Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『虹かける』第三話

2015-04-14 00:01:00 | 自作小説3
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 神社で三人で会った日から、つまり、あのとき茜に会ってからだんだんと、そして今では彼女の魅力のために抑えがたいくらいの性衝動を感じるようになっていた。少しずつ貯まってきたお金はもちろんこれから大勝負するときのための資金になるわけだけれど、ちょっとくらい使ってもいいだろうという気にさえなってきた。それも、ススキノの風俗店へ行ってすっきりするために使いたかったのだから、かなり性欲に囚われている。そんなものだ、男なんて。
 思えば、大学時代に、ゼミの仲間から人数合わせのために呼ばれた合コンで知り合った二つ年上の准看護師の女性とセックスをして以来、女の素肌に触れていない。その女性はとても話のしやすいタイプで、男に慣れているような口のきき方と笑い方をした。その場で強気になって食事に誘ってみたらほとんど逡巡もせずにオーケーをくれて、その食事の夜には簡単に部屋までついてきて、そして寝た。ぼくの性器を含んだ口の中の吸いつく感覚、先端を撫でる舌先の感触が強い印象として残っている。そして行為にうつって、絶頂を迎え射精したときの満足感というか達成感というか、気の抜けるようなやり遂げた感じは、自慰の時よりも何倍も強かったし、そこで得られた満ち足りた癒しの感覚は他では味わえないようなものだった。できることならば、あのたまらない感覚をたまらない茜と味わいたい。茜とだったら、きっと、人生で一番の快感を得られそうだし、同時に彼女にもそういった気分を与えてやりたいと思った。
 でも、たぶん、ぼくが茜に告白したならば、その瞬間から、ぼくら三人の仲間関係からは、瓦解を決定づけるように親密さという大切な要素が失われて、壊れていくような気がする。そして、仲間関係が壊れたならば、それから茜との行為によって性欲を満たされることもあるまい。そう考えて、やはり今のままの関係をとりあえずは維持していく方がいいのだろうな、と性欲にがんじがらめの頭で計算してみたりした。そんなわけだから、計算してみても、勃起はなかなか収まらなかった。

 そんな撞着したような日々を経てなのだが、七月の下旬になってからぼくは二人にメールを入れて、休みの都合がつく日に例の川原でジンギスカンをやろうじゃないか、と持ちかけた。仕事の様子などの近況もききたいし、との文言も添えて。どうしても茜と同じ空気の中に居たくてしょうがなかった。いや、空気になって茜に吸い込んでもらって体内に入りたい、くらいの、十人が聞いたら十人すべてに気持ちが悪いと言われてしまうような、本当に変態的な心理状態にも片足を突っ込んでいるほど、彼女をつよく切望していた。だからといって、二人だけで会うとぼくとしては相当気まずい。ひとり昂った気分でなにか変なことを言ってしまって、茜に怪訝な顔をされてしまうかもしれないし、その可能性はたぶんに高いと思えた。なので、気やすく茜と接しているカズの存在は不可欠だったし、カズに対してだって会って話をしたい気持ちはあるわけで、そう考えると、やっぱり三人の仲間なのかなあという気がしてくる。ぼくの性欲はなんとかしてぼかしておいて、とにかく食べて喋ってを楽しもうという気持ちのほうに変化してきた。せっかく三人してお金を稼いだのだから、ストイックを気張らずに、目的の前に少しくらい楽しんだっていいだろう。ほどなくして二人から休みの日取りを書いたメールが届く。茜もカズも、土日の二日間が休みだった。
