Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『パッシブ・ノベル』 第二話

2022-11-17 06:00:01 | 自作小説13

 翌々日、仕事から帰ると、郵便受けにA4サイズ用の茶封筒が挟まっていた。引き抜いて部屋に持ち帰る。送り主は白井だ。早速、小説原稿が送られてきたのだ。この行動の速度にこそ白井の悲しいほどの切実さがはっきりと表れている。なんだかもの寂しくなった。テーブルに置いた厚みのある茶封筒が、報われることのない健気さの姿として目に映ってしまう。
 正直、読むのは面倒くさかった。僕はほとんど小説を読まないこともあって、ノンフィクションに比べて小説の読解はそれほど得意ではない。学生時代の現代文の試験では、選択肢があればなんとか正解できたほうでも、記述式になるとずれた内容をこれでもかと書いてしまったものだ。読解がその程度なのに、アドバイスまで頼まれている。できるだろうか。でも、やらないと、だ。智鶴さんのためには。そう思いながら、ソファに寝そべりながらしぶしぶ目を通し始めた。
 はじめは言葉の意味があたまに入ってこなかった。ただ字を追っているだけになった。それが、二ページ目の終盤あたりから白井の文体に対してまるで周波数が合ったかのように、筋がわかりだしイメージを浮かべながら読めるようになってきた。
 学生時代のスーパーマーケットでのバイトの時、あの川村先輩が休憩時間に僕をつかまえてこう言ったことがある。
「なあ、人っていろいろな面があるだろ。年寄りに席を気持ちよく譲ったやつがさ、陰で誰かを嘲笑って喜んでいたりもする。その他にも、いろいろな顔を持っているものだよな。なのに、人ってさ、そいつの一面しか知らないくせにそれがすべてだと勘違いするんだ。席を譲っていたことだし誰だれは善い人間なんだ、とか決めつけてしまうだろう? これは思い当ったりするよな? どうだ? ん、安達はそうでもないわけ? そうか。人は見たいようにその対象を見るんだってことを、リップマンが『世論』で書いているんだよ。正しい分析だと思う。で、見たいように見るにしたってその見方の土台になる人間理解ってものがものすっごく浅いがために、人のほんの一瞬の一面をそのすべてだって思いこみがちなわけだ。いつかのコンパで、俺は言ってやったことがあるのよ。それはこういうことだよ。サイコロを振って一の目がでました。そこにサイコロを初めてみたやつがいました。たまたま一の目が出たのを見たにすぎないのに、そいつはその一の目が出たっていうひとつの事実から、六面すべての目が一なんだろうなという勘違いをして、それをあっさり飲み込みました。……バカだろ。そのバカとここにいるみんな、実は同じようなものなんだぜ、全然気づいてないようだけどって。それが飲みの席だったわけ。かなり白けた。お開きになりそうな頃だったし、どうでもよかったんだけどな。」
 一の目が出たとしても、現実には側面の三の目や四の目だって眼に入るものなんだけどなあ、と思ったものだけれど、川村先輩の言わんとしていることに対しては、なるほど、というふうによくわかったし、仮にツッコミを入れたなら話がとんでもなく長くなり聞くのにかなり消耗しそうに思えたので、そのときは、川村先輩の言うことをそのまま聴くことにしたのだった。
 だけど、白井の小説の原稿をそうやってぱらぱらめくってみると、川村先輩が言ったように、白井をほんの一面でしかとらえていなかったのだ、と痛感することになった。僕は白井を自分の見たいように考えていたのだ。白井というサイコロは、すべて一の目でできているのだ、というように。
 半分過ぎまでざっと目を通した原稿を閉じて、白井の名前のみが書かれた表紙を眺める。きちんと読んでやるぞ、という気分に変わっていた。僕は表紙をめくり直し、今度は背筋を正した。

