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“六球会優勝祝賀会“    ‘17-12-19

2017-12-19 07:30:01 | Massy's Opinion

massy’s Opinion

今年の六球会優勝

去る11月21日 快晴の神宮球場で’17年六球会が行われた。慶応対立教が第一試合。僕は午後一時にはサンノゼへ行く為にリムジーンバスに乗らなければ成らない。幸い第一試合なので3回くらいまでは見られるかな?と思い神宮へ出掛ける。兎に角、何人集まるか?人数が心配。幸い14~5人集まって居たので、安心した。見渡した所、キャッチャーが居ない、と山下大輔君がキャッチャーを遣ると志願してきた。まあ、BayStars ファンの人には堪らない見所だ。勿論、僕も始めて...「おい、大丈夫かい?...」「大丈夫ですよ、中学のときに遣ったことありますから...」投手は実績のある吉田君(43年豊多摩出)立教は黒澤君が最年長だろう、今年も元気にキャッチャーをやって居た。慶応は此の試合に勝てば優勝だからベンチの中も何時もと違う緊張した雰囲気だった。2回半ばで僕はソットベンチを出て家に帰った。どうも結果が気になるので、河内君に電話したら10対0コールドで楽勝して優勝だとの事。山下君のレフト線の快打が決め手だったと。安心してフライトが出来た。

 優勝祝賀会と監督交代

今年度から、優勝チームに持ち回りの盾が作られた。六球会も各校の幹事の努力でキチンと組織が確立されてきた。主幹事の東大さんのマメさと手際よさでここまで続いて来た。三田倶楽部では、加藤太郎会長の時代に六球会の球場代の負担金を予算組みして貰った。やっと認知された訳だ。一校5万円のグラウンド代は参加者の負担になると結構1人5千円位になり地方から来る人も居るので大変だ。先ず監督が試合に出さなければならづ大変だ。個人の分担金が無ければ、遠慮なく選手を使える。優勝祝賀会は銀座の「暫亭」で飲み放題、ゴルフ組も含めて、24人位集まった。濱監督の乾杯で会が始まったが賑やかなことこんな楽しい会は久しぶりだった。考えてみると僕は加藤雄司さん、浅沼さんに言われて人数が足りないから「絶対出て来い」と命令されて、確か58才の時に、各校の前で浅沼さんが低年齢の了解を取り参加させられた。結局、キャッチャーを遣らされて、投手が当時の梅沢幹事長ボールは届かないしネット裏の壁までの遠いいこと「これは人を集めなくては...」と思い先ずキャッチャー同期の広沢君を誘い、内藤、河内、嵐、薄。赤木、巽君等に参加をして貰った。こんな人集めに苦労した時代から見れば今後は三田倶楽部が続く限り六球会は万全だろう。 会合の中で、濱監督が辞任を表明して、次期監督を加藤太郎前三田倶楽部会長に指名した。全会異論のあろう筈が無く、来年は新体制で臨むことになった。会の中程で「まあ、皆 年を考えて遣れよ。内藤も巽もボールがホームまで届かない、練習してきたのに...」当たり前だよ、藤田さんだって始球式の時に、2歩くらい前から抛ったんだよ。45度位の高さに抛らないと届きやしないよ...」と言ったが、帰りしな吉田君が「マッサン、僕はねネットに向かって投げているんですよ。ネットはボールを弾かないでしょ、だから拾いに行くんですよ。それを遣っているから、今日のようなピッチャーゴロ拾えるんですよ」と言っていた。皆、野球が好き島村、吉田の両投手があと5年は頑張ると言っていた。兎に角、新監督で万全だろう。

・近代日本と慶応スポーツ

丁度、11月28日から12月13日まで、三田キャンパスの東館8回ホールで「近代日本と慶応スポーツ」と言う特別展示会が開かれた。慶応スポーツと言えば当然野球部が出てくる。後輩の普段電話など掛かって来ない連中から「マッサン、是非見に行って下さいよ...」と言って来た。僕の同級生に「復活早慶戦時のキャプテン」をしていた山岡さんの息子が居る。

当然、何か関連のものが出ているだろうと思って、誘ったら「明日、息子と孫と見に行く」と言う返事、彼は親子3代野球部で父上は三田倶楽部会長も長く勤められた。商工の3年の時からセンターで大学の試合に出ていた名選手だった。口癖は「ファインプレーをファインプレーでなくせるプレーを...」と言うことだった、僕は当時意味が良く解らず聞き質したら、「要するにボールの下へ早く行って、難しいボールでもイージーフライの様に胸で取れ 」と言うことだった。野球部関係の展示物の中には、前田祐吉前監督の「野球ノート」とそれについての葉書が展示されていた。先生のお言葉は有名な「練習は不可能を可能にする」である。何年か前、確か昭和40年だったろう。小泉先生が六大学野球の始球式をされた事がある。晩年何かの周年行事が三田で行われた時、松尾先輩から聞いた話であるが、小泉先生が「始球式の為に練習をするから誰かキャッチャーを連れてきてくれ」と言われて、その時にお宅へ伺って練習の相手をしたのが、六球会今度の監督加藤太郎君だった。と言う話を聞いた。僕は一度太郎君に「誰に行けといわれたんだよ」と聞いてみたかったが、此の祝賀会で、太郎ちゃんが隣に居たので、聞いて見た。そうだよ、四捨五入すれば同じじゃないか!」「前田さんに行けと言われたんですよ」「そうか、前田さんによく聞いておけば良かったな、僕とは5年先輩になるんだけれど、僕が75歳に成った時に、『おいお前、俺と同期だぞ』「とんでもない恐れ多くて...第一前田さん80でしょうと言われたものだ。太郎ちゃんには、「小泉先生は、練習は不可能を可能にするを実践されたんだろう。あの日の小泉先生のボールは見事なストライクだったよね。君は貴重な先生の生き証人だぞ、大体何球位練習されたの?」「いや、ほんの5球位でしたかね!」

今、今上陛下の退位問題で陛下のご親友の明石さんから、バイニング夫人と小泉先生の事をよくお聞きをする。御ふたかとも素晴らしい人格者だったと言われている。

兎に角、本当に良い祝賀会だった。