Fish On The Boat

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『約束された場所で』

2015-04-03 01:45:15 | 読書。
読書。
『約束された場所で』 村上春樹
を読んだ。

オウム真理教による1995年の地下鉄サリン事件。
その被害者の方たちのインタビューを集めたのが
前作『アンダーグラウンド』でした。
今作はオウム信者、元信者の方たちのインタビューを集めたものです。
巻末には河合隼雄氏との対談が二本おさめられていました。

読んでいてもっとも大きく感じたのが、
オウム信者(元信者)の人たちに自分の影を見るかのようだったこと。
生まれてくるのがもっと早かったら、
ぼくも危なかったかもしれないなと思う部分もある。
精神世界に興味がありながらちょっとふらりとしていたら、
オウム真理教に取り込まれるということ。

教祖の麻原は宗教家としてはすごかったと言われている。
言っているのが信者だからと、信者を頭が弱い人扱いして
「すごくなんかないさ」と言い切る人もいそうだけれど、
この本を読んでいると信者の人もちゃんと知恵や知識を持っていて、
その言葉は信用に足ると思えた。
そして、その信用に足る言葉で語られる麻原の人物像には、
たしかに凡人ではないカリスマ性と宗教家そして
ヨガの指導者としての秀でた資質を感じさせられるのでした。

オウム信者の人の言う言葉で気になったのが、
「現実世界には合わないから」というもの。
そういう概念で考えちゃったらどんどん浮世離れしていく。
生きにくいけれど、少しずつ生きやすい世の中にしていけたらというように、
現実から足を抜かないことが大事だったんじゃないかと、
読んでいた100ページ目くらいまでは思った。
しかし、その後、「救済」という教義のひとつに触れることになって
事態はもっと込み入っていたのだなと気づきました。
現実に合わないから理想郷であるオウム真理教に入っていった人々が、
修養して精神的に高いステージ入っていって、
自分が解脱者となったならば、
今度は救われなくて煩悩の塊であるふつうの人々を救おうとする。
それが、サリン散布という形で、
来世や死後の世界という概念に基づく、
殺人さえも救済としてしまう教義が実行されてしまった。

また、まえがきで春樹さんが書いている、
メインストリームからこぼれる人々をつかまえるサブ的なものが
日本には決定的に書けているというような話。
セーフティネットが無いから、
こぼれた人を新興宗教などが取りこんでしまったりする。
河合隼雄さんが対談で述べていますが、
何故こぼれおちる人々がでてきたかというと、
社会がどんどん煩悩を肯定する社会へと進化してきたからだということ。
享楽的で快楽的なものを追求し、合理的にそれらが行われる社会へと
変化してきた。そして、大多数の人々はそれで
「豊かになった」「便利になった」「楽しくなった」と感じるようになったのだが、
そうではなく逆に苦しくなる人々も、
当たり前だけれど、人間は多様なのだからいたわけです。
そういったこぼれおちる人々を作る社会にしていきながら、
そういう社会にしていった人々が、
そこに対応できない人々を排除しようするのは間違っているでしょう。
傲慢すぎるし、いろいろと問題があると思うし、感じられる部分もある。
だからこそ、今後オウム的なものがでてこないようにするための
方策の一つとしては、そういった人々のセーフティネットを作ること、
あるいは、マジョリティとなっている社会のシステム自体を変化させることが
大事になっていきます。

オウムはまだ存続していますが、
サリン事件などをきっちり清算しきれていないまま
存続しているのが問題だという話には賛成。
ああいう暴力が出てきたその原因を、
さっきもちらと書いたけれど教義なりシステムなりが内包していたと考えるべきだし、
実際にそうであって、それを洗い出して反省してやり直すという過程を踏んでいない。
教団内部のシステムを見つめ直さずに大元のところを変えずにまだ続いているというのは、
これからまたあのサリン事件的な逸脱へと転がっていく可能性が
払しょくできていないということになる。

なにがその人をオウムへ入信させたかを考えると、
通底する何かとしては、ものをよく考えすぎて、
その結果、社会へ溶け込みにくくなったというのがあげられると思いますが、
うまく言えないけれど、ぼくには、
その人間の、どこに死角があるかが大きく運命を左右する、
ということのようにも読めたのです。
何が見えていないかで、その人の運命が左右されたのではないかと。
そして、オウムはある種の死角を突いてくる性格を持っていたのではないかなと
思った次第です。

さらに、ちょっと話は変わりますが、
オウム真理教では自己を失くすことを目標としている教義があったらしい。
これは仏教に詳しいみうらじゅんさんも似たようなことを言っていて、
自分探しじゃなしに自分失くしこそが救いだっていうように言っていた。
でも、共通しているように見えるけれど違いはある。

オウム真理教では、自己を失くせといっていおきながら
その失くす自己をグル(教祖)に委ねさせる。
果てに、サリン事件の実行犯たちのようにグルの思いのままの
マインドコントロールとも言われた状態の人もでてきた。

本書に出てきた元信者の人によると、
自己失くしというのは仏教のなかにはないということでした。
逆に、自己あってこそらしい。
みうらじゅんさん的仏教解釈とはまるで逆なので、
どっちが正しいのかって思ってしまう。

自分探しよりか、自分失くしのほうが生きやすいのはわかるけれど、
失くした自己を誰かに掴まれてコントロールされたらどうなるかわかったもんじゃない。
矛盾して聞こえるけれど、自己を持ちつつ自己を捨てる勇気を持つことが、
わかりにくいけども生きやすさに繋がるのでしょう。

共感じゃないけれど、
信者や元信者の言うことには自分を重ねて思うことも多かったです。
ただ、決定的に、なにか、彼らは自分とは違う死角を抱えているような気はしました。
そして、巻末の対談では河合隼雄さんの言うことはズバンと本質を突いていて、
やっぱりすごいなと得心して読んでしまいました。


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