 それは題名のついていない、〝俺〟が語る一人称の小説だった。



 三四歳の〝俺〟はふと、とうに廃墟になったふるさとの村を車で訪れる。東北地方。秋田県のとある山麓に位置する村だ。
 〝俺〟は八歳の頃までその村で暮らした。人口は200人ほどで、小学校は一時間かけて近隣の町までバスで通っていた。
 荒れた家々がぽつんぽつんと建っている。ここは隣の山本のおばあさんの家だ、じゃあ、この先30mほど先に行ったところに建っているあの家が、〝俺〟が住んでいた家だ。中に入ってみた。
 玄関に鍵はかかっていなかった。埃がひどく、絨毯は土にまみれていた。居間の窓ガラスが割れている。狐か何か野生動物が侵入したような形跡があった。電化製品の類は一切なかった。古いタンスがひとつ残されているくらい。建付けの棚は空っぽだった。
 とくに目を引くような物品は残されていないように見えた、そんなとき、押し入れのなかに薄いアルバムが一冊落ちているのを目に留める。当時、写真館で現像を頼むとおまけでもらえた、大手フィルムメーカーのロゴの入った、24枚の写真が収蔵できるぺらぺらの紙製のアルバムだった。
 〝俺〟はそのアルバムを拾い、軽くはたいて埃を落とした。中に写真があるだろうか、とめくってみる。1ページ目には何も収納されていなかった。さらにめくると、二枚目に、丸眼鏡をかけた丸首の白いシャツ姿の初老の男性の上半身のスナップ写真がでてきた。面長の顔が、柔和に微笑んでいる。父だと思った。
 この村を出るきっかけになったのは、父の死だった。父が亡くなって、母は僕を連れて、町へ出たのだ。働かなければならないからだ。父はもともとこの村の出身だった。絵を描いたり、文章を書いたりしている人だった。
 ひと回り以上年下の母は、近所の農家に手伝いに行き、わずかな給金といくらかの野菜をいただいて、家族三人の細々とした生活の火種をくべ続けてくれていた。さらにアルバムをめくる。同じ父と、エプロン姿の母が写っていた。母はすこし上目遣いにこちらを見つめていた。
いつの写真だろうか。〝俺〟の姿はない〝俺〟が小学校へ行っている間に、誰かが撮ってくれた写真なのかもしれない。

 〝俺〟はそのアルバムを手に、村を後にした。




 そこで一旦、原稿をテーブルに置いた。湿り気のない文体だった。白井の、知られざる多面性が原稿として今ここにあるのだが、この時点ではまだまだ序の口。この原稿に、白井の様々な、隠された面々ある。その都度、顔をのぞかせては去っていき、また新たな顔がのぞかせる。その連続を感じさせるのだった。



 〝俺〟は自宅のアパートの、テレビ台の端に持ち帰った紙製のアルバムを置き、そのままその存在を忘れて眠った。母が亡くなったのは一昨年のことになる。もしまだ健在だったならば、このアルバムの存在を喜んだだろうか。
 翌朝から、おかしなことが起こりはじめた。いつしかブレーカーが落ちていて、電気が使えなくなっていた。冷蔵庫の中が常温になっている。幸い、冷凍庫のほうの中身は空っぽだった。部屋が埃っぽく感じられて咳が出た。
 会社へ行き、帰宅すると、郵便受けに母あてのハガキが入っていた。送り主の名前はなかった。時候の挨拶からはじまり、元気ですか、今度近くに来るので会えませんか、と待ち合わせの日時と場所を記していた。おそらく男性の筆跡だった。日付はもう二週間も前だった。
 テレビ台の上には変わらずアルバムがあったが、もう開こうとは思わなかった。外は雷雨になった。埃っぽいので掃除機をかけた。溜まったほこりををゴミ箱に捨てる。砂まで混じっていた。
 ベッドに横になり、うとうとしていると、誰かが部屋を動く気配がした。体を動かせずにいると、馬乗りになられた。強盗だと思った。だが、相手は馬乗りのまま〝俺〟の肩を抑えたまま、なにもしゃべらない。ようやく何かを言ったのだが、重苦しいしぼりだすような低い声音だった。聞くに堪えがたいような、怖ろしさを感じさせる声音だった。声は言った。
「お前は荒らしてしまった。お前は荒らしてしまった。静かな湖面に石を投げ入れたのだ。波紋には抗えない。お前は荒らしてしまったのだ。永遠を破ってしまったのだ。怒りを受けなければいけない。お前が荒らしてしまったから。」
 気が付くと、その誰かの重みは消えていて、自分の意識もはっきりし、体を動かすこともできるようになっていた。悪い夢だ、と〝俺〟は思った。




