まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

死んだばあちゃんに、罰当たり、と怒られそうだけれど

2018年08月10日 | 読経の日々
一通り草をとり、これでお盆を迎えようと思っていた畑は、台風の雨でまた青々してきた。
 
危険な暑さも戻り、作業もする気にもならないので、仏教関係のWebページを眺めながら、ぼんやり過ごした。
 
神も仏もあるもんか、で生きてきたが、ここ数年で今を生きていくための自分の中の仏性のようなものは理解もでき、心の実践も続けられている。
 
死、葬式、お寺、仏教、お布施。ち~ん!
こんな関係も、生きている人にとっては意味がある。
なるほどな、と理解も納得もできた。
 
今日のモヤモヤは、人は死んだら、極楽(天女が舞って蓮華が咲き、食うに困らず。ストレスフリー)にいけるか、地獄に落ちて無敵の閻魔総裁の国で、日々自分を攻撃する輩に悩まされ、信じた人に裏切られ・・・、苦しみ続けるのか。
 
それを決めるのは、今を生きる自分の生き方、自分の前世。先祖の行った生き方などにかかっているんだよ、というような、とても理解できない、脅しがあることだ。
 
字田舎に住んでいると、先祖の起こした事案で、今につながる人から攻撃を受けたり、差別的な言動を受けることはある。その点では、過去の行いと今が繋がっているというのは、その通りだとは思う。
 
けれど、人は死ねばそれで終わりである(と思う)。

故人の思いが遺族や関係者の心の中に残ったとしても、いろいろな異界に転生するなんてことは、理解の外だ。
 
仏教(後世の人たちが作り上げた)でいう、極楽って、『欲』の満たされた集大成のようなところに見える。
そこに行き、すべての欲が満たされた日々を送るために、今の日々を禁欲していきる?
これは、どうも矛盾している。
 
生きるというのは、欲をすてきれないから面白いし生きがいもある。同時に、悩み、苦しみもある。
欲がすべてなくなったら、人間といえるだろか?
 
自分の欲を良く捕まえて、コントールする術が教えなのだろう。
 
何もかも満たされた時空が、極楽とか天国というのなら、そんなところを目指したくないと思った。
 
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<今日は何の日>
今日は、『健康ハートの日』です。
日本心臓財団と厚生省(現在の厚生労働省)が1985(昭和60)年に制定。

私は心が弱く、酒ばかり飲んでいるので、りっぱな心臓病になりました(笑)。
 
振り返ると、ばりばりやっているようでも、人生は、消耗戦ですね。
コメント
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