 ということはぼくの休みが問題だ。商売柄、なるべく土日は休まないようにと言われている。でも、このジンギスカンの会なんていうのはよくある集まりというわけではない、滅多にない機会だ。それでなくても、自分はアラサーと呼ばれる年齢になっており、心構えもなくあっという間に三十代に入っていくのだと思われる。大事な仲間と三人だけでジンギスカンをして、そのままたき火を囲んで喋りながら夜を明かすという経験をせずに、どんどん歳を取っていって、そのまま同じような機会に恵まれずに、そのうちそういうことを出来ないような状態になっていくことだって考えられる。それは空しい生き方だとは思わないか。できるかできないかわからない未来よりか、今できるというその「今」を大事にするべきなんじゃないだろうか、と、なんとか休みを取る方向へと思考が傾いていった。「今」を大事にしよう、なんて他人から、それも上から目線で働きかけられることもあるけれど、ぼくはそういう他律的な意味での「今」を大事にするようなことはちょっと違うと考えているところがある。やっぱり自分から感じる、「今」なんだ、という気持ちに従うという自律的なやり方が、本当に心から誇れるような自分自身の生き方なのだろうし、その生き方にこそ責任というものだってはっきりと持てるものなのだと思う。とにかく、大事な「今」だ、というように考えが落着して、ぼくは次の日店長に、言いにくかったのだけれど
「どうしても、仲間とこういう催しは初めてなので」
とお願いして、八月最初の日曜日を休みにしてもらった。繁忙期である、子どもたちが夏休みの日曜日を休むなんて、まったく空気を読まないというか、他の人たちに迷惑をかけてしまう行為なのだけれど、馬券計画のために思いがけずやってきた、それまで長く引きこもりがちだったぼくらにとっては帰ってきた青春、もしくは遅れてやってきた青春のように感じられるものを久しぶりに体験することを、労働の神様がいたなら、よく頑張ってやってるからご褒美だ、ときっと許可してくれるものだと我田引水に想定することでなんとか気持ちを整理した――とそんな心の動きをちょっと客観視してみると、自分はけっこう奉公するタイプなのだな、とそのとき思い当たることになった。こんな性格だと、もしも過重労働を強いる会社に就職してしまったら骨までしゃぶられるかもしれないとぞっとしたのだが、ぞっとしておきながらも、そんなことになったらすぐに辞めるだろうな、根性ないし、と気が付いて、どろりとした生ぬるさが心を覆っていったのだった。

 集まる当日の土曜日は、三時半までの仕事なので、退勤してから一度帰宅し、着替えなどを済ませて五時に川原に行くことになっていた。そんな都合だったから、茜とカズには事前に、肉とか野菜とか飲みものとかジンギスカン鍋とかの買いだしをしてもらった。自転車で川原に向かう途中、きっと茜たちはもう焚きつけたたき火を囲んで、いつものように歌を唄っているんだろうな、今日はなにを唄っているのだろうかと想像し、楽しさとうらやましさが一緒になって頭と身体いっぱいに張りつめてきて、それによってペダルを漕ぐ足にいっそう力がみなぎって回転を速めた。
 だが、着いてみると、予想とは裏腹に、二人はそれぞれうつむいて黙りこくり、折り畳み式のイスにちょこんと鎮座している。なんだ、喧嘩かな、と心配になって、それまでの楽しさとうらやましさが、パンクしたタイヤから漏れ出る空気よりもずっと速く、しゅうしゅうと音を立てる間もなくその光景を見るやいなや直ちにぼくから抜けていった。
「お、お、おう」
と、どもりながら声をかける。茜は何も言わずに手を挙げてこちらを見る。カズはやや遅れて、
「おつかれさん」
とかすれた声を出した。
「なんか、静かじゃないか。喧嘩でもしてるの」
とおそるおそる訊いてみると、二人は首を横に振る。
「なんだよ、どうしたんだよ、元気ないな、二人とも、おいおい」
と大きめの声ではやしたててみると、なんとか、寝床から起き上がるように二人のテンションはやや上がっていったような表情になった。さらに
「せっかくなんだから楽しもうよ、なあ」
と笑顔であおってみると、茜もカズもなんとかいつもの親密な雰囲気をやっと醸しだし始めて、よかったあ、と安心すると同時に、笑顔あるところに幸せがやってくるという社長の朝礼の言葉がちらりと頭をよぎった。三人で笑顔になって、幸せを掴もうじゃないか。
 燃料となる枯れ木をブロックで囲んでそこに新聞紙を詰め込み火をつける。いつもならそれだけのたき火のところだが、今日は備長炭も買ってきてもらっているので、いつもよりも長く火を囲んでいられるだろう。鍋を設置して肉や野菜を乗せる。さあて宴の始まりだ。いつもと変わらぬ心安い感じに一応はなった二人とともに、まずはペットボトルのジュースで乾杯をした、ぼくらの計画がうまくいきますように、という願いを込めるのを忘れずに。
