読書。
『かがみの孤城 上・下』 辻村深月
を読んだ。
かがみの孤城に集められた7人の中学生。彼らは5月から3月までのあいだ、鍵探しと鍵の部屋探しを課されます。鍵を見つけ、鍵の部屋を探し当てたものは、そこで願いをひとつ叶えられるというミッションです。また、7人の他にもうひとり、彼らを集めた張本人である狼面の少女が監督者として、たびたび出現しますが、年齢不相応の話し方がおもしろいです。ギャップの妙、というものがあります。
「言葉が通じない」と主人公のこころが思うところがあります。こころがひどいいじめを受けた真田さんや、担任の伊田先生に対して強く。また、様々な地区から集まった中学一年のクラスで、最初から遠慮もなく自分たちが主人公というように自己都合優先で、つまりでかい顔をして学校生活をするタイプの人たちがでてきますが、これは僕にとってもそういう人たちがいたなあ、と眠っていた記憶が甦るシーンでした。しかしよく、こういったことを言語化して、物語にできるものだなあ、と感嘆しましたねえ。
ここは下巻につながることではあるんですが、こころがいくら説明しても気持ちが通じず、「言葉が通じない」ような自己都合の強い傾向で、生きづらい人の気持ちを想像もできないような人たちを、「ああいう子はどこにでもいるし、いなく、ならないから」(下巻p170)と断じるセリフがあります。これには僕なんかはいい歳をしていながらも、身が引き締まる思いで読んでいました。
あと、登校せず勉強もせず外出もせずひきこもっている主人公・こころが「怠け病」だと思われることを嫌がり、恐れているシーンにいくつか出くわすんです。「怠け病」というのは、そういうレッテルを貼りやすい人がいるんですよね。「怠け病」に見える人には、だいたいにおいて事情があると僕は思うほう。
上巻は5月から12月まで。7人が、お互いを知っていき、絆が深まっていきます。
* * * * *
下巻は、大きく物語が動き、「なんだ、いきなりやってきたな!」といった感のクライマックスはぐいぐい読んでしまいました。
内容にはあまり触れずに、抽象的ではありますが、以下に感想を。
「だいたいみんな、同じようなものだ」という多数派の幻想に目をくらませられがちな、「個別性」というもの。人はそれぞれ違うもの。環境も能力も違うのだから、違って当たり前です。そして、この作品に出てくる7人の中学生たちが抱える生きづらさも、それぞれが誰のものとも当たり前に違う、個別の生きづらさだったりします。それを本作はわからせてくれるところがあります。
最後、エピローグは10ページほどの分量で書かれていました。正直、エピローグ直前までは、「なるほど、そういうことだったか」という、謎解きができた知性的な脳の部分ばかりが活動してしまい、物語の整合性に気を取られるような気分でいました。しかし、それが見事だったのが、上下巻併せて700ページ以上の物語が、その10ページで驚くほど見事に終点へ着地するそのさまです。読者の昂った気持ちが、すっと、それもワンランク上の清澄な場所に昇華されておさまる感覚というか、それまでの物語の重みが闘牛のようにこちらへ走り飛んでくるなか、作者がひらりと赤いマントを翻してその勢いを削ぎ、いなしながら、読後の余韻のほうへと転化して、おさまるところへとおさめてしまうというか。ちゃんと、読者の感情面をふくらませて、納得と感動をさせて、終わらせていくのですから、作者の「物語る力量」を見た気がしました。
作者の「物語る力量」といえば、設定やプロットは練られていますし、キャラクター構築ではそのキャラクターの心理がどう形成されたのかが、納得のいく形で為されているなあと思いました。ただ、こうやって事前にきちんと裏側や細部を決めて物語を作ると、あれはこういうことだし、これはこうだし、これは作者がこう考えたのだろうな、などと、すべて理詰めでわかってしまうきらいがあります(「おそらくこうだろう」という推測も含めて「わかる」とすると、です)。これは今の時代傾向としてそういう物語が好まれているというのはあるでしょう。仕掛けたものががおさまるところにすべておさまってすっきりするということもそうです。ですが、「わからない」ということを感じさせることも大切ではありますし、これはきっと好みや気分の問題なのかもしれませんが、ちょっと、この物語がまた違う形で編まれていたら、というifをうっすらと想像せずにはいられなかったのでした。
『かがみの孤城 上・下』 辻村深月
を読んだ。
