ある共同体に属している者たちにとって大事なのは、
その共同体の働きも各人の働きもある程度納得のいくものかどうか
なんじゃないでしょうか。
そうあってこそ、多様な人たちが有機的に織り成せる共同体。
そんな共同体が社会へ有機的に働く状態が理想じゃないかと思います。
そして、納得がいくための基本姿勢の一つに、
「冷笑的にならないこと」があるような気がするんです。
冷笑的になることで、本来第一に見なければならない本質を見逃しがちになる。
冷笑的になることは、精神面のコストをケチることで、ゆえにコミュニケーション面や
物事を考える上での深い部分を見誤ってしまう。
そればかりか、せっかく深い部分を見据えている人の足を引っぱってしまったり、
深い部分へ続く道を見つけようとしてても閉ざしてしまったりする。
その結果、逆に皆が損をするという結果に結びつくような気がする。
目先の利益にとらわれて大きな利益を失ってしまう行為が、
「冷笑的なコミュニケーション」であり、内的にも外的にも納得性を失わせてしまう
もののように思うのです。
難しいことではあります。
こう書いている自分に対してなんとなく納得がいっていないのですから。
冷笑的にならないことは「追求を促す」ってことだけじゃないんですよね。
前にも引用したことがあるかと思いますが、T・カポーティ著
『草の竪琴』という小説に、こんな一文があります。
>「話の内容というのはさして大切なものではないんです。
>大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」
この文章からちょっと意味をとって考えると、
「納得の気持ち」っていうのが、大事なように思います。
それと、「共同体」って書きましたけど、会社だとかグループだとかに換言可能な
考えだと思って書いてみました。
その共同体の働きも各人の働きもある程度納得のいくものかどうか
なんじゃないでしょうか。
そうあってこそ、多様な人たちが有機的に織り成せる共同体。
そんな共同体が社会へ有機的に働く状態が理想じゃないかと思います。
そして、納得がいくための基本姿勢の一つに、
「冷笑的にならないこと」があるような気がするんです。
冷笑的になることで、本来第一に見なければならない本質を見逃しがちになる。
冷笑的になることは、精神面のコストをケチることで、ゆえにコミュニケーション面や
物事を考える上での深い部分を見誤ってしまう。
そればかりか、せっかく深い部分を見据えている人の足を引っぱってしまったり、
深い部分へ続く道を見つけようとしてても閉ざしてしまったりする。
その結果、逆に皆が損をするという結果に結びつくような気がする。
目先の利益にとらわれて大きな利益を失ってしまう行為が、
「冷笑的なコミュニケーション」であり、内的にも外的にも納得性を失わせてしまう
もののように思うのです。
難しいことではあります。
こう書いている自分に対してなんとなく納得がいっていないのですから。
冷笑的にならないことは「追求を促す」ってことだけじゃないんですよね。
前にも引用したことがあるかと思いますが、T・カポーティ著
『草の竪琴』という小説に、こんな一文があります。
>「話の内容というのはさして大切なものではないんです。
>大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」
この文章からちょっと意味をとって考えると、
「納得の気持ち」っていうのが、大事なように思います。
それと、「共同体」って書きましたけど、会社だとかグループだとかに換言可能な
考えだと思って書いてみました。
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