食べながらそれぞれの近況を報告し合おうと思っていたのだけれど、川原に着いた時の空気が空気だったのでなんとなくそれは避けて、インターネット上で流れている最近の面白いトピックを紹介してまずはカズと茜にノッてきてもらうのを期待した。ぼくは、カラスの寿命は通常は十年から三十年もあって、それ以上生きる個体もいるらしく、そうなると人間の言葉を解するようになるものもいるらしい、という最後のほうは本当だかわからないような話をした。でも、茜は、どおりで、と首肯く。
「きっと、人間のやってることの意味がわかってたりするよね。お通夜とかお葬式にカラスが集まるでしょ。もっと言うと、それ以前に、死んだ人が出た家の周りの電線にも、そうとわかってる感じで大勢集まるよね」
「あのちっこい脳みそでねえ」
とカズが羊肉をほおばりながらあいづちを打つ。ぼくは
「人に対する識別能力もかなりのもんだよ。カラスってたまに人の頭を蹴飛ばすんだけどね、上空から急降下して。大学とかでもさ、一年生が狙われることが多いみたいなんだよ。その地区に初めてやって来た人間に対して、たぶん、先輩面してやってるんだと思う。よく見てるし、わかるもんだよな。ちなみに蹴飛ばされると血が出るよ。首の負担もかなりのもんだ」
そう、ちょっとした知識を披露すると、茜には
「さては前に蹴飛ばされたな」
とバレてしまった。そんなこんなで、場は少しずつ温まっていき、続いてカズからもネット上の面白い話題やニュースが飛び出して、笑いの花が咲きながらどんどん時間は過ぎていき、いつしか夏の薄曇ったような夕闇が迫る時刻になっていた。
 もういい頃かなと思い、カズに、さっき元気がなかったけどどうした、と問いかけてみた。何でも話せよ、相談に乗る、と。彼はいくらか口を開くのを重そうにしていたのだが、やがて話しだした。それは、工場にあまり慣れなくて、仕事が遅いことに周囲から文句というわけではないのだけれど、厳しい顔つきとか目つきとかがよく向けられて、最近だと、投げかけられる言葉にも険があるように聴こえて、毎日自宅に戻ってきても、疲れが抜けないし眠りも浅いし、どうやらストレスを抱えてしまったということだった。カズの困った顔が、苦悶をたたえた彫像のように、本当に救い難い表情に、炎によって照らし出されて見える。
「そうだったのか。大変だったな、カズは。なあ愚痴っていいんだよ、茜にだってさ、俺たち仲間なんだし。そのほうが健康的だと思うし」
と鬱屈しそうなカズの心境を思いやって、もやもやを解き放つ方向へ誘おうとする。茜も、そうそう、言っていいんだよ、いくらでも聞くよ、とやさしい。
「ありがとう、やっぱり、二人と友達で嬉しいよ。一人だったら潰れてるところだわ。今度から愚痴らせてもらうか」
とカズは苦笑いする。一方、茜の元気の無さはどうなんだろう、カズと似たようなことなのかなと思って、なにかあったんでしょ、と訊くと、うつむいたり顔を背けたり、なかなか告白しようとせず、そのうち、
「わたしはあとで」
と、話を打ちきった。
 そこで沈黙が訪れるかと思いきや、おもむろにカズが、唄おう、唄おう、とぼくと茜に催促しだした。茜はすぐにその気になって、
「それじゃ、『やさしさに包まれたなら』唄おっか」
と歌を指定する。荒井由実の名曲だ。たき火を囲んで人気のない静かな川原で、大声を張り上げるでもなく音程重視にささやかな感じで唄う『やさしさに包まれたなら』はよかった。それは夏の夜の蒼黒い闇を柔らかく波紋のように波うたせ広がっていくかのようにして、消えていく唄声だった。唄い終わると、ぼくらは何も言わなくなった。パチパチというたき火の音の存在感が増す。
 しばらくして茜が、思い出したように持ってきたエコバッグから福島産の桃を取りだしてぼくとカズに一つずつくれた。それまでけっこうな《間》に対して、無理にというわけではなくて自然なかたちで、呼吸だけをするように黙ってそのまま座っていたせいか、ぼくはなんだか自分の部屋に居るときのような、誰に気兼ねするでもなく寛いでいるときの気分になってきていた。他人といると、まるで自動的にちょっと元気な自分になったり、いわゆる《つくった自分》に、その他人がいつもつるんでいる茜とカズであっても少なからずなってしまうところがあるのだが、その《つくった自分》の膜が一枚べろんと剥げて、むき出しの、ほとんど素の自分になってしまったかのようだった。これは、カズや茜のような親しい仲間ではない他人と、長い時間顔を合わせていてもなることでもある。そうしてそうなる時には、会話していても、普段とは違う発想の言葉が飛び出したりする。それは、ややもすると、現実的な考えに基づいていることが多い。そんなテンション感覚でも、福島産の桃のおいしさにはストレートに感銘を受けた。