かがみの孤城に集められた7人の中学生。彼らは5月から3月までのあいだ、鍵探しと鍵の部屋探しを課されます。鍵を見つけ、鍵の部屋を探し当てたものは、そこで願いをひとつ叶えられるというミッションです。また、7人の他にもうひとり、彼らを集めた張本人である狼面の少女が監督者として、たびたび出現しますが、年齢不相応の話し方がおもしろいです。ギャップの妙、というものがあります。
「言葉が通じない」と主人公のこころが思うところがあります。こころがひどいいじめを受けた真田さんや、担任の伊田先生に対して強く。また、様々な地区から集まった中学一年のクラスで、最初から遠慮もなく自分たちが主人公というように自己都合優先で、つまりでかい顔をして学校生活をするタイプの人たちがでてきますが、これは僕にとってもそういう人たちがいたなあ、と眠っていた記憶が甦るシーンでした。しかしよく、こういったことを言語化して、物語にできるものだなあ、と感嘆しましたねえ。
ここは下巻につながることではあるんですが、こころがいくら説明しても気持ちが通じず、「言葉が通じない」ような自己都合の強い傾向で、生きづらい人の気持ちを想像もできないような人たちを、「ああいう子はどこにでもいるし、いなく、ならないから」(下巻p170)と断じるセリフがあります。これには僕なんかはいい歳をしていながらも、身が引き締まる思いで読んでいました。
あと、登校せず勉強もせず外出もせずひきこもっている主人公・こころが「怠け病」だと思われることを嫌がり、恐れているシーンにいくつか出くわすんです。「怠け病」というのは、そういうレッテルを貼りやすい人がいるんですよね。「怠け病」に見える人には、だいたいにおいて事情があると僕は思うほう。
上巻は5月から12月まで。7人が、お互いを知っていき、絆が深まっていきます。
* * * * *
下巻は、大きく物語が動き、「なんだ、いきなりやってきたな!」といった感のクライマックスはぐいぐい読んでしまいました。
内容にはあまり触れずに、抽象的ではありますが、以下に感想を。
「だいたいみんな、同じようなものだ」という多数派の幻想に目をくらませられがちな、「個別性」というもの。人はそれぞれ違うもの。環境も能力も違うのだから、違って当たり前です。そして、この作品に出てくる7人の中学生たちが抱える生きづらさも、それぞれが誰のものとも当たり前に違う、個別の生きづらさだったりします。それを本作はわからせてくれるところがあります。
最後、エピローグは10ページほどの分量で書かれていました。正直、エピローグ直前までは、「なるほど、そういうことだったか」という、謎解きができた知性的な脳の部分ばかりが活動してしまい、物語の整合性に気を取られるような気分でいました。しかし、それが見事だったのが、上下巻併せて700ページ以上の物語が、その10ページで驚くほど見事に終点へ着地するそのさまです。読者の昂った気持ちが、すっと、それもワンランク上の清澄な場所に昇華されておさまる感覚というか、それまでの物語の重みが闘牛のようにこちらへ走り飛んでくるなか、作者がひらりと赤いマントを翻してその勢いを削ぎ、いなしながら、読後の余韻のほうへと転化して、おさまるところへとおさめてしまうというか。ちゃんと、読者の感情面をふくらませて、納得と感動をさせて、終わらせていくのですから、作者の「物語る力量」を見た気がしました。
作者の「物語る力量」といえば、設定やプロットは練られていますし、キャラクター構築ではそのキャラクターの心理がどう形成されたのかが、納得のいく形で為されているなあと思いました。ただ、こうやって事前にきちんと裏側や細部を決めて物語を作ると、あれはこういうことだし、これはこうだし、これは作者がこう考えたのだろうな、などと、すべて理詰めでわかってしまうきらいがあります(「おそらくこうだろう」という推測も含めて「わかる」とすると、です)。これは今の時代傾向としてそういう物語が好まれているというのはあるでしょう。仕掛けたものががおさまるところにすべておさまってすっきりするということもそうです。ですが、「わからない」ということを感じさせることも大切ではありますし、これはきっと好みや気分の問題なのかもしれませんが、ちょっと、この物語がまた違う形で編まれていたら、というifをうっすらと想像せずにはいられなかったのでした。
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