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‘24―9-9 “自動車販売の流れの中で90年(1)”

2024-09-09 21:54:09 | Massy's Opinion
★Massy’s Opinion
・明日は僕の誕生日 早いもので、生まれてから90年である。僕の今までは部品商の一人っ子に生まれて周囲の人と、健康に恵まれて今日まで生きて来られた。振り返って見ると自動車の事は昔の事を知らない人が多く成っている。順序は未整理だが思い出す儘に今月は3回に分けて覚えている事を書いて置こう。
*日本の自動車販売 発祥の地
東京日産の20年史によれば、石沢愛三氏(明治11年、芝愛宕下3丁目、生まれ、早稲田大学出、)が日日新聞、毎日新聞の記者を経て、大倉男爵の要請により、東京自動車商会の経営に当たった。同商会が日本自動車株式会社となり、昭和10年12月、鮎川義介氏の要請で、ダットサントラック会社となり、後に、日産自動車販売株式会社の創立と成った。た。
旧芝区内に自動車関係の業種が密集したのは、この大倉男爵は自動車に興味を持たれていて、お屋敷の周辺には、大倉邸に出入りする八百屋、魚屋を始め霊南坂を上る大八車の後押しを幾らかのお金を貰いそれから一年発起して一台のトラックを買い、運送会社を始めた人が居たとか、男爵邸の車、磨きをやっていた。(現 ホテル・オオクラ)と言う人が僕の東京日産入社時代には、まだ数人在社していた。其の頃の人は、増田商会と言う部品屋がこの辺にあったことを知っている人が居た。この大倉邸と東京自動車商会、が自動車販売の発祥の元に成ったのだ。「汽笛一斉新橋を」の鉄道唱歌にある様に新橋駅、汐留が物流のポイントに成って運送業が発達したのだろう。昔、東京陸運事務所のブレーキテストは、所内の人造坂を上り、下る時に検査官の号令でブレーキを踏み車検期間が1年とか2年と判定された。近所の修理工場は車検場へ行く前に、霊南坂の脇の江戸見坂でブレーキテストをして、検査場に行って居た時代が在った。
まあ、こんな時代で、僕自身の中では、日本の自動車販売の発祥の地は芝、愛宕下になるのである。

*僕の生い立ち
さて、当時の虎ノ門近辺事情を書いたが、僕の家は、旧芝区田村町6丁目6芝郵便局の隣である。9尺間口、奥行き3間の店である。親父が18歳で部品商を開業して小僧さんを二人住み込みで置いたのである。此の住み込みと言うのは、3食皆家族と同じ物を食べ、旦那だの子供だの区別するわけにはいかない。狭い家の中で一緒である。洗濯物も一緒。雇人と区別をする場所がある家は良い、そんな大店は余りなかった。晩年、親父と母の、職住について意見の相違はこの辺にあったと思う。(母は職、住分離を強く希望)

・本籍地は、東京市新宿区四谷1-9
・産院は、 慈恵大学病院 命名 虎ノ門金毘羅神社
・菩提寺、 東京都港区 安蓮社170年位前から増田家の墓がある。
父は、本籍地の生まれ、祖父の金太郎さんは株屋で羽振りも良く、女中さんを5人位使って居たとか...父が小学生の頃、大損をして神谷町の貸家に転居せざるを得なくなったとか...曾祖父の清三郎さんは、増上寺の僧兵の頭だったとか...それで安蓮社が菩提寺に成っているとの事。父は姉、弟が二人の4人兄弟、弟二人は高等小学校卒ですぐ軍隊に召集され、気球隊に配属になったとか...父は商業学校を卒業するとすぐ日加商会と言う部品商に務め、18歳の時には、部品商を僕の生まれた田村町で開業している。当時の商店は、間口9尺、奥行き3間と言うのが、芝界隈の商店であった。小僧さんが二人住み込み、我々は2階暮らしと言う状態だった。母の実家は、田村町1丁目、交差点の傍、新橋から虎ノ門へ続いている道の角から2軒目で、油屋をやっていた家の4人姉妹の3番目である。土間に大きな箱があり、その中が仕切られていてゴマ油、麻油とか色んな種類の油が入れられていた。店の前にはポータブルのガソリンスタンドを置いてガソリンも売って居た。そこに、当時、流行りだしたタクシー業者今の日本交通とか国際自動車の創業者がガソリンを入れに来ていたのである。当時の田村町1丁目の交差点は、日石本社、隣に日比谷公園寄りに三井物産別館があり、東側に飛行館、新橋寄りにアンパンの木村屋、南側におもちゃの大黒屋(僕の慶応で同級生)、西側は、うまいお煎餅の忠勇堂があり、今でも目に浮かぶ。日石と三井物産別館の間に虎ノ門の方に向かって行くと修理工場が4~5軒並んでいた。