 不気味な話になってきたところで、サイダーの入ったコップに口をつける。粒立った甘味が鼻腔のなかに立ち昇って、軽い刺激を残し抜けていく。遠くで犬の吠える声が聞こえだして、しばらく止まなかった。それからアパートの横の道を自転車が通り過ぎていった。ライトの発電機を回しているのがよくわかるはっきりとした摩擦音が聞こえた。
 僕の頭の中にある小説の引き出しは限られている。誰々という作家の何々という作品にもしも白井の小説が似ていたとしても、まったく気づくことはできない。この小説は、オマージュや引用のない完全オリジナルだという仮定を前提としたまま、この発想はすごいだとかこの言いまわしがかっこいいだとかを、白井に言わなくてはならない。実際、そういった点では完全オリジナルなのかもしれない。もしもそのとおりのオリジナルであるならば、僕の知識の無さの露呈を危ぶみすぎることもないのだが。
 でも誰々や何々の影響のない作品なんてあり得るだろうか。外部の影響なしには、まず単純に言葉をうまくつかえないのだし。
ただ作品というものを考えると、そういった他作品の影響がきちんと消化されているのならば、創作するとき、細かい部分で露骨に表出してくることはないのではないか。消化されていたならば、自分自身の中でとろとろのジュースのようになって抽象化されたうえで染みわたっているはずだからだ。
 全体の印象から、誰々の影響があるんだな、などと感じ取って、そのうえでアドバイスをしてあげられたらというのが理想なのだけれども、僕はほとんどノンフィクションしか読まないのだから無理な話なのだ。白井には事前に読むジャンルを教えてありはしても、すぐにこちらの底が知れてしまうだろうことがなんだか頭から離れなかった。大丈夫だろうか、という弱気を振り払いながら、原稿の続きを読み始める。



 その日から、誰かに後をつけられている気がし続けた。常に誰かに視られているような落ち着きのなさの中にいた。
 そしてある時、夜道でのこと、人気のない暗がりの四辻で、背後からあのときの声が言った。
「早く部屋へ帰れ。これ以上、荒らすことは許されない。」
 〝俺〟は走った。帰ると部屋は荒らされていた。引き出しが床にひっくりかえされ、カーテンがひきちぎられていた。警察を呼んだ。通帳や印鑑などは無事だった。というか、無くなったものはなかった。いや、あの安っぽいアルバムだけが無くなっていた。
 部屋を片付けながら、あの廃墟になったふるさとにもう一度行こうと思った。
あくる土曜日の昼過ぎ。郵便受けに一枚のハガキが投かんされていた。「来てはいけません。」とだけ書かれていた。送り主の名前はない。消印もなかった。
 あの村の近くの町の図書館の郷土資料をあたることにした。あの村はいったいどのような村だったのか。どのように消滅したのか。
 うどなどの山菜類を出荷したり、そのほか、一般的な農作物の生産が主になされていた村だった。だが、人口の減少で消滅したに過ぎない。謂われのあるような村ではないようだった。
 ふと、父の葬儀の記憶がないことに気づいた。父は亡くなったと聞いたが、通夜にも葬式にも出た記憶がない。
 もしかすると、と思い、戸籍を当たることにした。父の死亡年が、聞いていたよりも7年遅かった。役所の職員に聞いてみると、それは失踪宣告になったからですよ、と言われた。

 親戚のいない〝俺〟には、これ以上深入りするのも難しかったし、それ以上踏み込むこともなんだかためらわれた。
 自分のルーツに関する謎には気持ちが悪かったけれど、〝俺〟は〝俺〟でとっくの昔にもうあの村から切り離された存在なのだった。切り離された存在なのに、戻ってしまった。それが、なにかを荒らしてしまったのだろうか。
 あの夜、〝俺〟に馬乗りになった相手は、父なのではないだろうか。そう思って、〝俺〟は鳥肌を立てた。




