イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

三度病院へ・・・

2016年12月08日 | Weblog
ここ数か月、再び腰が痛くなってきた。
今度は左足付け根の奥がキリキリ痛むし、ふくらはぎはほぼずっとしびれている。刺身を造ろうと魚を三枚におろしていると立っていられなくなる。今までとは異次元の痛さだ。
春までにはなんとかしなければと思い、今日のような風のない穏やかな日なのに病院へ向かった。

今日訪ねた病院はいつもうちの奥さんがお世話になっているところだ。もう、15年以上前になるが脳腫瘍の摘出手術を受けたのだがその時の執刀医の先生がここに移ってこられている。半年に1回はこの先生のところで検査を続けてもらっているのだ。

ずっと昔、椎間板ヘルニアと診断をされていて、受診科目を調べてみると整形外科か脳神経外科となっているので運がよければこの先生に診てもらえるのではないかという思いからだ。
ヘルニアというのは手術をしてもあまりよくはならないというような話も聞いているので、どうせ失敗したとしてもこの先生にやってもらったうえでなら納得がいくというものだ。

問診票を提出すると、希望の先生はいますか?という質問があり、この先生の名前を告げたが、あなたは整形外科のほうがいいし、この先生は脳が専門で腰は診ないんですよとのこと。これはまあ仕方がない。
しかし、今の病院って先生を選べるシステムになっているというのは驚きだ。

レントゲンを撮って診察に臨むと、先生曰く、椎間板がすり減って大分腰の骨がずれていますね・・・。とのこと。確かに素人の僕が見ても画像の背骨が四分の一ほど外にずれているのがわかる。
もうすぐポキッといってしまうのではないかという感じだ。
椎間板ヘルニアというと骨と骨の間のゴムみたいなものがピョコっと飛び出ているようなイメージだがこれはそれどころではないようで、なるほどこれは整形外科だわ・・・。

先生の診断では、体が固くなっているからまずはストレッチをして股関節を柔らかくしていきましょうとのこと。
下手をすれば入院になるのかと心配していたがまずは体を鍛えろということらしい。

過去2回の受信では、1回目の医師は画像をみていきなり手術しますか?というような切りたがり屋じゃないのかと思えるような人で、2回目の医師は、わしの所へへ来るのは10年は早いというような偉そうな人だったが、今度の先生はなんとなく信用がおけそうな人だった。

自分の息子を見ていると、こんな奴が医者になっていくというのなら世の中の医者は全員信用できないなどと思える今日この頃なのであるが、たまにはいい先生にも当たるものである・・・。
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「続 仏像―心とかたち 」読了

2016年12月04日 | 2016読書
望月 信成、佐和 隆研、梅原 猛 「続 仏像―心とかたち 」読了

続編は弥勒菩薩そしてその他の菩薩にまつわる記述から始まる。
そして憤怒の様相を呈する明王、四天王をはじめとする武神やその他の天部から達磨や墨画の禅美術に進んでゆく。

明王の解釈では、通常、仏の道に帰依できない衆上に対して、どうしてそうなんだ!という明王の心が憤怒の形相として現されているとされているけれども、著者はもっと踏み込み、それは人々自身が煩悩を捨て去れない自分自身の心に対する怒りなのだと解釈している。自分自身を映している。そういうことだ。
そしてその怒りの様相を如来、菩薩の穏やかな表情と比較し、前者はデュオニソス的表現、後者はアポロン的表現と表し、理知的、論理的なことばかりでは人は退屈してしまう。そんな中から生まれてきたのがデュオニソス的な明王なのだ。

そんな衝動的な面をもっと突き詰めて生まれてきたのが天部である。
そこには難しいことはわからない、しかし即効でご利益が欲しい、そんな人々の願いを満足させるためにさまざまな天部が生まれた。ほとんどの天部は元は仏を守る武神であったけれども、人々へご利益を授けるころにはにこやかな表情に様変わりをしている。七福神がその好例だ。
賽銭だけで食っていけるのはここら辺の仏様だけだと書かれているのがおもしろい。

しかし、天部たちにはもうひとつの役割がある。地獄の思想を人々に植え付けることである。仏の道に背くと地獄で苦しい目に遭うのだというのだが、著者は西洋の地獄の観念と比較し、仏教の十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)から三千世界の例を上げる。
地獄界は死後の世界のものではなく、現実の世界、今がそのものだ。太宰の文学を例に、日本の文学は地獄なしに成り立たない。それが人の心そのものだとしながら、しかし地獄の中にもまた十界が存在する。人の心は入れ子のようなものなのだ。悪いことばかりではない。
著者は、福の神や三千世界の解釈というのは日本人のやさしさが生み出した画期的な考えであり、表と裏をはっきり区分けしようとする西洋文明を追随しているような現代(この本が書かれた1960年代半ば)からこのような東洋的な思想が見直されていく時代が来るに違いないと言っているがその50年後、まさにその予言が的中しようとし始めているのかもしれない。