*ヤナセ自動車は、三井物産の自動車鉱油部の鉱油部が分かれて独立したのである。
三井物産機械部に勤務していた梁瀬長太郎氏は大正4年に独立、同社から輸入自動車と輸入鉱油類の一手販売権を譲り受けるとともに、日比谷公園前の270坪の店舗及び工場を拝借し、梁瀬商会として営業を開始した。ヤナセはガレージもやって居り、其処にタクシー―を始めた人たちが車を置いていた。今の日本交通の創業者、川鍋秋蔵氏はその当時から車を2台持っていて、1台は車を持てない同業タクシー希望の人に貸していたそうだ。
 跡地は後に三井住友銀行の本店になり、現在は東京ミッドタウン日比谷の一部にあたる。僕の母の実家は前述した通り、油屋で、ガソリンも売って居たのでこのヤナセガレージに止めた車は殆どガソリンを入れに来たのである。女4人姉妹、皆、若かかった時代、店の人気が出たのは、想像がつく。

*太平洋戦争の戦中,戦後
太平洋戦争中色々な事が変わって起きてきた。あらゆる産業が大戦用に向けられてきた。当時日石本館と三井別館の間に道があり両側に小さい修理工場が4~5軒あったが、戦争中に合併させられたのである。この三井の別館の中には「海軍艦政本部」と言う部署が配置されて居た。後に聞いた話であるが、ここでかの有名な「人間魚雷」が考えられたらしい。そこで、修理屋2軒と部品や1軒が合併させられて,梁瀬さん、川鍋秋蔵さん等が少しずつ株を持たされて「日の出自動車工業株式会社」が出来て人間魚雷用の中古エンジンの整備を一部始めたのである。当時の人間魚雷は1400艇位が考えられたらしい。
これらは、記録が残っている訳でもなく、親父から聞いた話である。当初、浜田山の三井グランドの辺りに地下工場で大きな工場を作ろうとしたらしい。そんなこともあり親父はこの杉並方面に家を探してこの浜田山を見つけたようだ。当時、この杉並近辺にはプリンスの工場もあり、随分自動車生産の準備はしたらしい。旧後藤知事時代の大東京構想には、神田上水、玉川上水を境目に巨大な大東京構想があった様である。当時の浜田山一帯は神田上水を底に田んぼが広がり、いくつもの灌水用の小川が神田上水の分流となり、冷たい、澄んだ奇麗な水で、ウナギ、タナゴ、鯉、フナ、ナマズ等の小魚が沢山いた。当時、韓国人の労務者が風呂代わりに水浴びをしていたのを覚えている。柏の宮公園は自然豊かな良い場所で縄文土器のかけらも僕らでも発掘出来た。そんな環境の所で、海軍の工場設置の考えも生まれたのかもしれない。小学校5年で高井戸小学校に編入したが、この時期。米軍の東京空襲は激しさを増し、富士山を目当てに北上してきた米機は、富士山から東に曲がりと東京中心に向かうルートが爆撃ルートに成り、僕は鎌倉街道沿いで、先導するグラマン戦闘機の機銃掃射を受けたこともある。
話が大分ずれてしまったが、戦後は、三井クラブの野球場4面。テニスコート12面位。50メータープール1個、200メーターの陸上トラック1面の大きなグラウンドが出来。隣の柏の宮公園には、野球場。テニスコート8面、プールとグランドがあり、未だ、野ウサギが居るような環境だった。三井のグランドでは、当時グラウンドのなかった塾の幼稚舎、普通部,商工、塾内リーグなどは随分使わせてもらったものである。