「うまいよ、茜、桃ありがとうね。やっぱり福島の桃って鉄板だよね」
と感嘆していることを茜に伝えれば、カズも
「今度から福島の桃は箱で買うわ。で、朝昼晩、毎食桃でいいわ」
とおどけているのだか本気なのだかわからないのだけれど、興奮気味にそのおいしさを讃えながらそう宣言して、それについて茜は
「そんなに一気に食べたらおなか壊すよ」
と笑ったのだが、それはとても嬉しそうに見えた。
「検査でも検出限界値未満だったりするんでしょ」
と茜に質問してみると、彼女は笑顔のまま
「そう。大体そうみたいだよ。だってね、農家の人たち、苦労したし、かなり工夫もしたみたいなの。だから、そのかいあって安全でおいしい桃なんだよ。胸を張って全国にお届けできる」
と強く言いきってくれた。いまだに残っている風評被害、しかし、ぼくらにはまったくの、どこ吹く風の悪い評判であった。
 そして、そんな会話の雰囲気のその流れのまま、ペットボトルに詰めて持ってきていた水で桃の果汁のついた手を洗いながら、ぼくは再び茜に、ねえ、仕事でなにかあったのかい、と訊ね、愚痴っても悪態ついてもいいからさ、言ってごらんよ、聞くから、と続けた。茜が少しためらうのが見てとれた。言いづらいことなのだろうと、そこだけは見当がつく。だが、茜は心を決めて、じゃ、言うけど、と話し始めたのだった。切れ長の涼しげな目もとが、きりりときつくなった。
「いやな男がいるのよ。北郷大学の大学院生でね、調査員のリーダーの教授の助手をやってるやつなんだけど、最初はいろいろ教えてくれて、いい人かもなんて思っちゃったんだけど、急にね、ちょっと二人だけで話がしたいって言いだして、強引に木陰に連れて行かれてみたら、お金欲しいんだろって言うわけ。え、と思って、でも全然なんでそんなこと言うのかわかんなくて黙ってたら、五千円やるからキスさせろ、だって。ムカッときたんだけど、そこは耐えてその場を離れたの。でも、次の日もその次の日も、もうしつっこいの。なあ頼む、だの、八千円にしようか、だの。ずっと無視してたんだけど、エスカレートしてさ、今度はやらせろっていうんだよ、二万円でいいだろ、すぐ済むからって。なに言ってんのこいつと思って、わたしに触れたら放射能が伝染るけど、いいの、わたし福島の人間だけど、ってためしに言ってみたら、悔しいけどそいつひるんだんだよ、信じたんだね。そしたら教授がね、そのときだけわたしたちが喋ってるのを近くで聞いたみたいで、なにやってるんだってなったわけ。そんでさ、追い詰められた院生の男がなんて言ったと思う、わたしがそいつを誘ってたんだって言い逃れしようとしたの。もう信じられなかった。でも、教授はウソだってわかってくれて、そいつに怒ったんだけど、でも、そいつ、まだ助手として残ってるんだよね。処分は調査が終わって大学に帰ってからなのかもしれないし、もしかしたらかわいい弟子だからとかで、あとで無かったことにされてしまうのかもしれない。ほんと、立場弱いよ、女でアルバイトでってさあ」
聞いていてびっくりした。なんという目にあってたんだと怒りがこみ上げて、いつしか握りしめていた左右のこぶしが震えるほどになっていた。カズも眉根を寄せていて、話を聞き終わるなり
「むごいな」
と一言こぼした。
「でもね、調査はお盆前までで終わるの。それでもう顔を見なくて済むようになる。給料もそこまでだからなあ、また仕事探さなきゃなんない」
と茜はそう結んだが、ぼくは
「もっと前に言ってくれればよかったのに。辞めたって良かったんだよ」
と抗議せずにはいられなかった。茜は苦笑いで、ごめんごめんと謝り、でも、意外と根性あるのかもわたし、と強がるのだった。
 それからはまた、面白い話からそうでもない話までいろいろ喋ったり、ネタがなくなるとしりとりだとかの単純なゲームをしたりしながら夜を明かした。東から上がってこようとする太陽は短い時間だけ朝焼けを作ってみせ、その瞬間、茜はやっぱりその景色を、たぶん震災のときに重ねるようにして見上げていた。
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