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『「いき」の構造』

2024-01-17 19:35:01 | 読書。
読書。
『「いき」の構造』 九鬼周造 藤田正勝:全注釈
を読んだ。

京都大学教授で哲学者の九鬼周造による1930年刊行の論考、解説・注釈付きです。

日本人が何かに「いき」を感じる感覚、「いき」を自ら表現するふるまい、それをよしとする価値感、そんな「いき」がどういったメカニズムで成り立っているかを言葉にできる範囲のぶんだけ言い表しています。著者は「潜勢性」と表現していますが、現在で言えば暗黙知のようなことであり、「いき」を構成するそのものあるいはその現象は存在していても、言葉にならないものについては、諦めています。というか、「いき」には、概念的分析と意味体験とがあり、後者について言葉で表現を尽くすことはできないものだし、さらに通約不可能性(それぞれがそれぞれの論理を持っていて、お互いに通じはしないというようなこと)があるとしています(p150あたり)。こういったところは、序文では覇気に充ちていた著者のブレだといえばブレなのかもしれませんが、取り組んでみたら思いのほか難しい対象だったということがあったのかもしれません。

「いき」は媚態、意気地、諦めという三要素があるとしています。媚態については、「いき」の基盤をなすもので、これは欧米にもあるとしている。意気地と諦めという要素が入って、そこに日本文化としての「いき」が生まれる。武士道の理想主義と、仏教の非現実性があいまって作り上げた価値感覚だ、と著者は述べています。



さて、ちょっと横道に逸れます。「いき」の要素の三つ目としての「諦め」についてですが、運命に執着しないことからくる無関心としてのものと説明されています。なるほどそうか、もしかすると、日本人の無関心気質ってこういうところにあるのかもしれない、と思いました。

無関心のよくないところは、「わたしは誰にも関心を持たれていない」という強い孤独感を感じたときに、脳(心理面)が自動的に被害妄想を作り出すらしいことです(そういった論文があると、スティーブン・グロス『人生に聴診器をあてる』にある)。そういうわけで、無関心は人が病んでいく契機になるということだともいえるのではないか。だから、この見地から言えば、人は適度に承認欲求を満たされる必要があるんです。

承認欲求については、強すぎる人がいるから言われるのかもしれないですが、「承認欲求なんか持つな」と言われがちな風潮だったりしませんか。思いついたんですが、そう否定的に対処してしまうのは、無関心をよしとする「いき」の精神・気質にそわないものだからというのもあるんじゃないでしょうか。

「いき」は、
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命をも惜しまない町火消、寒中でも白足袋はだしの鳶の者、法被一枚の「男伊達」をとうとんだ(p41-42)
__________

ものだとあります。つまり、「いき」とは死のようなものを隣り合わせにしても意気地のある態度がひとつの要素としてある。だから「いき」のなかに、意気地とともにある諦めについても、無関心が精神面において「死」を隣り合わせにするものだとしても、それをよしとしてしまう精神性として成り立っているのではないか、と類推できると思ったのでした。

というか、承認欲求なんて「いき」じゃないからやめろ、というのが根本・本音なのでは? そんなわけで、日本人はつめたい、だとか言われて、実際そういう面がありもするけれど、その精神性を下支えしているのは、「いき」の精神性なんじゃないだろうか、という推測話でした。「いき」の精神性についてもまあわかりますし、実際そうやって生きているところがありますけれど、かたや無関心すぎるのには僕は反対だし「いき」を生粋にやりとげようとも思わない、っていういわゆるダブスタ的な考え方で揺れているほうが、マシな部分ってあったりしないでしょうか。



閑話休題。

九鬼周造は東京生まれの人だから、江戸文化の「いき」を日本の文化として位置付けたのだと思う。たとえば女性の化粧について、江戸では薄化粧を「いき」としたのに比して、上方では濃い化粧をよしとしていたとあります。そういったところに、本当ならば優劣はないのでしょうが、上方のそれを著者が評価するところはなかった。江戸の薄化粧は「いき」であり、「いき」は世界に負けない日本文化であるとしている。

本書では、「いき」を世界に類のない日本独自の文化(それも質の高い文化)と位置付け、日本人に自負心すら振りまくような態度もちらっとでてくる。「いき」は、日本独自のもので、他の追随をゆるさず、孤高のものだ、つまり、日本文化の優れていて尖ったところである。ゆえに、日本は世界の中でも劣ったものではないというプライドすら感じられるのです。他の国にない感覚を持っていて、さらにそれは優れていて文化的な高みにあるというか、日本人の感性の質の高さをあらわし、それは世界に対して「どうだ!」と胸をそらしてみせられるようなものだ、という自負心が感じられもしました。1930年くらいという時代なのか、ナショナリズムが感じられるところがごく一部にあるのです。きっとコンプレックスの作用もあるかな、と思いました。

というところですが、それにしても、注釈・解説なしには読めなかったです(解説があっても難読なのだけど)。巻末解説でわかったのですが、著者が自ら駆使する論理には、本記事のはじめに書いたように、ブレてしまっているようなところがあるし、それ以前に語句が難しく、素で読んだら無理といった感じです。もうね、「注釈した方 Good Job!!」なのでした。


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