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『ヘヴン』

2024-05-23 00:23:01 | 読書。
読書
『ヘヴン』 川上未映子
を読んだ。

著者としては初の長編作品だったのが本作でした。

いじめや嫌がらせを受けている主人公「ロンパリ」と、女子のコジマ。ふたりの物語です。斜視のことを俗に「ロンパリ」という人があるそうで、ロンドンとパリという離れたところを同時に見ているみたいな意味のよくない言葉だったりします。

さて。第6章がすごかったです。あそこで書かれている善悪については僕も以前、自作短編執筆中に同じような考えを進めたことがありましたし、その短編に痕跡を残したものですけど、本書のほうはじっくりと分量を割いて書いていました。心から血を流すぐらい真剣に、対峙している。ひとつの気付きにとどまらずにいました。

僕がこのような善悪観(本書で百瀬という少年によって語られているのは、物事や行為に善や悪はなく、それ以前に欲求があるだけだという思想です。僕の場合は、人はすべて善を行い、それを悪だとするのは周囲や社会に過ぎないというものでした。近しい思想だと思います)にたどり着くときまで、本作は何年も先んじています。プラトンのソクラテス活躍シリーズにもこのような善悪観があったとは思いますけど、そこからさらに現実世界に落とし込んで論理を展開していたのが本作。わがままを言うと、この第6章で語られる思想に対して、「世界観」や「人間観」といった価値観の在り方が人の考え方を左右しているという視点をぶつけたいですね。世界観や人間感が歪んでると思わないか、とこの思想を述べた百瀬という人物にぶつけてみたくなります。こういう悪役とは格闘したくなるものですよ。しかしながら、この第6章の会話の応酬は見事に編まれていました。

この第6章目でぐぐっと深まっていったので、ふつうにおもしろい小説だったならば最後の章まであとはそのテンションを維持すれば成功だったのかもしれないのですけれど、そこから変容を続けて最後の章でさらに上げてきていました。佳境の部分では破局と混沌とをきれいにまとめあげずに凄みある表現をできる技術がありました。踏み込んで、さらに踏み込んで、まだ行くかっていう作り。胆力、勇気、体力、精神力、捨て身、腕、といったそれらがどれも高レベルじゃないと、こういう作品は書けないでしょう。百瀬とコジマの、どちらもどこか偏っていると思える思想が、最後に主人公の中で交差するところにはしびれる。そういった土壇場で成し遂げたような巧みさもありました。

序盤こそ抑制の塩梅のいい文体だと思いました。すっきりと、隙間が狭くなったり広くなったりしない文章で内容が進んでいっていましたから。そういった基盤の元、最後には快刀乱麻でしたねえ。ぎりぎりに攻めた難しい殺陣の予定を実際に行ったら、それ以上の震えるような結果を出してみせた、みたいな感じです。そして、絶望からのRebornでこの小説は締めくくられる。深くこの世界に入り込んだ読者としては、コジマはどうなったのだろう、という心配はあるのですけども、でも彼女のその後に希望を重ねたくなるのでした。

といったところです。最後に、ふたつほど引用して終わります。

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「わたしは――なんて言ったらいいのかな、だいたいいつも不安でしょうがないわけ、びくびくしてるの。家でも、学校でも。でもね、なんかちょっとでもいいことあったりするじゃない、たとえば君とこうやって話してるときや手紙を書いてるときね。それはわたしにとってとてもいいことなの。それでちょっとだけ安心してるのね。この安心は、わたしにとってうれしいことなの。でも、そのふだん感じてる不安もこの安心も、やっぱり自然なことなんかじゃなくて、どっちも特別なことなんだって思ってたいんだと思うの、たぶん。……だって安心できる時間なんてほんの少しだし、それに人生のほとんどが不安でできてるからってそれがわたしのふつうってことにはしたくないじゃない。だから不安でもない、安心でもない、そのどっちでもない部分がわたしにはちゃんとあって、そこがわたしの標準だってことにしたいだけなのかも」と言ってコジマは唇をあわせた。
「標準」と僕は復唱した。(p41)
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→そして、その標準を自分自身がちゃんとわかっていないと、ぜんぶがほんとうにだめになるような気がする、とコジマは続けます。そのとおりだ、と僕は思ったのです。なんていうか、標準感覚を失くしかけているから余計にわかるんですよ。このコジマという女の子の名前は、名字なのか下の名前なのかはっきりでてきません。まあ「小島」とか「児島」を当てて想像しやすいのですが、あえてカタカナ表記なので、リストの娘でワーグナーの妻だった女性(ニーチェとも交友がある)が、コジマという名前だったから、もしかして彼女由来かなと思いもしました。文化的セレブの名が託されたかのようで、ご加護がありそうというか、どこか拠り所となりそうというか、そんな気がしてきます。村上春樹さんの「カフカ君」みたいな命名手法へのオマージュだったりするんでしょうか。


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 駅について帰りにスーパーによった。買い物客はあまり好ましくない目で喪服の母さんと制服の僕をじろじろと見た。母さんは気にするそぶりもみせず、かごにほうれん草やたまねぎやスライスされた豚肉なんかを入れていった。塩をかけないで入ったけれどいいのと僕がきくと、スーパーは強いからいいんじゃない、と言った。買い物袋をふたつとも僕が持ったマンションについてエレベーターを待ってるときに、ついて来てくれてありがとう、と母さんが僕の顔を見ないで言った。つぎあったらまたついていくよ、と僕が言うと、母さんはため息を吐いて僕の肩を抱き、困ったような顔をして笑ってみせた。(p139)
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→なんでもない箇所なのだけど、なんだか好ましい倦怠と健全の間という気がするのでした。うまく言えませんけど、こういうのは好きです。主人公の、父の再婚相手であるこの母は、こういうどこか調子のくだけた人で、だからこそなんだか信じられる人なんですよね。こういう人はいいですよね。


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