 以上が〝白井〟の小説の筋だ。締めくくりの部分ではなんともいえず肩がぞくぞくし、余韻に気持ち悪さを感じて、思わず身をよじるようにして原稿を閉じた。
 サイダーのコップ全体についた水滴に、持ち上げた左手の指が冷たく濡れた。なかなかおもしろいじゃないか、白井。
 余韻から抜け出せずにいると、突然バチッと大きな音がして部屋の中が真っ暗になってしまった。外の街灯の明かりがカーテンの隙間から部屋の中に射し込んでくる。おいおいやめてくれよな、と胸の内でこぼしながらテーブルのスマホを手探りで確かめ、すぐさま懐中電灯アプリを使う。玄関へ立ち、落ちたブレーカーを戻した。
 パッと部屋が明るさを取り戻すと、僕は息をのんだ。タンスの上の折りたたみ式鏡の鏡面がこなごなに割れて床に落ちていたからだ。
 割れる音にはまったく気づかなかった。いや、というか音はしなかったのではないだろうか。速く、強くなった鼓動が耳の奥でこだまする。なにがどうなってどのようにこなごなになったのかがわからないまま、無理やり身体を動かして掃除用ブラシとちりとりとで片づけた。

 翌日の昼休み。年下の同僚の女性に近頃のSNSの流行を尋ね終わったとき、そういえば昨日さ、と白井の小説を読んで起きたことを語ろうとした。でも、タイミング悪く課長がくしゃみを連発し始め、お互いの笑い声の中に話題は消えていった。
 帰り際。昼とは別の同僚とプロ野球の話題で盛り上がったあと、やっぱりこれは誰かに話したいと思って白井の小説を読んだときのことをしゃべろうとすると、二つ隣の席の同僚が自分のマグカップを落として中身とともに派手にぶちまけて騒ぎになり、またもや話す機会が失われてしまった。
 これらを僕は、奇妙すぎる偶然、というふうにとらえている。これらも、昨日の停電や壊れた鏡と同一線上にある出来事なのではないか、と疑っている。ちょっとひっかかるような不自然な偶然なのだ。
 部屋に戻ると、なにか変わりはないかと一面ぐるりと見渡した。不気味なほど、いつも通りの自室だった。僕は疲れていた。頭が重いし、どうやら熱っぽい。引き出しの奥から久しぶりにひっぱり出した体温計は、38度ジャストの数字を表示した。のどの痛みはないけれど、ついにコロナかもしれないと思った。
 翌朝、会社を休み、PCR検査を受けに行った。陰性の結果が出た。体はだるさに蝕まれながらも、気持ちはほっとした。それから智鶴さんにLINEすると、気遣いの言葉を返してくれて、気分だけはほとんど元気になった。
 帰宅してすぐ、熱くほてる重い身体を着の身着のままベッドに押し込むようにして休んだ。横になると、今日はそれまでずっと無理をして動いていたのを知ることとなった。仰向けになってみたらはっきりと身体中から力みが取れたからだ。重力がむしりとってくれたみたいな感覚だ。だが、だからといって、そんなに簡単に安穏を手にはできなかった。ほどなくして寒気がし始めたのだ。間違いなく熱が上昇するサインだ。もう熱にもだるさにも抗わず、過ぎ去るのを待つと決めた。というか、待つほかないと白旗を振った。
 部屋のチャイムが聞こえた気がしたのをきっかけに、それまで苦しめられていた混沌とした夢から半歩ほど、現実に戻る。それからシーツや布団に触れている感触がわかるようになったことで、さらに現実感を取り戻しつつあった。ただ、意味のおかしな言葉がいつまでも連続して頭の中を駆け回り続けている。それらがまだまだめまぐるしいなか、すぐ近くに智鶴さんのいるような気配を感じたとたん、ほとんど完全に現実に引き戻された。あれだけ暴れた意味不明の言葉たちは、痕跡も残さず別次元に消え去ってしまい、もはや思い返すこともできない。
 やはりほんものの智鶴さんが部屋に来ていた。
「ごめんなさい。鍵がかかっていなかったので。具合、よくないのでしょう。あの、何か作りますから。」
 薄い水色のカーディガンとチノパンツの智鶴さんだった。
「あれ、仕事なのでは。」
 かすれた声が出た。
「もう終わりました。」テーブルの上の置時計は後ろを向いている。カーテンを引いたまま寝たので外の様子もわからない。おそらく夜になっている。
 怪現象について伝えたかったのに、口を開けなかった。喉の奥にしっかりふたでもされたみたいに、いちばん話したいことがそこで跳ね返されて舌の上まで到達しない。そんな抑圧のようなものに捉えられていた。
 不自然に黙りこくっている僕を見て、智鶴さんは「わかっていますから。」と言った。凛とした語気だった。そうだ、そういうことだよな。ぎゅっと強張り始めていた肩の力が抜け、安堵感が身体中に広がっていく。