*日産自動車の役割
さて、本題に戻そう。戦争中は日本の重工業はそんな力強いものではなかった、明治時代に海外に目をむけるように成り、急速に近代化に向かったのであろう。その中に、戸畑鋳物の宗主、鮎川義介の「戸畑鋳物」からダットサンが生まれた。此の当たりからの話はいろいろな文献が在るし、正確な記事もあるだろう。当時、日産以外にも数社の自動車会社もあったようだが日産が一番大きく進んで居たのだ。三菱が軍艦、戦車等の重機を中心に作った様だ。当時の軍用トラックは、大体、その後の5トン、トラックとバスだったと思う。戦後、日産はこのトラック、バスの路線から、小型トラックやバンに生産の中心が移っていった。

*第二次世界大戦が始まると国内は戦時色一色。町の自動車屋も軍用車両か軍隊に収める食料輸送の車両の整備で一杯になって居た。神谷町周辺の自動車修理工場や部品屋に務めていた人々は徴兵、志願等で軍隊に入った後も、殆ど近くの部隊に配属に成り復員も殆ど同じ時期だった。日産は横浜工場が主力で戦後は大型トラックから生産の中心を小型のダットサントラックに移し、折からの戦後復興ブームに乗り、歴史的なストライキを乗り越え,他社を寄せ付けないシェアーを築き上げて行くことが出来たのである。此のストライキは矢張り日産の中に大きな種を残していると思う。日産の労使挙げた再建、民主的労働運動、川又社長、石原社長の「私の履歴書(日経新聞)」に出ている様な海外進出に対する見解の調整が一大難事だったと書かれている。私は、この時代販売労働組合の東京地区の委員長を専従で3年していたので、実際に自動車労連が宮家会長から塩路会長えの交代、販労(ディーラー)と日産労組(メーカー)とのギャップをよく知っている。この当時の日産自動車の社内は、「どちらを向いて良いのやら...」川又、石原、宮家、塩路の焦点探しに疑心暗鬼が渦巻く中で、ブルーバードを中心に車は売れまくって居たのである。私は、メーカーとディーラーの賃金水準の格差を無くすように主張して来たが、ある労連大会の時、配下の大会代議員にある議案に反対の挙手をさせた。大会後、販労の組合長に呼び出され、「なんであんな事をさせるんだ...」とお叱りを受けた。もう一つ、販売店の持っている、メーカーに対する要望を自動車労連として、メーカーのトップに知って欲しいと考えて、石原社長と販労の幹部との労使懇談会の開催を要求した。勿論、塩路会長から申し入れをして貰ったのである。この会議の時、塩路さんは30分遅れて来た。わざとである。勿体をつける為である。私は、この時すでに職場復帰をしていたが、職能人として組合側から出席を要請され、司会は当時日産の国内営業のトップ大竹専務だった。冒頭の話は、石原社長の「セールスは本当のところ一日何軒訪問できるのか?」と言う事から始まった。僕は、「一日午前中2軒、午後3軒,でしょうね。お客様との商談は、団体交渉と一緒ですから...」約2時間位の時間だったが販労サイドから出た組合幹部は皆、元気にいつもメーカーに対して持っている不満、疑問を発していた。その後、塙体制が終わるまでこんな会議が開かれた事は聞いていない。販売店の経営者も日産自動車の問題意識の強い連中もこの会議の様子を非常強い関心を持っていた。