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まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

死して屍拾うものなし、お墓一考

2015年07月16日 | 日記

『死して屍拾うものなし』
これ、かなり昔の時代劇、『大江戸捜査網』で使われていたフレーズですが、つい最近まで私はこの言葉のとおり、お墓にあまり価値というか、意義を感じていませんでした。

長男ではないのですが、事情があって実家に残っているので、わが家には、先祖代々のお墓はありますし、菩提寺もあり、一般的なお付き合いはしてきまいた。
ただ、お気軽に生きてきた(いる)ので、宗教的な信心は皆無で、この年まで生きてしまいました。

神さまや仏さまの存在を信じていないと、このブログでも何度か書いた記憶がありますが、実のところ、今でも、信じていないというか、うまくイメージできない、理解できないです。
死後の世界などというものは、なおさら理解できません。
死んだら、骨になる。これが私の死に対するイメージです。
だから、親の介護でも、育児でも、カミさんとのかかわりも、生きている、今、できることをやるのがいい!と思っています。

死んでしまってから、他所ごとのような人たちが集まって行う法事、お盆、お彼岸など、つい最近まで、意味なし!面倒だなぁ、と感じていました。

お盆が近づくと、毎年、お墓の話題が取り上げられますが、この頃は、お墓を子孫に継承していきにくい事情が多く、昭和のころの〇〇家のお墓という形から、個人のお墓、夫婦のお墓、もう少し進んで、合同の樹林墓地、散骨など、個人単位の死の清算の形が多くなってきているという話を聞きます。

墓地を維持していくということは、お寺を維持していくということで、実は、結構負担も多い、大変な話ですね。
最近、多少お経に興味があり本などを読みます。仏教は、人の生き方の教えですが、今のお寺は、そこからだいぶ離れ、お葬式屋さん化し、貯金がなければ簡単に、勝手に死ねません。このへんも、おかしい世の中です。

核家族化して暮らす今、親の代が大きな負担をしてお墓を建てても、別暮らしする子世代が、そのお墓を使い、守ることは難しいでしょう。都市部では、生活圏に墓地そのものが少ないという話も聞きます。
大昔の分家のように、数百メートル先に住むのであればコミも図れますが、今は、日本全国どころか、国外に家族を持つ人も多いですよね。世界の果てから、お盆やお彼岸のお参りに来るのは、どう考えても無理です。遠くに住めば、そこに生活圏ができる、これは、当然のことです。

先月、母の一周忌を行いました。私には、カミさんの両親も含め、父母と呼べる人間はいません。

死、お葬式などの事を思うと、家族の優先順位では、順当にいけば自分が一番です。もちろん、その時は、どんな形で亡くなっても骨になってしまい、私が気をもむことはないので気楽なものですが、家のお墓というものへの考え方は少し変わってきました。

散歩の途中、歩いて10分足らずのお墓に立ち寄ると、お墓に収められている先祖の末裔として今を生きている自分を感じます。法事や墓参などの人の集まりも、普段疎遠にしている人と縁をつなげる時間のように思えるようになってきました。お墓は、自分の清算の場だけでなく、今生きている人にとっても意味があるのかもしれません。

先日の法事で、外で暮らす兄は、お墓は買わないという話をしていました。都市部では、墓地購入にたくさんのお金がかかるし、それを維持していくためも、子たちに大きな負担を残します。そういうことを考えると、自分の清算の形をシンプルにしたいと考えるのも分かります。

前向きに生きることはとても大切ですが、先祖、親があって自分がある、子があるという自己存在感を感じながら生きることも大切だと思った、墓地一考でした。

歳です!

コメント (2)
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