 布団から抜け出ると普段着のままの状態だったので、テーブルについた僕を見る智鶴さんの眉が柔らかくすこし下がっていた。
 まだ強い倦怠感から脱していないのに、智鶴さんの手料理を前にするとにやけてしまい、いいのだろうか、と浮足立つ自分が不謹慎のように思えて、抑えて正すべきかどうか迷った。なにも大事な会議中でもないのだし、葬式に出席中でもないのだから、ましてや体調不良と怪現象になんか気を使わなくてもいいんだよな、と手料理のポトフのスープ皿からすくいだしたじゃがいもを齧りながらようやく真っ当に戻れた気がした。……さて。
「そろそろ話しても大丈夫かな。」
 なんとなく周囲を見渡した。
「わかりませんが。私も話ができたことがないので。」
 僕だけではなく、智鶴さんも息をのんでいる。静かだ。背中がむずがゆくなるくらいに。
「あの小説おかしいよ! だってさ!」
「勝手にやかんが台から落ちたんですよ!」
 同じタイミングで、僕も智鶴さんも静けさを蹴破り大声で言い放っていた。智鶴さんがはっと目を見開いていて、おそらく僕も同じような表情でいるのだろう。これなら話せる。同じ経験をくぐり抜けた二人でなら話せる。
 外の道を誰かが走りすぎていく足音が聞こえた。僕の部屋は一階なので、誰かが靴裏で路面の砂利を踏み散らす音まで聞こえてくる。突然走り出したような足音の仕方だった。誰がいるのだろう、と気になった。
 テーブルを挟んで僕らはカーテンの引かれた窓を見た。その向こうを見透かしたかった気持ちは僕だけじゃないはずだ。立ち上がってカーテンを掴み、窓の外を眺めたが真っ暗で何もわからない。外からは僕の姿がはっきりと見えていることだろう。カーテンを戻し、テーブル前に座り直した。智鶴さんは不安げに腕をさすりながら早口で言う。
「熱が出るのも同じだなんて思ってもみませんでした。やかんが落ちたり、ブレーカーが落ちたりは不自然な現象だとわかってましたけど。小説を読み終えてすぐですよ。小説だってあの終わり方はちょっとぞわぞわしますよね。そこで真っ暗になって、やかんががしゃんです。悲鳴すら出なくて。ほんとに怖かった。」
「僕もブレーカーが落ちたよ。で、鏡が割れてた。気味が悪かったね。智鶴さんは誰かに話してみようとした? 僕はしたけど、どうしてなのか邪魔が入って話せなかったな。話せたのはやっと、今だよ。」
「やっぱりそうでしたよね。友達に電話で話そうとしたらつながらなくなりました。もう嫌だと思って、ずっと抱えてました。」
「白井さんに話そうとしたことは?」
「ないです。それがいちばん、怖いんです。」
 身体はさっきより軽くなり、口も回るようになっていた。熱は微熱程度にまで下がってきたようだ。そして、そういえば、と気づいて引き出しから取り出してマスクをつけた。
「だけどね、白井さんには小説の感想やアドバイスを求められてたよね。純粋にこの小説についてだけの話をしたの?」
 智鶴さんはずっと僕を正面に見据えたまま話をしている。周囲を気にしてはいけない、と自分で決めてどこか耐えているかのように瞳を小さく揺らせるときがある。
「そうです。こういう出来事のあとですから、アドバイスのためにまた初めから読み直すなんていうことはできなくて。表面をなぞる程度のアドバイスになってしまったと思います。」
「そうなるのは、当然だよ。逃げ出すだとか、拒絶するだとかでも普通の反応だと思う。白井さんと距離を取ろうとしなかったのはすごいけどな。フリーマーケットにも呼んでさ。僕は今、はっきりいって、白井さんとは会いたくないよ。」
 そこで智鶴さんが初めてうつむいて、視線を落としたまま、とつとつと言った。
「逃げることは簡単です。白井さんと距離を置くこともそうです。」
「だけど、」
「いえ。あの小説に何かがあるなら、著者にこそ何かがあるんじゃないでしょうか。」
 不意に白井に何かが憑りついている様を想像した。智鶴さんは続ける。
「私は関わろうと思ったんです。拒絶するのではなく、関わってみようと。見離すべきじゃないというか。でも、私だけではどうしようもできない。だから。」
「僕が巻き込まれたんだね。」
 一瞬、照明がチカチカと明滅した。
「もともと安達さんにもアドバイスが欲しいと白井さんは言っていて。後押ししてしまいました。すみません。」
 部屋の天井のあたりが小さくみしみしと鳴り始めた。ちょっと、出よう、と僕は智鶴さんを屋外に誘った。