そして梅原曼荼羅というべき解釈が展開される。



釈迦、大日、阿弥陀、薬師の四如来を中心にさまざまな仏の心とその歴史的な移ろいを分析している。
釈迦と大日、阿弥陀、薬師をそれぞれ対比の軸として、釈迦-大日の軸では現在と未来の対比し、阿弥陀-薬師の軸では観念と実際の対比で曼荼羅を組んでいる。
釈迦は弥勒、達磨へと続いてゆく。今を生きるすべを導く仏たちだ。倫理観であったり、人間らしい立場をとる。
弥勒菩薩は56億7千万年後の未来に出現する仏であるが、釈迦の生まれ変わりとされているからここに置かれる。禅を代表する達磨も欲望を捨て去って生きる方法を教えている。
対して大日は観念を超えた形而上学的な、もしくは宇宙観を示すものである。密教が生み出した明王や観音がそれに続く。

阿弥陀は浄土、地獄、地蔵の救済という想像の世界を現しており、薬師は健康や幸福などの実利を求める仏で天部とともに区分けされている。

そして人々の心は時代ごとにその軸の間を行ったり来たりしているというのだ。阿弥陀に振れるとその後の時代にはまたゆり戻されて薬師のほうに動いてゆく。釈迦の教えから導入された仏教はその後大日如来の密教が隆盛を迎え、日蓮がそれを釈迦の思想に引き戻した。(そういえば今は高野山がけっこうブームだから再び軸が動き始めたともいえるのだろうか?)
それを繰り返してきたというのだ。これは奈良時代から平安、鎌倉、戦国時代までの話で、平和な時代が訪れると、中心にいる如来様たちへの信仰は薄れ、その後ろにいらっしゃる仏様への信仰が増えてくる。かろうじて阿弥陀様だけが面目を保っているというところである。
今のなんでも簡単に済ませてしまうファストやコンビニエンスな生き方というのはその延長線上にあるのかもしれない。
それはそれでなんとも悲しい時代になったものだ。

この本は正編と共に同じタイトルのNHKのテレビ番組から生まれたものだ。哲学者である梅原猛はこの番組から仏教に興味を持ったという。そしてこの著作が「梅原日本学」の始まりとなったものであり、偶然とはいえ、この本を手にできたということはうれしい限りだ。

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水軒沖釣行

2016年12月02日 | 2016釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 8:10満潮
釣果:コウイカ 3匹

今日は元からの予定でイカ狙いと考えていたが、朝からは冬型の気圧配置だ。とりあえず午前5時に起きていつもの煙突を見てみても煙は真横に流れている。
これはダメともう一度寝なおして午前6時に起床。はやり煙は真横に流れている。しかし、予報を見る限り風は弱まってくるはずなので午前8時半に家を出発。
午前9時過ぎにポイントに到着してみると風も波もまったく無く、まさしく小春日和。インデアンサマーだ。今日も予報を見誤った。実際の天気図を見てみると予報よりも等圧線の込み具合が緩やかにかつ乱れてきていた。
そこを自分で予測したい。日本海の北にある爆弾低気圧に怖気づいてしまっていたのかもしれない。




いつもの新々波止と沖の一文字の交差点からスタート。



アタリは間もなく出た。サイズもまずまず。前回の釣行から少し大きくなっているようだ。
しかし、昨年のように怒涛の連発とはいかない。今シーズンはかなり苦戦しそうだ。お正月の食材のために今日からストックを開始しなければならない。

ここもアタリが少ないのでもうひとつ沖にある防波堤の元の切れ目の前に移動。ここでもすぐにアタリが出た。船の流される速度は速く、もとに戻って流し始めると同じような場所でまたアタリ。
数は少ないながらもこの辺りにイカが集まっているようだがもとよりすでに出遅れている、ほかの場所を探るためもうひとつ沖の元の切れ目、工事中の場所や波止の先端部分を回ってみたがそこではアタリがなく、また最初の場所に戻ったが明るくなりすぎてしまったかその他の理由があるのか、まったくアタリがなく午前11時に終了。


記録:今日の天気図



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