読書。
『せいめいのはなし』 福岡伸一
を読んだ。
生物学者である福岡伸一さんによる対談集。
内田樹さん、川上弘美さん、朝吹真理子さん、養老孟司さんら、
4氏がそのお相手で、そのゲストたちの著作を
ぼくはどの方のも読んだことがありました。
なので、とっつきやすさみたいなのはったかもしれない。
それでも、第一章の内田樹さんとの対談では、
なかなか専門的で、知識がないとういていけないような
言葉が多々でてきていました。
でも、不思議なことに、そんな水面際のあっぷあっぷ状態な読書こそが、
刺激的だったりもするのです。
まあ、ものによっては水面にすら顔を出せない読書もあるんですけどね、
難しすぎて・・・。
福岡さんの唱える生物学の考え方の中心に、
「動的平衡」というのがあって、
それは、一言で言うのはむずかしいのですが、
本書の裏表紙の文言を拝借すると、
「絶え間なく入れ替わりながら、常にバランスがとれているという生物のダイナミズム」
ということになります。
たとえば、生物の細胞は、食べたものの原子が、
あるものは脳に入り、胃の細胞になり、肝臓の細胞になり・・・、
というようにまばらに入れ替わり、それが半年もするとすべての細胞が入れ替わっていたりする。
なのに、ぼくらは別人にはならないし、
記憶がすべてなくなったりも顔がまるで違うようになったりもしない。
それは、前後左右上下の細胞が、あたらしく入れ替わってきた新入りの細胞に対して、
「きみが入ってきたところはこうこうこういう役割でね」という情報をやりとりし、
それにともなって、新入りの細胞がまるで空気を読むかのように、
元にいた細胞と同じ役割をするものになるからだそうです。
それで、そういうのを「動的平衡」と言っていました。
その「動的平衡」を拡張して経済や社会に合わせて考えてみたりもしていますが、
そのへんは著者自身も言っている通り、
簡単にあてはめていいものか、との批判もあることでしょう。
小説家である川上さんや朝吹さんとは、
小説や言葉についての話がありましたし、
養老さんとは一層深い、意識や言葉についての話がありました。
そのなかでも、タモリさんを考察した養老さんの話はおもしろかったです。
最後の5章目は著者によるあとがきに似た「まとめ」的な文章でした。
気をつけたいことがひとつあって、
それは時間に関する考え方で、
生物学者である著者の福岡さんは、時間なんていうものは実存しないもので、
たとえば便宜的な尺度のようにとらえているふしがあります。
でも、科学雑誌の『ニュートン』などを読んでいると、
時間というものは実際に存在していて、それは空間と関係があったりするんですよね、
「時空」といっしょくたにして言われる通りに。
ぼくも勉強が足りていないので、詳しくここでは説明できませんが、
たぶん、宇宙論だとか最新の物理学だとかでは、
時間というものは実存するものだとされていると思います。
このあたりこそ、WEB検索で調べてみるのも手ですね。
つまりは、すごくおもしろい発想と生物学的に裏打ちされた考え方で
意見を述べられている著者なのですが、
その範囲として「生物学的見地」というエクスキューズを、
はんなりとでも考えておきながら読むといいかもしれないです。
否定するわけじゃなく、全肯定するわけでもなく、
そういう留保をたまに持ちながら、
著者の言葉に耳を傾ける(実際は文字を目で受け止める)のがよいのでは、
と今回、感じました。
そうはいいつつ、対談はエキサイティングだし、ウイットに富んでいます。
ネット文化や情報社会についての考えには、
拍手を送りたい気持ちで「そのとおり!」と頷きながら読みました。
おもしろかったですね。
『せいめいのはなし』 福岡伸一
を読んだ。
生物学者である福岡伸一さんによる対談集。
内田樹さん、川上弘美さん、朝吹真理子さん、養老孟司さんら、
4氏がそのお相手で、そのゲストたちの著作を
ぼくはどの方のも読んだことがありました。
なので、とっつきやすさみたいなのはったかもしれない。
それでも、第一章の内田樹さんとの対談では、
なかなか専門的で、知識がないとういていけないような
言葉が多々でてきていました。
でも、不思議なことに、そんな水面際のあっぷあっぷ状態な読書こそが、
刺激的だったりもするのです。
まあ、ものによっては水面にすら顔を出せない読書もあるんですけどね、
難しすぎて・・・。
福岡さんの唱える生物学の考え方の中心に、
「動的平衡」というのがあって、
それは、一言で言うのはむずかしいのですが、
本書の裏表紙の文言を拝借すると、
「絶え間なく入れ替わりながら、常にバランスがとれているという生物のダイナミズム」
ということになります。
たとえば、生物の細胞は、食べたものの原子が、
あるものは脳に入り、胃の細胞になり、肝臓の細胞になり・・・、
というようにまばらに入れ替わり、それが半年もするとすべての細胞が入れ替わっていたりする。
なのに、ぼくらは別人にはならないし、
記憶がすべてなくなったりも顔がまるで違うようになったりもしない。
それは、前後左右上下の細胞が、あたらしく入れ替わってきた新入りの細胞に対して、
「きみが入ってきたところはこうこうこういう役割でね」という情報をやりとりし、
それにともなって、新入りの細胞がまるで空気を読むかのように、
元にいた細胞と同じ役割をするものになるからだそうです。
それで、そういうのを「動的平衡」と言っていました。
その「動的平衡」を拡張して経済や社会に合わせて考えてみたりもしていますが、
そのへんは著者自身も言っている通り、
簡単にあてはめていいものか、との批判もあることでしょう。
小説家である川上さんや朝吹さんとは、
小説や言葉についての話がありましたし、
養老さんとは一層深い、意識や言葉についての話がありました。
そのなかでも、タモリさんを考察した養老さんの話はおもしろかったです。
最後の5章目は著者によるあとがきに似た「まとめ」的な文章でした。
気をつけたいことがひとつあって、
それは時間に関する考え方で、
生物学者である著者の福岡さんは、時間なんていうものは実存しないもので、
たとえば便宜的な尺度のようにとらえているふしがあります。
でも、科学雑誌の『ニュートン』などを読んでいると、
時間というものは実際に存在していて、それは空間と関係があったりするんですよね、
「時空」といっしょくたにして言われる通りに。
ぼくも勉強が足りていないので、詳しくここでは説明できませんが、
たぶん、宇宙論だとか最新の物理学だとかでは、
時間というものは実存するものだとされていると思います。
このあたりこそ、WEB検索で調べてみるのも手ですね。
つまりは、すごくおもしろい発想と生物学的に裏打ちされた考え方で
意見を述べられている著者なのですが、
その範囲として「生物学的見地」というエクスキューズを、
はんなりとでも考えておきながら読むといいかもしれないです。
否定するわけじゃなく、全肯定するわけでもなく、
そういう留保をたまに持ちながら、
著者の言葉に耳を傾ける(実際は文字を目で受け止める)のがよいのでは、
と今回、感じました。
そうはいいつつ、対談はエキサイティングだし、ウイットに富んでいます。
ネット文化や情報社会についての考えには、
拍手を送りたい気持ちで「そのとおり!」と頷きながら読みました。
おもしろかったですね。
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