 満ちるまであと数夜という月が出ていたが、星のよく見える夜だった。三、四分歩いた近場にある公園へ二人で入った。フェンスの近くに置かれた木製のベンチ。座面を一度手で払ってみてから智鶴さんと腰掛ける。犬の吠える声が少し遠くから聞こえ続けていた。
「思い出したんだけどね。一連の現象はね、シンクロニシティって言うんだった。」
「シンクロニシティ。それって、そうですねえ、繋がりあうと考えられる物事や出来事がたまたま同時期に起こること、ではなかったですか。」
 智鶴さんは片手で頬を押さえるような仕草で、少し考え込むように首を傾げた。
「そういう理解のほうがたぶんメジャーだよね。シンクロニシティを唱えだしたのはユングなんだけど、当初、シンクロニシティとされた現象にはもっと怪現象といえるものがあったんだ。」
「たとえば、どういった感じなのでしょう。」
「まずバスケットの中にパンがあってその横にナイフが置いてあったんだよ。パンを切るためのナイフだね。ナイフの置かれたそのバスケットはサイドボードの抽斗の中に仕舞われていた。だけど、そのナイフが突然、抽斗のなかでものすごい音とともに四つに折れたっていうんだ。その場には、ユングと彼のお母さんと召使いしかいなくて、もちろん抽斗にも、言うまでもなくバスケットにも触れた者はいなかった。でね、ユングはそのとき、近頃知り合った若い女性のことを考えていた。彼女は霊能力を持っていると見られていて、ユングは彼の実験の材料に彼女を使ってみようと決心した矢先だったらしい……という話がある。」
「それもシンクロニシティなのですか。」
「そう。この観点から白井さんの小説を考えてみないか。しかし、まあ、巻き込まれてしまってまったく、なんてこった、なんだけどさ。」
 僕は声を出して笑ったが、電灯の薄い明りに照らし出された智鶴さんの表情に変わりはなく真剣なままだった。いや、うっすらと目許がやわらいだようにも見えたが、確かではなかった。犬はまだときおり吠えていた。
「私はこの白井さんの小説って、あんな出来事を抜きにしたならなかなか面白い小説だと思いました。まず読みやすかったですし、どんどん話が展開していくスピード感がありましたし。時間を忘れて一気に最後まで読めましたから。」
「ひとつの文章が短いし、簡潔だし、展開に無理もなかったから読みやすかったんじゃないかな。内容の話で言えば、荒らしてはいけない何かを荒らしたってことが要の部分だったね。廃墟の平穏を荒らして、怒らせたものがあるのだろうとは思ったけど。」
「それで不思議な出来事が私たち読者の現実に起きてしまって。シンクロニシティって言っていいんでしたね。私たちは、あの小説を読むことで何かを荒らしたのでしょうか。あの小説に閉じ込められた平穏を、または白井さんの何かを、読むという行為によって土足で踏み荒らす意味になったのかな。」
「でも、読んでほしいと言ったのは白井さんだからね。読む行為が土足で踏み込む意味にはならないと思うよ。」
「白井さんの意識上はそうだったのだとしても、意識下の白井さんはそうではなかったり、なんてありえませんか。」
「うーん。それはあるかもしれないな。」
「それと、シンクロニシティって、善い力なんでしょうか。それとも悪い力なんでしょうか。」
「それははっきりとはわからないよ。おそらく、どちらもあるんじゃないかな。だってさ、ころころ変化する人間の内面が関わっているんだから。善いだけの人間はいないし、悪いだけの人間だっていないものね。人間はサイコロみたいなもので、善の目がでるときもあれば悪の目がでるときもあって、様々さ。」
