかけて、同時にやさしい言葉で包み込んでくれた。
まだ明るい時間帯のたき火ではあったけれど、炎はめらめらと眩しく燃えさかりながら揺らめいて、その揺らめきはつねに新しい形を作りだしてはまた形を変え、なんとなしに眺めているぼくらの心を退屈させないどころか落ち着かせもする。空は青く高く、薄く引いたような雲が流れていて、たき火の煙もそんな空にゆっくりと吸い込まれていった。
さて、茜のことを話したくてうずうずしている。なんといっても、ぼくらは本当に茜を好いているからだ。とくにぼくは――それはカズはどうなのかは知らないという意味において――セクシュアルな意味でも惹かれている。あの切れ長の澄んでいて鋭い眼、少し幅の狭い口のなまめかしさのある魅惑の唇、すうっと整った眉に、品のある小さな鼻、ショーットカットの黒い髪の毛、インディペンデントな印象を与える肩の水平なライン、全体的にすらりとしていても、存在感のある胸、ちゃんとくびれている腰、弾けてしまいそうな溌剌とした尻、長く真っすぐな脚。それだけはっきり彼女の外見的な素晴らしさを挙げることができながらも、実は、じろじろ、だとか、爪先から舐めるように、だとか、彼女の全身をくまなく見たことは恥ずかしさゆえにないのだけれど、それでも、「もうたまらない感じ」という言葉を使うのならば、彼女に対してだし、それはうんうんと納得するくらいぴったりくるとぼくは思っている。だから、たまにカズが茜と例の川原で、そこらに転がっている大きな石に腰をかけあいながら、気持ちよさそうに一緒に歌を唄っているのを目にすると、カズにはうっすらと嫉妬を覚えるのだが、同時に感じる《ほのぼの感》のほうがそれにまさってしまうので、「なんだよ、いいなぁ」と微笑んでしまうのだった。二人は『翼をください』がお気に入りの歌のようである。
茜は今二十一歳で、東日本大震災による原発事故の被害を避けるために五年前に福島県福島市からこの街に避難してきた。震災当時十六歳の高校一年生だった茜は、放射性物質の飛散に心臓を凍らせるほどの恐怖を感じた両親の意向で家族三人この街に避難してきたのだが、彼女本人は、地元に残った祖父母とともにそこに残りたかったらしい。けれども、両親はなかば強引に、そして、まだ原発事故の規模がどこまで拡大するのかわからない時期だったこともあり、その恐怖感から茜ともども故郷を去ることにしたのだ。ただ、その後、知ってのとおり事故は最悪の事態を免れ、福島市など避難区域外の空間放射線量は落ち着き、戻ろうと考えればまた故郷に戻れたのだが、その頃もまだ両親、特に母親は放射能を忌み嫌い、怖れ、さらにそれだけではすまず、精神面でも急にいらいらしたり泣きだしたりして不安定さを見せるようになってしまった。茜は擦り減った母親の神経をなだめるためにこの街に居続けている。荒涼とした母の心の大地に、また川が流れますように、草木が育ちますように、そう祈りながら、日々を送っている。
そして、何もないという意味において、純然とした田舎たるこの街では「あの」福島から来た人間だからという理由で、特に同世代から彼女は好奇の目でみられるようになり、それでは済まずにだんだん差別的な目でみられるようになってしまった。「あの」事故のさなかに、街を歩いていたんだって、それって放射能を浴びたってことだよね、と。それは放射能への忌避だけではなしに、そこに茜の美貌への同年代の女の子たちの強い妬みが介在したがゆえの差別でもあったのではないだろうかとぼくなんかは思っているのだが。そして、その年代の女の子たちの持つ特有の権力にかしずかされるように、男の子たちも、本当ならば茜と屈託なくしゃべったり仲良くしたりしたかったに違いないのに、誰が茜のキスを奪うかの競争だって始めたかっただろうに、冷たくつっけんどんに、あるいは無視を決めこんだ接し方をしたようだ。そんな状況にいたので、茜もまたカズのように、なんとか高校に通い続けて卒業証書を手にした後には、就職もせず、なんとなく引きこもりがちの生活を送るようになってしまっていた。
ぼくとカズの良かったところは、原発事故発生当時から、いろいろと情報をネットで取り続けたことにあり、錯綜する放射能関係の情報のどれを信頼するかについて、客観的な事実のデータを元にして情報を発信している人たちの情報をまず優先順位の一位とし、さらに除染の取り組みや農作物や水産物などの放射線検査の結果を、あまり多くではなかったけれどもネットで閲覧するようにして、そうしているうちに見えてきた、信頼できる専門家や有識者や被災地の人たちの、各々のツイッターやブログなどで発信する言葉を摂取することで、放射能を怖がり過ぎずに意識することができた点にある。ぼくとカズはそれぞれで得た情報を逐一、主にメールで伝えあい、それぞれに自身のパソコンでチェックしなおすというようなことをしてきた。そして、これだと思うような本も何冊か読んだのだが、そういう種類の本はとてもありがたかった。だから、放射能はとても嫌な存在なのだけれど、伝染病のように人から人へうつるなんていう一部で持ちあがった噂を即時否定することができたし、スーパーで福島産の桃が売られ始めたときに、応援する気持ちで買って食べ、そのおいしさにあらためて驚くこともできたし、出荷にこぎつけた農家の人たちが流した汗と涙を感じることもできた。それについては、おめでたい、という人もいるだろう。放射線検査についても懐疑的な見方をする人たちだ。だけど、ぼくらは、それを信じることにしている。はてしない疑心暗鬼に陥ってしまうことこそを、ぼくらは心配した。ぼくもカズも無職で、家に居てなにもすることがないから情報収集をしていたという理由もあるのだが、それにしたって、あの当時のあの震災のインパクトに突き動かされざるを得なかった感覚は忘れることができない。なにかできることはないのか、被災者の力になりたい、でも、なれないし、やれることも何も思い浮かばない。状況把握に努めるだけで精一杯で、そのわりに把握しきることはできなかったのだが、そうやって、東北、ひいては福島に感情移入をして情勢をみてきたことが、茜との出会いを生んだのかもしれない。
自治体主催の就職支援セミナーにカズと二人で参加したときに、休憩時間にこの街の情報専用の掲示板があるという話になって、そこで、福島から避難してきた人を悪く言う書き込みがあったことを、目を吊りあがらせながら非難していたら、たまたまぼくらと三人一組になって、小売サービス業の接客の仕方のシミュレーションをこなしていたのが茜で、彼女はそのとき、
「わたしのことなんだ、それ」
と短くすばやい口調で話に入ってきた。
ちょっと自分たちを卑下するかのような言い方になるけれど、ぼくらにはたぶん一生縁がなさそうにすら思える、とびきり美しい女の子と、その瞬間からお互いを大切に思い合う仲間になったのだった。そして、ついでに言うと、ぼくら三人はみんなひとりっ子だった。ひとりっ子同士で通じ合うものって、うまく言えないけれどなにかしらあって、それは自分たちの性格に通底するものだったりする。茜とぼくら二人がこんなにも仲良くなれたのには、そんなひとりっ子気質の部分にも関係しているものがあるのかもしれない、と思っている。