 あの小説も、あの小説を書いた白井も、六面体のサイコロではまったく収まりきらないくらいの複雑な多面体なのだろう。僕よりも、そして智鶴さんよりもおそらく複雑で、もはや球体と見分けのつかないくらいの多面体だったりして、と想像を膨らませたが、それは大げさかもしれないな、とすぐに思い直した。
「近いうちに白井さんと話をしてみるよ。」
 今行き着けるところまで一気に話を進ませた僕を見た智鶴さんのその見開いた目に「もしかしたら、どうにかできるから。」と言い聞かせるように言った。まったくの見栄でもなかったのだ。
「私は白井さんと彼のお父さんとの関係が気になります。あの小説のラストが明かすものに込められている何かがあるからこそ、私も安達さんも影響を受けたのではないかなと思うんです。」
「そうだね。僕もそこがいちばん気を付けなければいけない点だと睨んでる。まあ、まかせて。」
 智鶴さんには頼りがいのある人だと思われたい。白井との話し合いの席上ではあの小説について深い話に持っていきつつ、くわえて智鶴さんと僕の間をとりもつ約束について念を押しておきたかった。この心境を他人に言ったなら、この期に及んでもか、なんて思われてしまうだろうけど、あれはあれで、これはこれなのだ。先にあの小説の影響を受けた智鶴さんによれば、この怪現象による熱はまもなく引くらしい。それならば、智鶴さんとうまいくいくための方面へと頭を働かせるのは当然だろう。自分の体調を気にしてパニックになっている場合じゃない。
「安達さん、気を付けてくださいね。」
「うん。まあ安心してて。」
「そう、ですか?」
 実際、僕の気分はすでに晴れていた。夜空の星々の祝福の光。親身なその暖かさのおかげかもしれなかった。ただの悪い夢だったんじゃないか、と思えるくらいはるか彼方の心理的僻地にあれだけの怪現象の記憶は小さくある。
 すぐ横に智鶴さんがいて、彼女の息遣いやまばたきや、目許や眉の筋肉の緊張や弛緩や、足元の土をたまにざりざり鳴らす靴の動きや、太ももの上から飛び立つ右手や左手の舞いや、その存在全体が放出している言葉にはならない多くの情報量を、僕は無意識にすべて受信するべく僕という存在を彼女の存在に向けて開放している。怪現象についての話し合いすらいつしか、ベスト・オブすなわち、至福の時間になっていた。僕は自分がこれほどまでにおめでたい人間だとはこのときまで知らなかった。
 あのような怪現象が身に降りかかっても、智鶴さんが白井を悪く言うことは一度もなかった。僕には白井がとても気味悪かったけれども。智鶴さんは見事なほどの自制心の人なのだ。ちょっとやそっとではゆるがない心の機制を持っている。公園からの帰り道、お互いに無言になったときにそんな智鶴さんのあり方を尊敬の眼差しで眺めるように考えていた。そうしているうちに、でも素直さってそんなに偽善的なのだろうか、という気もし始めた。智鶴さんは素直な気持ちに悪い感情が起こるのはしょうがないことだと考えているらしいし、そこに赦しや諦めの気持ちを持っているようだけど、それにしては良くない素直さは表に出すべきじゃないとしている。成熟とはどういうことなんだろうと考え直したくなる。僕に限らず、ときとして、不自然かつ窮屈なふるまいを成熟とみなすふしはないだろうか。とはいえ、結論を今すぐ出すにはこのテーマは難しすぎた。
 どこかで犬の吠える声が裸の心を通過していく。忌々しかったり騒々しかったりすることはなぜかなかった。反対に、吠え声に呼応するように少しばかり力が漲ってくるくらいだ。
 深呼吸する。湿った夜気が、落ち着きなさい、とでも諭すかのように肺をひんやりと満たしていった。

(続く)

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